祖母との約束
――――――
時は少し遡る。
私が萩へと戻ってきた元治二年(1865年)二月、久しぶりに帰宅した。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、小助さん」
祖母が出迎えてくれる。上の姉たちは嫁に行って家にはいない。私と祖母の二人暮らしだが、家を空けることも多いので半ば祖母の独り暮らし状態であった。母が幼くして死んだため、母代わりとして姉たちとともに厳しく育てられた。私はそのことにとても感謝している。姉たちは苦手意識を持っているようだが。
「お婆様。これを」
しばらく留守にしていたり、反乱騒ぎの渦中にいて心配させたりしたことへのお詫びも兼ねて贈り物を買ってきた。
「反物ですか? あらまあ、綺麗な柄」
買ってきたのは反物。黒地に絵柄――苦難や厄災を流し去ってくれるという流水紋様――が織り込まれている。
「お婆様に似合うと思って買って参りました」
安くはない買い物だが、私も祖母も質素な生活を送っているため金は使わない。まあ、武士は薄給なので贅沢などできないのだが。
留守にしている間、献金を分け合ってかなりの臨時収入になった。それを使って反物を買ってきたのである。あまり高い買い物をするつもりはなかったのだが、たまたま見かけてこれだ! と直感したのだ。
「そうなの。小助さん、ありがとう」
祖母は早々に反物から着物を仕立てていた。新品の着物は普段使いするようなものでもないため、箪笥に収納されている。冠婚葬祭といったフォーマルな場面で身につけていた。大切にされているんだな、と見ていて嬉しくなる。
所属する派閥が藩の実権を握り、幕府との対決も避けられない情勢となるなかで私も忙しくしていた。公用のみならず、同志との会合といった私用にも追われ、あちこち動き回っている。
そんなある日のこと。
「トイレ……」
夜。疲れてぐっすり眠っていた私。普段なら朝まで起きないのだが、その日は珍しく途中で目が覚めた。三月――暦では春とはいえ、まだまだ寒く布団が恋しい時期だ。早く済ませよう、と足早に厠へ向かっていたそのとき、
「……ん?」
足音がした。床板を踏む音だ。夜中なので、普通は寝ているはず。これはおかしい。
私は自室に戻り、刀を手にした。いざとなれば戦うことになるかもしれないからだ。腰に差して部屋を出る。
相手はどこにいるのか。耳を澄まして音で情報を集める。すると、戸が動く音が聞こえた。もう用は済んだのか。わからないが、ともかく追わねばならない。私は裸足のまま外へ出た。
「どこだ……?」
江戸時代に街灯なんてものはないので、月明かりを頼りに人影を探索する。手がかりはないので完全に勘に任せて探し回った。
しかし、人影はまったく見えず。当て所なく彷徨ううちに、近所の川に架かる橋までたどり着いた。そのときである。橋の上に人影が見えた。月明かりが辺りを照らしてくれている。橋の上という目立つ場所にいたこともあって、その姿はよく見えた。
「お婆様?」
意外なことに、その人物は泥棒などではなく祖母だった。私が贈った反物で仕立てた着物を着ている。こんな時間にそんな格好でなぜここに? 様々な疑問が浮かぶが、そんなことは言っていられない。
「小助さん!?」
声をかけられて私に気づいた祖母は慌て始める。そして、何を思ったか橋から身を乗り出した。
「何を――」
と言う間もなく、祖母は橋から飛び降りた。遅れてバシャッ! と水音がする。
訊きたいことは山のようにあるが、今は祖母を助けることが先である。鉄塊である刀を投げ捨てると、私も川へと飛び込んだ。
江戸時代に水泳の授業なんてないし、祖母は海女でもない。だから泳ぐ術を知らなかった。川の水深はおよそ一・五メートル。大人であれば川底に足がつくものの、平均的な身長では鼻から口まで水で覆われてしまう。祖母も溺れていた。
一方の私は身長一七〇センチ余り。この時代としてはとんでもない高身長である。おかげで足をつけても顔まで水面に露出した。個人的には悪目立ちするこの身長があまり好きではなかったのだが、このときばかりは助かった。
溺れてもがく祖母を抱えて川岸まで上がる。和服がこれでもかと水を吸い込み、肌にまとわりつく。この不快感を何とかしたいが、それ以上に祖母だ。地面におろして状態を確認する。
水に入ってすぐに助けたので呼吸は続いていた。口のなかに水もない。あとは三月の寒さから体温を守らなければ。私は祖母を抱えて家に向かう――前に刀! 緊急事態なので投げ捨てたが、放置しておくと社会的に拙い。慌てて回収に向かった。
刀を腰に差して戻ってくると、祖母が立ち上がるところだった。意識もあるらしい。そのことに安堵したのも束の間、祖母が川へ向かって這っていく。
「何をしてるんですか!」
私は祖母を制止して、馬鹿なことができないよう抱え上げた。
「小助さん、放して!」
「放しませんよ。絶対に」
そんな問答をしながら家へ戻る。囲炉裏の火を熾し、祖母を近くに置く。敵わないと悟ったか、抵抗する意思はないらしくされるがままだ。
祖母の着物を剥ぎ、手拭いで身体を拭いた上で着替えさせた。髪は時間がかかるので後回し。とにかく身体を温めてもらう。私も濡れ鼠なので同じように身体の水を拭って着替える。そして囲炉裏の火に当たった。ふぅ。
身体を温めている間に、なぜこんなことをしたのか訊く。ボケたわけではない。ならばなぜ? 最初は供述を拒否し、パチパチという音がするばかりであった。だが、次第に観念したのかポツポツと話し始める。
その話を総合すると、私の足手纏いになりたくなかったそうだ。どういうことなのかさらに訊ねると、
「……この前、小助さんが戦われたとき、この家にも役人が来ました。小助さんを呼び戻すように、と。そのときは言葉だけでしたが、もし人質にでもされてあなたの立場が悪くなってしまっては申し訳ない。お家が興隆するのであれば……この老婆の命など惜しくはありません」
「……」
そこまでか。それが正直な感想だった。お家のために命すら捨てられるのかと。転生して二十有余年、この時代のことはわかってきたつもりでいたが、まだまだらしい。
祖母の覚悟はよく伝わった。伝わったが、だからといって死ねとは言えない。既に父母はなく、姉も嫁いだ。祖母が家にいる唯一の肉親なのである。母を早くに亡くした私からすれば育ての親同然だった。そんな相手に、出世の邪魔になるかもしれないから死ねとは言えない。
私はその気持ちを素直に伝えた。貴女は母同然であり、貴女に尽くすことが孝行になると思っている。だからそういうことを言ってくれるな、と。
「ですが――」
しかし、祖母は納得しない。
「……わかりました。では、しばらくお待ちを」
私は一度、自分の部屋に戻った。そしてあるものを手にして戻ってくる。
「お婆様、これを」
「これは……短刀ですか?」
「はい」
祖母に渡した短刀は母の遺品である。それを父が持っており、私に伝わった。武家の婦女子は護身用に懐剣――短刀を持っている。当然、祖母も持っていた。だからなぜ? という顔をしている。
「お婆様のお覚悟はわかりました。小助はもう止めません。しかし、約束をしていただきたい」
「約束?」
「ええ。難しいことではありません。何か変事があり、進退窮したときにその短刀でご自害ください」
諦めないのならば条件をつける。言いながら、私は祖母が帯に刺している短刀を取り上げた。
「あっ!」
慌てて手を伸ばす祖母だったが、その手は短刀に届かない。
「こちらは預からせていただきます。この小助もまた、進退窮したときはこちらの短刀で自害いたしますので」
どうにもならず最期を悟ったとき、私の短刀で祖母が、祖母の短刀で私が自害するというわけだ。
「まあ、必要ないとは思いますがね」
「必要ない?」
「お婆様のご心配は当たらない、と私は見ています。……長州の内での戦は終わりました。これからは外での戦です。ゆえに、お婆様はこの地より、小助の活躍を見守ってください。それが私の願いです」
功山寺挙兵は成功し、藩を自派閥で掌握した。次は本格的に幕府軍と矛を交える第二次長州征討、その次は戊辰戦争である。祖母が心配する萩での戦乱はない。そんな見込みの下、こんな提案をした。
「……わかりました。それが小助さんのご意志なら、従いましょう」
立派なお侍になりましたね、と祖母は言ってくれた。提案を受けてくれたことといい、この言葉といい、私はようやく祖母に一人前として認めてもらえた気がして、嬉しくなった。
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