森の逃走劇
木漏れ日のように降り注ぐ月光にあてられて、その大狼の毛並みは光り輝くようだった。その姿は思わず息を呑むほど美しい。
しかし同時に、こちらを睨みつける双眸や、見え隠れする牙、なによりその大きさは恐怖を感じさせた。
逃げるべきだ。
本能が告げていた。
勝てるはずが無い。
これほどの巨体を暗闇に潜め、音もなく近づいてきた。放たれている濃密な殺気すら、ほんの数分前までは感じ取れなかった。つまり、狩りの仕方を分かっているのだ。獲物を捕らえる術を身に着けている。
血に飢えた獣と呼ぶには、目の前の怪物はあまりに狡猾だった。
「コユキ‥‥‥逃げるぞ‥‥‥」
言いながらも、視線は狼を捉え続ける。一瞬でも目を離そうものなら、すぐさまこの化け物の胃袋の中だ。
早鐘を打つ心臓を抑え、静かに、ゆっくりと退く。徐々に、徐々に、距離を離していく。
狼の方はその場から動こうとしない。俺に興味がないのか、はたまたどれだけ距離が出来ようと捉えられるという自信からなのか。
とにかくしめた。動かないなら、その間に安全地帯まで逃げ延びてやろう。
一歩、二歩と後退していく。
だが、そんな歩みとは対照的に、コユキは一歩踏み出した。
「コユキ、何してる。近づくな」
そんな呼びかけも虚しく、コユキはもう一歩を踏み出す。
彼女の表情を盗み見ると、そこには魂が抜けたような顔があった。呆然としながらも、半開きになった口は、その両端が僅かに吊り上がっている。
笑ってる‥‥‥?
いや、微笑みを浮かべる唇の一方で、その瞳には悲しみが湛えられている。
やはり、今日のこいつは何処かおかしい。
相手がやばい相手だということは分かっているはず。普段の彼女ならこんな迂闊な行動はしない。
不意に、狼は喉奥で唸った。
その目は明らかにコユキを見つめている。
そして、前足を力強く踏み出した。
コユキと狼の距離が縮まっていく。
マズイ。このままではコユキが接触してしまう。
いやしかし、コユキならば大丈夫なのか?戦場でも圧倒的な力を見せた彼女だ。今回も一気に蹴散らしてしまうのでは。
淡い期待が生まれるが、同時に拭いきれない不安も募る。
逡巡しているうちにも、コユキと狼は接近する。
一歩ずつ、ゆっくりと。
緊張が胸を支配して、渦巻く。目の前の二対の行く末に、何が起こるのか。
固唾を飲み込んだ。
そのとき、怪物の鉤爪が猛烈に地を踏みしめた。
だがコユキに動きはない。ぼんやりしたまま、力なく前に進むだけだ。
たちまちピークに達した恐怖心が込み上げる。胃の中をすべてぶちまけてしまいそうな気分が広がった。
それらすべてを飲み込んで踏み出した。
肉薄する両者を眼前に、コユキに手を伸ばす。
獣の大きく開かれた口腔が迫るなか、どうにか掴んだコユキの腕を力いっぱいに引っ張った。
がつんと大きな音を鳴らして閉じられた狼の口。しかし、コユキを食うことはかなわなかった。
間一髪のところで救出したコユキを引っ張り続けて、俺たちは一目散に狼から遠ざかる。
「馬鹿やろう!何考えてんだ!」
大きく怒鳴ると、彼女はハッとしたように目を見開いた。
そして今しがた自分が取った行動を自覚したのか、その顔に後悔を色濃く滲ませた。
「す、すまん‥‥‥」
しおらしく謝るコユキに、俺はまだ文句を付けたい気分だった。
しかし、背後から狼が迫ってくるのを感じていたため、とりあえず口を噤んだ。
先ほど来た道はどちらだったか。そんなことを考えている場合では無かった。
とにかく、追ってくる脅威を振り切らねばならない。
木々の合間を縫って、曲がりくねりながら逃走する。
ちらりと後ろをみると、狼はその巨体をしなやかに動かし、林立する障害物をものともしない。
「くそっ!このままじゃ追いつかれるぞ!」
切れ切れの息で吐き捨てた。
「コユキ!何か策は無いか?コユキ!」
藁にもすがる思いで問いかける。
すると彼女は背後に視線を送り、ゆっくりと左手を振るった。
気づけば周囲には霧が立ち込めた。夜の空気が急激に冷え込み、下生えがぱきぱきと音を立てて凍り付く。
そして一瞬のうちに、俺たちと狼の間に巨大な氷の障壁が現れた。
氷壁の先では、狼が立ち往生を強いられているのが見える。厚く高い障害物に対して爪を立てるも、びくともしない。どうやら足止めに成功したらしい。
「最初からそれをやってくれ」
「いつまでも足止めできるわけでは無い。早く向かうぞ」
先ほどまでの様子は無く、コユキは毅然としていた。
迷いなく歩き出した彼女の後ろを着いて行く。
「向かうって、どこにだ?」
「先ほどの村だ。真実を問い質さねば」
言葉尻に含まれた怒りの調子に、俺は気付かないふりをした。再び歩き出す間際、コユキが名残惜しそうに狼を見ていたことにも。