サプライズ人事
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大隈内閣は三ヶ月と少しという記録的な短命政権となった。その前の伊藤内閣もまた半年ほどの短命で、元老たちの間では対外的な印象に悪影響を与えないために長期安定政権を望む声が上がっていた。
ゆえに次の首相は大久保にすべき、という声が上がるのも不思議ではない。しかし大久保は高齢を理由に辞退。代わりに私を推薦した。
「山縣侯が適任だと考えます。暗中模索といえる第一議会を乗り切った手腕は確か。また内相としての寛容な政策で政党からの印象も悪くありません」
大久保がそう言うと雰囲気は山縣当確というものにガラリと変わる。こういうとき押しつけ――もとい、頼りになる俊輔は清国へ外遊中で不在。先輩になる井上馨はどうかと提案しても、
「この難局に経験のない者がなるべきではない」
と言って逃げられた。最終的に天皇の肩ポンがあり大命を拝受することに。長期安定政権が望まれているのでここは手堅くいきたいところ。まあ堅実な政治は得意だ。ではまず閣僚の選定から――と思っていたところに桂が訪ねてきた。
「閣下。お願いがあります」
「どうした改まって?」
公的な場でもないのだからそんな堅苦しい言い方をしなくてもいいだろうに。他藩だが川上や田村怡与造などはすっかり打ち解けて、私的な場ではかなり寛いでいるぞ。
妙にお堅い桂の姿勢を疑問に思っていると、恐る恐るといった様子で「お願い」を口にした。それは憲政党のメンバーと会合を持ってほしいというものだった。
「随分と急な話だな」
会合を持つこと自体は構わない。あちらがどう思っているかは知らないが、私は彼らにさ程の悪印象を持ってはいないし。相手次第である。
そう答えると、桂は一連の政局における内幕を話し始めた。驚いたことに憲政党と大隈内閣の崩壊を主導したのは目の前にいる桂だったというのだ。
元々、憲政党の結成は党員たちが心から望んだものではなかった。大隈内閣も旧進歩党系に有利な人事が行われたため、星亨を筆頭に反対する者はいた。桂はそこに目をつけ、星に解党と倒閣を持ちかける。次の政権担当は私(山縣)となるだろう。近い関係にあるから旧自由党と提携を結ぶよう説得する。だから解党と倒閣をしてほしい、と。
この提案に星が乗り、水面下で様々な運動を行なった。タイミングよく共和演説事件が起きたため、これを煽りに煽って党内対立を深刻化。憲政党は旧自由党系のメンバーによるクーデターで解党し、大隈内閣も倒れた。後者には桂が天皇や板垣らに話をして倒閣をアシストしたことも影響する。
「なるほどな」
話はわかった。要は憲政党のメンバーに解党と倒閣に貢献したことへの恩賞として提携を約束した。提携といっても政見や政策についてあちらのものをかなり採用するとか交渉の過程で口にしちゃったのだろう。だから誇らしげなのではなくバツの悪そうな――それこそ悪いことをして叱られるのをわかっている子どものような感じだったのだ。なるほど納得した。
「憲政党との提携大いに結構。喜んで会合するとしよう。段取りはこちらで考える。ただ、具体的なことは話を持ってきた君に任せる」
「っ! ありがとうございます」
怒られると思っていたのだろうが、私としてはよくやったと言いたい。期間はともかく、安定政権となれば議会に与党勢力は必須である。それを引っ張ってきたのだから大手柄だ。まあ罰といえなくもないのはその後の交渉を任せたことだろう。だがこれも自分のケツは自分で拭けというだけのこと。そう厳しいものでもない当たり前のことだ。
そこからシナリオが作られる。いきなり山縣内閣と憲政党は提携します! と言っては憲政本党からあいつらグルだったのかと悪感情を抱かれてしまうだろう。何があるかわからない政治の世界。修復しようのない亀裂は生みたくない。だからたまたま私と板垣が会って政見を語り一致を見たことで提携した――というシナリオを作った。政府系のメディアを使ってこのことを盛んに宣伝することにもなっている。
私と板垣が会って意気投合したとの報道が出ると、他紙の記者もやってきて提携の意思があるのかということを中心に質問された。これに対して私は、
「あらゆる可能性を排除せず臨機応変に対応していくつもりだ」
と直接的には答えないが、提携の可能性がゼロではないと匂わせる。板垣はもっと直接的で、協定に至ればそうなると答えていた。
こうして上の方は準備を整えたが、桂と星の間における実務者協議は難航する。桂は板垣内相、星法相と閣僚ポスト二つを提示。対する星は五分五分の関係にすべきだと更に二つ……都合四ポストを要求してその溝が埋まらなかった。弱った桂は経過報告で、
「かくなる上は閣外協力という形で纏めた方が得策かと」
などと言い出した。纏まるならとその方向で進めさせたが、妥協案における憲政党の要求を聞くと不安を抱く。というのも星は当面は閣外協力という形で納得したものの、将来的に閣僚四ポストを憲政党員へあてがうべし。あるいは閣僚が(最低でも四名)憲政党に入党するかのどちらかだと、五分五分との建前に拘る。
桂は纏めてしまえばこっちのものだと言っていたがそうはいかんだろう。半年や一年ならどうにかなるが、いずれ誤魔化しがきかなくなる。長期政権を目指す上で不安材料は抱えたくないので、この件については私が出ることにした。ただ、相手にするのは板垣。下じゃ話つかないからトップ同士で話をつける、というトランプ式である。桂に調整させ、私が板垣と会談をして方向性をまとめた。
まず組閣の手続きがあるから一年間は大臣を政党から出さない(調整していると時間がかかるため)。ただ任命に日程の余裕がある政務官などには政党員を宛てるので憲政党で選考すること。そして一年経った時点で内閣改造を行い政党員を大臣に据える(懸案の数については後述)。
次に政府は発足時、公に憲政党との提携を明らかにし、一致している政策については政府案として議会に提出する。憲政党はこれに賛成すること。また与党の友誼として可能な限り便宜を図るものとする。
そして最大の焦点となっている大臣ポストをいくつ割り振るかについて。私は板垣に三を純政党員とし、一をこちらの推薦する人物でどうかと打診した。
「……わかりました。では一年後、よろしくお願いします」
板垣はこれに頷き、懸案の大臣ポストの割り振りについても決着した。一応、天皇にもこの話は通している。提携相手が板垣の憲政党であり、大臣ポストを政党に与えることについても「山縣ならよく御すはずだ」との信任を受けて認められた。その信頼がプレッシャーなのだが……。
ともあれ私は遅れていた組閣の手続きに取り掛かり、第二次内閣を発足させた。メンバーは以下の通り。
総理大臣 山縣有朋
内務大臣 芳川顕正
外務大臣 青木周蔵
大蔵大臣 松方正義
軍務大臣 桂太郎
司法大臣 清浦奎吾
文部大臣 西郷従道
農商務大臣 原敬
逓信大臣 大浦兼武
内務、司法、逓信大臣については憲政党から大臣が出ることになっているので、交代させやすい私の子分を置いている。だがそんなことはどうでもいい。このなかでひと際目を引く存在がいる。そう、原敬だ。原といえば根っからの政党政治家で山縣の敵だと思われているが、この時期に関しては違う。……少し原の話をするとしよう。
原敬は官僚時代、陸奥宗光の懐刀として活躍していた。しかし第二次松方内閣の成立に伴って上司となる外相がソリの合わない大隈になることを知ると退職。五千円という超高額年俸で大阪毎日新聞の編集長に迎えられ、社長にまでなっていた。
誰もが羨む高給取りであったが、本人は現状に満足していない。むしろ不満だった。政治の世界に身を置きたいと考えている原にとって、精神的には無職も同然だったのである。
ゆえに原は就職活動を欠かさなかった。暇を見つけては東京に出てきて私や俊輔、井上馨といった政府要人に面会して情報をアップデートし続けていた。そんな彼を見た井上は伊藤新党運動の事務方としてスカウト。念願の政界復帰への第一歩を踏み出した。
しかしご存知の通り伊藤新党運動は失敗。失意の原に私が声をかけたのだ。政界へ復帰しないかと。憲政党に入党する代わりに閣僚ポストを宛てがう上、憲政党からは次期選挙で故郷の盛岡から出馬させることも約束させた。まさか大臣を落選させるわけにはいかないから手厚い支援が行われることになっている。
「喜んで」
原はこれを受け入れて閣僚に名を連ねた。なお実際に入党するのはもう少し先のことになるが、本人は憲政党が開く懇親会などに積極的に参加して党員との交友を深めている。実に周到なことだ。
新党運動から引き抜いた格好になったが、スカウトした井上からは「無形の場所で腐らせておくには惜しい人物だ」として快く送り出されている。清国にいる俊輔からも「存分に使ってやってくれ」と言われた。原の優秀さはよく知っている。もちろん馬車馬のように働かせるとも。
組閣を済ませたのも束の間で、国会が始まった。例年はクリスマス前後からスタートするが、今年は選挙明けの特別会も包摂することになったので十二月初旬からのスタートとなる。常会に移行すると例によって施政方針演説となるが、この場でも改めて憲政党との提携を表明した。これには賛否両方の野次が飛ぶ。憲政党からは賛成の、憲政本党からは非難の野次が飛び、議場は一時騒然となった。
「閣下。政党に阿るのは如何なものかと」
側近で法制局長官に任命した平田東助を筆頭に、俗に言う「官僚派(非政党勢力)」からも反発があった。私が政党と接近すれば彼らをつけ上がらせることになる、と。
「否定はしないが、陛下の御心を煩わすわけにはいかんのだ」
大命降下に際して、天皇からは昨今の政権が短命に終わっていることを憂慮された。翻して言えば長期政権を望んでいるということであり、政党との関係を築かず従前の超然主義を維持することは陛下のご意志に背くことになりかねない――と反論。天皇のご意志となれば彼らも黙るしかない。支持基盤を失いかねない状況だったが、どうにか切り抜けることに成功する。
そして議会では松方内閣以来の政治的な混乱を招いていた地租増徴に決着をつけるべく法案を提出した。事前に憲政党とは綿密かつギリギリの交渉を行い地租3.3%(市街地は5%)とし、五年間の時限立法として妥結。年末に可決成立した。
同時に各種の選挙法も改正。国政においては選挙権の税額条件を引き下げ、大選挙区単記無記名投票とした。地方選挙についても有権者による直接選挙制に改めている。
こうした法案は憲政党と調整した上で提出されており、彼らの賛成を得て次々と可決成立していく。議会政治に多少の理解があり、政治的に妥協すればそれほど難しいことではない。ただ短命政権が相次いだこともありインパクトは大きかったらしく、天皇をはじめとする有力者からは「さすが山縣」と称賛された。
従来、政党は増税を嫌い政府と対決してきたが、憲政党はその方針を転換。ある条件の下では増税を容認することにした。その条件とは各種の投資である。道路や鉄道、港湾に水道といったインフラを造れば票が得られるということに気づいた。節税要求を続けるとインフラに割かれるパイが小さくなるのも必然。そこで増税の代わりにインフラ整備へ割く予算を増やすことを条件にして政府との提携に動いたのである。
「憲政党の希望はよく承知している。今、法令改正へ向けて準備をしているところで、当然ながら諸君らにも内相談する所存であるから今しばらく待たれたい」
懇親会の場で憲政党員に対してそう説明して時間的な猶予を得る。インフラ整備を伴う財政の膨張には落とし穴もあった。金本位制の下ではそもそも通貨の発行額に限度がある。いずれは外債にも手を出す可能性があるが、無制限にやればギリシャよろしく債務不履行に陥ってしまう。さらには担保となる資産がなければそもそも貸してもくれない。
そこで全国に広がる鉄道網を国有化しようということになった。これは鉄道黎明期から鉄道事業に関与していた井上勝が提言していたことだ。財政の都合から民間に委ねていたが、上のような事情もあって政府が買収するという話が持ち上がる。井上勝が熱烈に支持する一方で、渋沢栄一などはむしろ完全な民設民営化を目指し激しくやりあっていた。
大勢としては民営派が有利だったが、最近になって風向きが大きく変わった。日清戦後、日本では工業化が進んでいたが物流の大動脈である鉄道の事業体が細切れとなっており、物流における不便さが認識される。軍部も日清戦争の経験からスムーズな輸送を望み、特に民営だと外国資本が入った際に軍事輸送を拒否される恐れがあった。経済的合理性と国家安全保障の観点から鉄道国有論が優勢になっている。
とはいえ反対論が消滅したわけではなく、慎重に調整していく必要がある。憲政党も鉄道を国有すべし、との建議案を議会に提出して可決するなどのアシストをしてくれていた。これをテコにして私(首相)をトップとする調査会を設置。来年の議会に法案を提出できるよう仕事を急ぐのだった。
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