困りごと
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北清事変は終息に向かっていた。北京で和平交渉が行われており、連合軍は専ら戦闘ではなく治安維持にあたっている。それはとても喜ばしいことなのだが、いくつかの問題も発生していた。
まずは何と言ってもロシアの満州占領だ。少し時間を遡って事の経緯を辿っていきたい。
遠因は日清戦争にある。敗戦により清国は多額の賠償金を課せられた。これを見た列強諸国は賠償金の支払い大変だよね、お金貸してあげるよと借款の供与を申し出る。金に困っていた清国は申し出を受けたがもちろんタダではない。それ相応の見返りを求めた。結果、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾を租借。イギリスは長江流域の鉄道敷設権を獲得して勢力圏に加えた(後に九龍半島と威海衛も租借)。
そしてロシアは旅順、大連を租借地として獲得する。日本は講和条約(非武装地帯化)違反だと抗議したが、これは日清間を拘束するものであり第三国に対して何らの影響を与えるものではないと反論された。事実、条約には外国軍に対する規定はない。日本側の完全な落ち度であった。
「画竜点睛を欠くとはこのことか。山縣さん会心の策だったのにこのようなことになってしまったのは痛恨の極みだ……」
と大久保は落ち込んでいた。大久保は自分が悪いと思っているが、私の失態でもある。脳内では当然、第三国の存在は想定してそれも含んだ非武装地帯の設定であった。だからまさかそのリスクを想定せず、条文から抜けているなんて思いもしなかったのである。やっぱり確認は大事だ。
明らかな政府の落ち度であり、政党やメディアが攻撃してくるものと思われた。ところがその矛先はロシアに向いた。不発となったとはいえ三国干渉の動きは報道され、日本国民の知るところとなっている。当時は非武装地帯化という形でこれを躱した、と政府が持ち上げられた。それを無に帰すような行為を屈辱と捉えて反発したのである。現世でも思いがけぬ形で臥薪嘗胆をスローガンに復讐が唱えられた。
ロシアの租借地では鉄道建設がなされ、特に旅順では要塞化の動きが確認されている。条約により租借地の水域はロシアと清国以外の立ち入りが認められておらずどうなっているのかは不明。軍部では諜報員を送り込んで状況を探らせている。
そして今回、北清事変に託けてロシアはまたしても動いた。総勢十五万という軍隊を動員して満州へと侵攻。十月までに全土を占領した。これは日本にとって恐怖でしかない。余勢を駆って朝鮮半島に雪崩れ込んでくるかもしれないのだ。そうでなくともウラジオストク-旅順のラインでかけられていたプレッシャーが、沿海州から満州という面からかけられる格好になったわけで、日本側の警戒感はメーターを振り切った。
ロシア側は日本を必要以上に刺激しないようにとの意図からか、年が明けた頃に韓国の中立化を申し入れてきた。ロシアと戦いたくない井上馨はこれを歓迎していたが、政府はこれを拒否する。というのも外務省を中心にして満韓交換論が浮上してきたからだ。これは満州と韓国の問題は不可分であるから個別ではなくセットで解決すべきという理論である。情勢の変化により満韓交換論は支持を受け、日本はロシアの提案を拒否した。
ロシアの満州占領は懸案となり、北京での和平交渉の場においてしばしば言及される。日本は満州占領は権益保護の観点からしても過剰であると非難。さらにはイギリスやドイツとともに、ロシアとの間に現状を追認するような条約等を結ばないよう清国に勧告した。ロシアは交渉を打ち切った以外にリアクションは見せず、九月に北京議定書が結ばれてもこの問題は未解決であった。
その北京議定書も絡んでくることだが、次に頭を悩ませていることは清国の弱体化である。義和団の蜂起に乗じて宣戦布告をしたはいいもののこてんぱんにやられて首都を占領された清国。慌てて方針を一八〇度転換すると義和団を賊として弾圧し始めた。これに失望した義和団は「扶清滅洋」のスローガンを「掃清滅洋」に変える。
また、北京議定書では賠償金も請求され、総額四億五千万両という途方もない金額になった。当時、清国の歳入は一億両にも満たない額であったから負担が重くのしかかる。負担は民衆へ転嫁されたために重税を課すことになって民衆の恨みを買った。怒りの矛先は王朝へ向き、革命の機運が高まっているのだとか。どれだけヤバいかというと、列強が賠償を加減するレベルでヤバい。
「下手をすると清朝が滅亡しかねません」
外相の青木からはこんな報告がされ、賠償の引き下げる方向で議論を進めることを提案された。
「それは困る。わかった。小村にも負担の軽減に努めるよう伝えてくれ」
もちろん了承する。とても信じられないが、日本をはじめとした国々は別に清国を滅ぼしたくて戦争をしているわけではない。魅力的な市場である清国に自国製品を売りつけることが主目的。よって列強の論理としては自由に商売させろ、という一点に尽きる。ただ排外運動を清国の官憲がコントロールできず、何ならしばしば煽ったりもするので自国民の安全を守るために(仕方なく)戦っているのだ。
現地の小村からは一年かけてまとめた議定書の内容を変更するのは非常な労力がかかる。とはいえ清国の情勢が不穏なのは確かであるから、状況を見つつ列強と協調して減額していく方針が最良との回答があった。清国に万単位の軍を派遣することは財政的に負担が大きい。撤兵を早めるためには小村の方針がいいだろうとこれを承認した。
ただ、やるやる詐欺にならないよう閣議決定をして政府方針に確定させる。賠償額を単に減らすのではただの損になってしまう。そこで戦費と遺族への見舞金などを除いた金額を減額の対象とし、「日本に利する無形の便宜」を以て減額に応じるとした。例えば清華大学のような留学予備校の設立である。
さすがに清国政府も危機感を感じたらしく、西太后も光緒新政(清末新政)という改革政策を実行した。内容はかつて彼女が潰した戊戌の変法とほぼ同じであり、これまで改革政策を潰して回った西太后がそれをやるというのは何とも皮肉なものだ。
「これは好機だ」
閣議で私はこう発言する。この改革にどれだけ噛めるかによって影響力が変わってくるだろう。列強との協調を乱さない範囲で最大限の支援を行う方針を決定。ひとまず紫禁城から押収していた金を返還することにした。略奪から保護していたという建前で、文物の保護をした実績もあってとりあえず信じてもらえた。日頃の行いって大事だ。
それとは別に留学生の受け入れを拡大する。帝国大学や士官学校、また一部の政府部署に清国人留学生の特別枠を設けて人を呼ぶ。留学生が将来、清国の高官になったときに日本への留学経験者として人脈を築き、以て日清関係を円滑にするという狙いがある。いわば将来への投資だ。
日本から何かすることは列強を刺激するが、清国からアプローチしてくる分には問題ない。話を持っていくと清国は飛びつき、諸々込みで百名を超す留学生が送り込まれた。これを見ているとやはり中国の強みは人の多さだなぁ、としみじみ思った。
北清事変の事後処理に忙殺されていたが、こういうときに限って何かが起こる。今回は閣僚の不幸であった。事前の取り決め通り憲政党からの入閣を受ける。結果、
総理大臣 山縣有朋
内務大臣 板垣退助
外務大臣 青木周蔵
大蔵大臣 松方正義
軍務大臣 桂太郎
司法大臣 松田正久
文部大臣 西郷従道
農商務大臣 原敬
逓信大臣 星亨
組閣から一年経ったタイミングで上記のメンバーに内閣改造した。しかし星亨が東京市庁舎での懇談中、刺客に襲われ暗殺されてしまう。本人は金に無頓着だが、政党の領袖となるということは集金手段を持っていなければならない(例外はある)。金集めのネットワークを持っていることは事実だった。火のないところに煙が立たないというわけで醜聞が立ち、遂には凶行に及ぶに至り命を絶たれたわけだ。政治家としては頼れる人材であっただけに惜しまれる。
史実では政党との提携関係を深めるよう山縣に求め、のらりくらりと躱されることに業を煮やして俊輔に接近。新党運動に乗っかって立憲政友会が誕生して第四次伊藤内閣が誕生した。しかし現世では彼らの要求を呑んで政党との提携を深めているために離脱することはなく山縣内閣は存続している。
……そういえば、組閣から三年が経とうとしているのか。随分と時間の経過が早い。天皇から望まれた長期安定政権の役割は十二分に果たしているといえるだろう。とはいえそろそろ交代を考えるべき時期にきている。長く居座り続けるのもよくない。
「――私も二度目の首相になって程なく三年。そろそろ交代すべき時期かと愚行いたします」
内奏のタイミングで天皇にそう切り出した。許してもらえるなら議会対策もあるのでその開会前に交代したいとも。しかしそれを聞いた天皇は渋い顔をした。
「それで誰がいい?」
「……誰がいいでしょう?」
質問で質問に返答してしまったが、考えてみると意外に人がいない。前内閣の大隈を飛ばした前の首相は俊輔。長州が続いているから次は薩摩……といきたいところではあるけれども、薩摩には適当な人がいない。
大久保は高齢で拒否するだろうし、松方は地租増徴の件で政党との関係が完全に拗れしまった。今日、政党の協力なしに議会は回らないから除外。酒乱(黒田清隆)は去年死んでいる。信吾は兄が反乱を起こしたことを理由に話が出るたびに辞退し続けていた。
この次となると山本権兵衛くらいのものだが、年次としては桂の下。捻じ込めなくもないが……本人はまだ早いと拒否するだろう。というか、大久保をはじめとした薩摩人と関係が近い私が薩摩系の首相のように扱われている節がある。
「というわけだからしばらくは続けてもらうぞ」
天皇はいい笑顔だった。
「……わかりました」
私は苦い顔だった。
とはいえ前に臍を曲げたことがあったのであまり無茶苦茶なことはしない。後任についてはちゃんと考えておくし、他の元老にも考えさせておくと言われた。
「ひとまずは目の前の大仕事を片づけてくれ」
「イギリスとの同盟ですか?」
「ああ。そうすればいい締めくくりになるだろう」
ロシアの満州占領は朝鮮を勢力圏として確保したい日本と、清国における権益をどうにか保持しておきたいイギリスとの関係を急速接近させた。そして今年の七月にイギリスの駐日公使から同盟締結の打診があった。翳りが見えるものの、世界帝国であるイギリスとの同盟に否はなく交渉が進んでいる。天皇は同盟締結を花道に退陣してはどうかと言ったのだ。
「そうですね。それまで精一杯務めます」
「うむ」
大事な交渉を途中で放り出すというのも気持ち悪い。しっかりと仕事をやりきって辞めることにしよう。続投を承諾すると、天皇も頷いた。
しれっと退場した星亨。作者が個人的に好きなのは、外交官時代にヴィクトリア女王を公文中で「女王陛下」と記したところ、イギリスからヴィクトリア女王を女王呼ばわりするなら、こっちも天皇のことを男王と呼ぶからなとキレられたのに対して「Queen」つってるんだから「女王」だろうが、と返したところ。悪者にされがちですが、星のことは嫌いではない。
なお裏話として、警察に顔が利く山縣は星の汚職を知る立場にあり、反抗してきたらそれを白日の元に晒してダメージを与えるという手段を持っていました。ただそれは最終手段であり、あくまで対話に基づいて関係を築き、死ぬまで最終手段は使われませんでした。
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