擬古典主義
(犬という知恵のかたまりはもちろんニャアと鳴く獣でもわかる話)
若者たちが「何がテーマだ、文士ならば文章技術で酔わせろ」と吠えて、漢文も古文も英語も何でもアリという文章の調子を重視する擬古典主義が生まれた。
次に登場するのが、学生集団の【我楽多倶楽部】を基盤とする【研友社】の擬古典主義です。
擬古典主義の尾崎紅葉は【雅俗折衷体】を説きました。
文章のポイントポイントで読者に違和感を与える古語や英語を使って読者にストレスを与えて、読者の意識の流れをコントロールしていく。
このネタ知ってる?
学生の友達同士のノリです。
テーマとか言うよりも文筆家ならば文章表現の面白さを誇れ。
くだらないネタも無理やり面白くする。
徹底的に表現能力を磨け。
教科書にある【明治政府の欧化政策に対する国粋主義の反動】という擬古典主義に対する評価には相当に注釈が必要でしょう。
なお、余談ですが、その評価を言い出した写実主義の小説家・評論家の内田魯庵は、貧しくてキュートな小学生の女の子を見つけて援助しつづけて、最後に自分の奥さんとしています。
明治における女子小学生専門の貧困調査官。
息子さんの画家の内田巌は「うちの親父は現実に紫の上をやりやがった」と笑い話にしています。
それに対して、奥さんは「うちの旦那はあたしと結婚する前に(同年代の)三宅花圃さんのことが好きだったみたいで手紙をやりとりしていた」と旦那のペド疑惑を否定しています。
フィクションとして書くのならば内田魯庵は変態紳士として扱いたい人物です。
話を戻します。
擬古典主義が排外主義という意味での国粋主義と勘違いをしている学生さんたちは、当時の擬古典主義の作品『紅子戯語』など読んでください。
ぶっちゃけ学生ノリです。
楽しいと思えば、英語と古語も何でもアリ。
お前にはこれわかる?
そういう茶目っ気があふれています。
人工的に「国民」をつくりあげようとする明治政府の欧化政策に対して、現実に日本にあるものならば古いものも含めて全力で楽しもうとする若者たちの反動。
ちなみに、研友社には容姿が優れた者たちが何人かいて、「俺たちの顔写真を表紙にした方が、本が売れるんじゃね?」と話し合われました。
写実主義の持ちえなかった表現技法の面を戯古典主義は急速に伸ばしました。
読みやすさを考えた語順の整理や改行や紙面のレイアウトの整理など。
絶対に必要という場合でないときには、「すごい」「とても」「非常に」といった程度を表す形容詞・副詞を省略した方がいいとか、これも写実主義の言文一致体にはない発想です。
写実主義の作品は、黙読だとわからないけれども、朗読してもらうと途端に素晴らしさを感じるものがあります。
実は言文一致体の想定した日常の口語の会話を文章にすると、わりと読みづらいのです。
口語の会話のときには、イントネーションや単語の強弱や清音と濁音の響きの違いといった要素によって、語順の整理とか論理の整理とかいちいちやらなくても、話のポイントを示せるのです。
イントネーションや単語の強弱といった要素は文字にしてしまうとすっぽり抜け落ちてしまう。
だからこそ、話のポイントを効率よく示すためには、日常会話にない文章表現の技術が必要になります。
文章表現独自のテクニック重視する擬古典主義は文章表現さえよければ、ストーリーやキャラがおかしい作品も出版してしまう傾向があり、文学的価値はあまり認められません。
しかし、読む側のストレスを減らす技術を磨くことで、大量の情報送りつけやすくなります。
その磨き抜いた表現能力を用いて、しっかりしたテーマを描いた尾崎紅葉の『恋山賤』は、写実主義の小説家・評論家から大絶賛を受けました。
あと、紅葉の『金色夜叉』は読んでおいた方がいいかも。
表現技術よりもテーマだという話をする人は多いのですが、磨き抜いた表現技術が、しっかりしたテーマを持つ作品を書くときに武器になるのでよ。
読ませることに意識した紙面のレイアウトを考えた筒井康隆の『家族八景』など、ご一読あれ。
聴かせる写実主義と読ませる擬古典主義。
聴きやすさよりも読みやすさ。
禁断の扉みたいなものを開けてしまった擬古典主義。
本当に便利すぎ。
頼りすぎると、他の技法を勉強する機会が減るかもしれません。
・雅俗折衷体
・i日常に使われない古語・外国語の使用(写実主義との区別)
・テーマよりも文章特有の表現技術の重視
・語順整理
・間投詞や程度を示す副詞・形容詞の省略。
・改行の工夫
このあたりの技法が擬古典主義の技法と言えるでしょう。