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北清事変

 






 ――――――




 明治三十三年(1900年)六月、清国から急報が舞い込んだ。賊によって日本の外交官が殺害されたというのだ。


「賊というと、このところ清国で活発に活動している義和団か?」


「わかりません」


 義和団(前身組織)の活動は三年前から確認されている。山東省でドイツ人宣教師を殺害したことを皮切りに、あちこちで騒乱が相次いでいた。やがて彼らは義和団と称して「扶清滅洋」をスローガンに団結する。いわば中国版の尊王攘夷運動だ。


 列強が取り締まりを清国に要求した結果、山東省に袁世凱が派遣されて鎮圧にあたる。ところが義和団は壊滅せず、山東省から直隷省(北京周辺)へと移動した。失業者などを吸収していって膨れ上がった数は二十万ともいわれる。外国人やキリスト教徒に西洋の文物(鉄道、電信、舶来品の類)を攻撃して回った。


 北京周辺は治安が世紀末になっていたが、清国は積極的に鎮圧に動かない。「扶清滅洋」というスローガンからして義和団の行動は自分たちに害はないと判断し、また列強に対する攻撃を見てスカッとするという気持ちもありお目こぼしをしている。


 だが、この手の暴動の常として、放置していればブレーキの壊れた車のように過激化していく。今回の件はまさしくそれが原因だった。


 第一報の時点で犯人は不明。とはいえ義和団の大量発生で治安が悪くなっていることも事実だ。私は対応にあたるため外相の青木と軍務相の桂、海軍部長の山本を呼び出す。


「先ほど我が国の外交官が清国で賊に殺害されたとの情報が入った。以前より義和団なる賊が蜂起して直隷周辺に跋扈していたが、これが牙を剥いた格好だ」


 とりあえず判明している情報を共有し、いくつかの指示を与える。青木には欧米列強への根回しを指示した。義和団の乱が近い。居留民保護のため派兵をするつもりだが、清国に様々な権益を持つ列強を刺激しないよう事前に了解を得る必要があった。


 次に清国政府に対して下手人の調査と処罰を求めるように言う。何の落ち度もないのにやられたわけだから、多少は事を荒立てても構わないから厳重に申し入れをするように指示。また列強の同意をとりつけ次第、派兵の通告を行うようにとも。


 これに伴って山本には第二艦隊を清国沿岸に派遣することとし、同艦隊からは陸戦隊を編成して北京に送る準備をせよと命令した。桂に対しても義和団による騒乱が終息しなかった場合、陸軍部隊を派兵する必要があるかもしれないから、と広島の第五師団に出動準備をさせるよう命じる。


「承知しましたが、少し過剰反応ではありませんか?」


「杞憂だったならそれでよし。だが最悪の事態になった場合への備えは必要だ」


 三人からはやりすぎでは? との懸念が伝えられたが、このままでは終わらないという確信があるからこそ杞憂でもいいから最悪に備えると押し切った。


 青木は現地の公使を通して何やってくれとんじゃ、と清国に対して詰問。一刻も早い犯人の逮捕に謝罪と賠償を求める。背後には陸戦隊の存在があった。第二艦隊は矢矧と酒匂を先発させていた。速度が命だと二隻は天津沖まで急行。列強の同意を得たとの知らせを受けて百名程度の陸戦隊を北京へ入城させていた(義和団の活動については列強も問題視していたらしく、各国は二つ返事で了承してくれた)。


 このような軍事的圧力もあり、犯人の捜索はその場で約束される。謝罪と賠償については調査の結果次第ということになった。


 清国の対応にひとまず満足していたのだが、列強各国もまた動き出していた。やっぱり二十万の賊が北京周辺に屯って破壊活動までしてるのまずいよね、と思っていたらしい。現地の公使たちからそれぞれ対応を求める声が上がっており、イギリスを中心とした二千名の連合軍が結成された。


「イギリスなども軍を派遣しているようですが、清国軍に阻まれて天津へ引き返したようです」


「陸戦隊は通れたのか?」


「止められたようですが事前に通告していたことと、現地の西(徳二郎)公使が公使館の護衛兵だということにして現地の役人を上手く丸め込んだおかげで入れました」


 日本に好意的な役人もおり、その力を使って入城させたという。北京はきな臭い空気が漂っているらしく、そんななかでやって来た援軍(?)に租界の人々は歓喜したそうだ。


「列国はかなりピリピリしているようで、派兵の同意を得る際に我々も連合軍に参加しないかと言われました」


 そういう指示は受けていないので断りましたけど、と青木。とはいえ列強が前向きなのだから我々もそれ相応の態度は示しておくべきとの提言があった。


「それもそうだな。……よし、陸軍部隊の派兵も可能であるとは伝えておけ」


「わかりました」


 青木の助言を受け、日本として要請があれば連合軍へ参加すると声明を出す。


 そうこうしているうちに事態はどんどん悪化していった。二十四時間以内の国外退去命令が伝えられたのが十九日。だが急に明日出て行け、と言われてもできっこない。在外公館は機密文書の類を処分しなければならないし、民間人も移動の準備というものがある。戦争の意思はなかったから準備も警告もあるはずもなく……。やるしかない、と現地では公使館や教会に人々が集結して防衛体制を整える。と同時に母国へと救援要請を行なった。


「国外退去命令だと? 清国は本気でやる気か?」


「そのようです。まったく何を考えているのか……」


 それは各国の共通した考えだった。合理的か否かは置いておいて、気持ちとしてはわからなくもない。日清戦争に負けた後、賠償金を支払う必要があった清国。そこに目をつけた列強諸国は巨額の借款を与える見返りとして利権を収奪した。


 かつて「眠れる獅子」と恐れられた清国だったが、同じアジア国家の――しかも遥かに小国である――日本に負けたことで、眠れる獅子は張子の虎であることが白日の下に晒された。弱肉強食の時代であるから、そんな弱い奴は水に落ちた獲物のごとく列強という名のピラニアに食い尽くされるのだ。


 具体的にいうとドイツは青島、イギリスが威海衛と九龍半島、フランスが広州といった具合に領土のあちこちを租借地としていった。さらにまたドイツは山東省、イギリスは長江流域、フランスは広東省と広西省を勢力圏として設定する。


 甚だしきはロシアで、満州とモンゴルを勢力圏とした。それくらいならいいが、あろうことか非武装地帯とされた遼東半島を租借地として持っていった。日本は抗議したが、条約は日清間のものでロシアを何ら制約するものではない、と言われてはどうしようもない。引き下がるしかないが、日本人の多くはこのことを屈辱として臥薪嘗胆のスローガンが生まれていた。


 日本はこの中国分割競争(瓜分という)に参加するだけの国力はなく、僅かに台湾の対岸にある福建省を他国に割譲しないことを約束させるに留まった。まあとにかく日本の対露感情は史実と同様に悪化する。フィクションでよくある歴史の修正力というやつだろうか。ともあれ外交状況は予断を許さない。


 そんな懸案もあるのだが、今はそのことは脇に置いて降りかかる火の粉を払わなければならない。列強諸国は対応を協議し、日本もその末席に連なった。


 国外退去命令が出た翌日、日本人外交官に続きドイツの外交官も殺害される。そして北京の外国租界に義和団や清国兵が攻撃を開始。いよいよ引っ込みがつかなくなったのか、六月二十一日に清国は日本を含む各国に宣戦布告した。


 宣戦布告を受けて列強対清国の戦争になるかに思われたが、列強は宣戦布告を無視。「戦争」ではなく「紛争」として処理することにした。これだけの多国籍になると後処理が面倒になるからというのが主な理由である。


 北京での戦闘は割と絶望的だ。公使館や教会を囲んで攻撃している義和団と清国軍は数万という凄まじい数である。対する列強諸国は戦闘員に居留民、義和団の標的となった清国人のキリスト教徒を含めても五千ほど。相手は十倍以上という絶望的な戦力差だった。


 戦闘が始まって間もない六月末、イギリスから正式に派兵要請が行われる。先の声明もあってすぐに派兵すると返答し、第五師団に出動を命じた。輸送船の集結を待っていたのだが、七月に入ってからも二度にわたって派兵要請が行われる。イギリスの焦りが伝わってきた。


 彼らが焦っているのは極東におけるパワーバランスを意識してのこと。清国をめぐっては主にイギリスとロシアが覇権を争っていた。これまでイギリスが清国に築いた権益に挑戦しているのがロシアである。今回のような騒乱に乗じてその勢力を拡大する、というのは割とポピュラーな手段だ。そうはさせまいとイギリスは阻止に動きたいところだが、彼らの事情がそれを難しくしていた。


 イギリスはボーア戦争を戦っていて兵力に余裕がない(それでも最終的に植民地兵を含め一万を送り込んでくるのだからさすがだ)。一方のロシアはフリーで、極東軍を全力で投入できた。相対化する他国もアメリカが米西戦争の残滓といえる米比戦争の最中。フランスはそこそこにしか兵を送らず、ドイツは極東の兵力は僅か。イタリアともども本国から遥々軍を派遣することになるので 待っていられない。


 以上のような状況であるから、イギリスに好意的で頼れるのは日本くらいだったのだ。よほど切羽詰まっているのか、二度目からは見返りに財政支援を持ち出してくる。さらには諸外国の同意をとりつけ、「列強国の総意」として派兵を要請してきた。


 急かされているので仕方なく、全軍の集結を待たず一個連隊ずつの派兵にする。今向かってます、と言い訳ができるからだ。それに要請に迅速に応じたという実績にもなる。戦力の逐次投入にならないかという懸念の声もあったが、


「どうせ多国籍連合軍なんて指揮をどうするかとか揉めに揉める。まとめている間に集結するだけの余裕はあるさ」


 原理原則は大事だが、それに縛られず臨機応変に立ち回ることも大切だと説く。その一環というわけではないが、今回の派兵第一陣となる広島の第十一連隊は第五師団から特科隊を分派されて連隊戦闘団を編成。西部方面隊から福島安正少将を指揮官に迎えている。


「福島は語学に堪能です。英独仏露に加え北京語も話せるので、列強各国との折衝役のみならず現地の清国人とも話ができるでしょう」


「彼の語学力には随分と助けられたよ」


 この人事は桂の推薦だったが、私も適任だと了承している。福島とは西南戦争のときに知り合った。従軍していた彼は私の伝令をしていたという縁がある。日清戦争では第一軍の参謀を務めており、現地民とのトラブルを得意の語学力で収めていた。とにかく何かあれば福島に投げておけば解決しているので、火消し役に重宝していたのである。今回も列国の潤滑油になってもらいたい。そんな期待を込めた人事だった。


 この狙いは的中し、先に現地入りした福島は第五師団長が到着するまでに話をすべてまとめていた。やはりというべきか利害が対立して口論になったが、上手く間に入って取り持つ。こうして信頼を得た福島は作戦会議の司会を任され、連合軍における日本の存在感を高める。


 師団本隊の到着で戦闘団は解散となり福島の立場が宙に浮くも、程なく派遣部隊が拡大したことに伴って清国派遣軍が発足。この参謀長に任じられて落ち着いた。また先任指揮官の座は譲ったものの司会は継続している。


 福島の奮闘により連合軍は主力となる日露軍の到着後すぐに行動を開始。まずは北京への道を開くべく大沽と天津の攻略に取り掛かった。










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また、下の☆☆☆☆☆から、作品への評価もお願いいたします。面白ければ☆5つ、面白くなければ☆1つ。正直な感想で構いません。


何卒よろしくお願いいたします。




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― 新着の感想 ―
更新お疲れ様です。 騒動後、増援に来た陸戦隊を元にした映画が作られそうですね。 軍務大臣は桂太郎ですが陸軍部長も兼用しているのですか。
投稿ありがとうございます。 義和団の乱といえば、浅田次郎作の『珍妃の井戸』を思い出します。 内容は省きますしフィクションも多いのでしょうけど、中国人から見た8カ国連合軍が象徴的に描かれていて、北京…
どうせまた揉めるんだろうなあ ちなみに北清事変を扱った「静かなる太陽」という本はめちゃめちゃ面白いのでオススメです
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