京都遊学
本日から三日間、5:00、13:00、21:00に連続投稿する予定です。ぜひご覧ください!
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安政五年(1858年)のこと。私は藩から呼び出しを受けた。
「あっ、松助」
「小助ではないか」
待合室には数人の先客がいたが、その中に見知った顔を見つけ声をかける。松助と呼ばれたのは杉山律義。彼とは武術の稽古で一緒になり、同い年ということもあって仲良くなった。
「松助くん。そちらは?」
「山縣小助殿。宝蔵院流においては藩内随一の使い手です。……小助さん。こちらは伊藤俊輔くん。某と同じ松下村塾に通っている」
「お初にお目にかかります。山縣小助と申します」
「これはこれはご丁寧に。わたしは伊藤俊輔と申します。以後、お見知りおきを」
伊藤俊輔――後の伊藤博文である。これはとんでもない大物と出会ったものだ。腰を抜かすかと思った。
藩の上役が来るまでの間、私たち三人は雑談に花を咲かせた。それによると、集められた六人のうち半数を越す四人が松下村塾の塾生らしい。
「松助くんから山縣殿のことは聞いています。文武に秀でた一廉の人物だとか」
「いえ。そんなことは」
私はそんな大層な人間ではない。前世の知識があるため、他の人よりちょっと賢く見える程度だ。武術に関しては自身の才能と努力のおかげだと誇れるが、だからといって自惚れるほどのものではない。
「謙虚ですな」
という風に捉えられるのだが、これは本心である。信じてもらえないが。
「どうです? 貴方も松蔭先生の教えを乞うてみるのは」
「そうですよ。小助さん、前は断られましたがやはり考え直していただけませんか?」
俊輔と松助が入塾を強く勧めてくる。松助が言ったように、彼からは以前、松下村塾への入塾を勧められていた。しかし、私は「文学の士ではない」と断っている。先にも言ったように、知識の多くは前世の記憶によるものだ。今世で地頭によって獲得したものではない。頭の出来はよろしくないから、俊才の巣窟へ行っても役に立たないと思ったのだ。
「ご意志は固いようですな」
「残念です」
場の空気が少し悪くなってしまったが、タイミングのいいことに藩の上役が到着。微妙な空気は霧散した。
さて、今回呼び出された用件だが、それは京都への遊学だった。なんでも、最近は情勢が混沌としている。ペリー来航を発端とする西洋文明との本格的な接触、それによる混乱が原因だ。そのような時代を乗り切るため、これからの藩を担う若手に京都で見聞を深めよというのである。
「「「「「「ははっ」」」」」」
この言葉を素直に受け取るなら、私は将来の幹部候補にノミネートされてしまったということになる。できるならば辞退したいところだが、こんなところで否を言えるわけもなく。私は皆に倣って頭を下げて了承した。
その後、自宅に帰り家族に事情を説明する。すると、
「それはめでたいな。父として誇らしいぞ」
「立派にお勤めを果たすのですよ」
父と祖母からは激励の言葉をもらった。その日は親戚なんかも呼んでちょっとしたお祝いとなり、旅支度は次の日から始めることになる。
あっという間に月日は経ち、七月某日。私たち六人は連れ立って京へと向かった。西国街道をひたすら東へ行けば京都である。
道中では今回の京都遊学が話題になった。
「昨今は異国の船が頻りに来航し、先には通商条約なるものを結ばんとしているとか」
俊輔が言う。この時代にネットというものはなく、人伝に情報はもたらされる。生まれは農民、現在も足軽の家系に過ぎない彼がなぜ国家の重大事を知っているのかといえば、その師である吉田松陰の存在だ。
松陰は言わずと知れた尊王攘夷運動の思想家であるが、なかなかに破天荒な人物である。脱藩騒ぎを起こしながら東北を遍歴したり、来航した外国船に忍び込んで密航しようとしたり。やんちゃなエピソードは数多い。
一方で確かな学識の持ち主であり、兵学(山鹿流、長沼流、西洋)や儒学(陽明学)を修めている。また「飛耳長目」と言って情報収集を重視した。弟子たちを使った他、各地で修学した際に築いた幅広い人脈を駆使して情報を集めた。それが松下村塾での講義を通じて伝わったわけである。
「京には玄瑞くんがいる」
玄瑞くんとは、松陰の弟子である久坂玄瑞のことだ。玄瑞は入門する前、松陰に対する手紙で元寇のときのように使者を斬り、怒って攻めてきたアメリカと戦うべしと主張していた強烈な攘夷思想家である。手紙では現実的でないとして退けた松陰だったが、玄瑞の才能と熱意を高く評価しており、妹を嫁入りさせたほどである。
そんな玄瑞は尊王攘夷運動の中心地である京都に上り、同志と連絡を取り合っていた。時に幕府が修好通商条約を無勅許で締結したことが大問題となっており、将軍の後継者問題と絡んで大きな政治闘争となっている。
開国以来、幕府の威信低下は著しい。その原因は明白であり、米本位制ともいえる江戸時代の経済構造が限界を迎えているためだ。支配者層である武士階級は時代を経るごとに困窮していったが、彼らを束ねる幕府や藩もまた財政は火の車であった。
しかし、なかには改革に成功して事態を好転させた藩も現れた。それが薩摩、長州、水戸といった幕末に中心的な役割を果たす藩なのである。方法はまちまちではあるが、共通するのは下級藩士の登用だ。広く人材を募り、事態の打開に努めたのである(かく言う私もそういう姿勢があったからこそ、藩命により京都へ派遣されたわけだ)。そういった藩は幕府の内部でも発言力を高めていた。
また、凋落する幕府権威と裏腹に急上昇しているのが朝廷の権威である。水戸藩主・徳川斉昭の藩政改革によって水戸学が興隆、外国とのトラブル(大津浜事件)も相まって尊王攘夷思想が生まれた。
特に尊王論については幕府も問題視し、非公式ながら大政委任論を展開。幕府支配を正当化するが、これは幕府を縛る枷ともなった。つまり、国内外の政治問題一切の責任を負うことになり、権威へのダメージがより一層大きくなる結果になったのである。
先の将軍後継者問題でも朝廷がアクターとして登場した。一橋派は朝廷工作により、天皇から「後継者は賢く年長な者がいい」という勅書を引き出している。
幕府権威の低下と朝廷権威の向上により、京都は今、日本で一番アツい政治闘争の舞台となっていた。様々な勢力が入り込み、自らが望む結果を引き出すべく陰に日向に活動しているのだ。そんな場所へ私たちを派遣した藩の目論見としては、将来を担う人材に現場で経験を積ませつつ、人脈を広げよということだろう。
藩の意図は参加者も感じ取っているようで、玄瑞の伝手を使い使命を果たそうとしているようだ。ただ、懸念もある。
「玄瑞さんは力を貸してくれるだろうか?」
ということだ。
「問題ありませんよ、山縣殿」
「今回の京都遊学は松陰先生の斡旋あってのことなのです」
私の懸念を俊輔と松助が否定し、裏事情を話してくれた。何と、松陰が藩を動かしたというのである。となると、不可解なのは私が選ばれたことだが、
「それは自分の推薦です」
と松助。彼が強く推薦したのと、塾の旅に藩が援助したと受け取られないようなカモフラージュを兼ねて私が選ばれたそうだ。
……
…………
………………
恥ずかしい!
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい
恥ずかしいッ!!!
何が「将来の幹部候補にノミネートされてしまった」だ! とんでもない自惚れじゃないか。あー、恥ずかしい!
――と、羞恥心に苛まれながら旅を続け、やがて西国街道の終点(あるいは起点)である京都へとやってきた。長州藩は京都に藩邸を構えており、私たちはそこを在京中の拠点とするよう藩から命じられている。
長州藩の京屋敷には件の久坂玄瑞もいた。私たちは到着したその日のうちに彼を尋ね、協力を要請する。
「もちろんだとも」
玄瑞は要請を快諾。在京中の知り合いに連絡をとり、面会の約束を取りつけてくれた。……それ自体はとてもありがたいことなのだが、人選には恣意的なものを感じざるを得ない。
梁川星巌
梅田雲浜
アポをとってくれたのはこの二人なのだが、いずれも尊王攘夷思想家である。松陰や玄瑞もかなりの大物であるが、やはり最前線にいる活動家から学べということらしい。何をかは言うまでもないだろう。
「今、我々はかつてない窮地に立たされている。かの清朝を打ち破った夷狄がこの地にやってきたのだ。しかし、恐れることはない。我らが団結すれば、必ずや奴らを追い出せる。我らはお上を戴く神州に住まうのだからッ!」
「西洋の文物は我らのそれより優れている。だが、だからといって奴らを蔓延らせていいというわけではない。今こそ団結して立ち向かうべきだ。その他方で異国の優れたところを取り入れ、奴らと並んだときに和を結ぶ。……でなければ、神州は奴らの植民地となるだろう」
――という具合に、尊王攘夷の熱意に溢れた講話を聞かされた。私以外の遊学生はうんうん、と頻りに頷いている。一応、私も空気を読んで適当に相槌を打っておく。
講話の後は決まって近所の料理屋に入って騒いでいた。話題はもちろん、尊王攘夷について。
「やはり夷狄を打ち払い、お上を戴く神州本来の姿を取り戻すべきだ!」
「そう! その通り! わかってるじゃないか、俊輔ぇ」
赤ら顔になった俊輔が叫び、泥酔した松助がそれ以上の声で応じる。まあこの時代、料理屋で酒が出されて泥酔なんぞよくある話だ。酔った勢いであっちこっち喧嘩を始めるのもご愛嬌。農民だろうが武士だろうが関係なく飲み、騒ぎ、喧嘩する。実に混沌としていた。
料理屋をやっている人たちはそんなことには慣れっこ。とはいえ迷惑な客であることには間違いなく、嫌そうな顔をしていた。
「まあまあ二人とも。少し声を抑えて」
騒ぐなとは言わないが(言っても聞かないだろうし)、もう少し声のトーンを下げるよう求める。
「山縣殿はどうなんだ?」
「そう! そうだ! 小助はどう思ったんだよ!」
こちらに水を向けられた。歴史を知る身としてはこの後の展開は知っているし、さらに後には太平洋戦争で欧米の力を骨の髄まで叩き込まれる。となれば裏づけもなく精神論としか断じられない尊王攘夷思想に共感できるわけないのだが……この場でそんなことを言えば斬り殺されかねない。
「私も現状には思うところがある」
と、曖昧な表現に留めた。心情的に是としたくないが、現実的に否ともし難い。ゆえにどちらとも取れるような返しをしたのである。
酔っ払って思考能力が低下している彼らにはそれで十分だったらしく、
「そうか!」
「それでこそ小助だ!」
と納得してくれた。
この場を切り抜けることに成功して安堵したが、曖昧な表現による弊害を翌日に味わうことになった。
「小助! 塾に入ろうぜ!」
「京で志士の方々と出会い、お考えが変わったとお見受けします。是非とも入塾し、その知見を活かしていただきたい」
彼らは翌日に記憶を留めておけるタイプだった。おまけに酔っていたために、曖昧な表現は自分に都合よく解釈されており、私は尊王攘夷思想に感銘を受けたことになっている。……どうしてこうなった。
本場の京都にいるせいか、はたまた運動の中心的な人物に講話を受けた影響か。とにかく、二人の勧誘は今までよりしつこく、何度断っても引かなかった。結局、情勢の変化などもあり帰藩が命じられる頃には根負けし、私は入塾を承諾することになる。
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