杞憂
息が上がる。脚が重くなる。
景色が、目が回るほどの速度で流れていく。
輪郭を失う景色の中で、唯一前を走るコユキの背中だけはくっきりしていた。
一体、コユキは何を思っているのだろう。
先刻の衰弱した二人の言葉の一体何が、コユキをああして走らせているのだろう。
疲労が蓄積する只中で、その疑問ばかりが脳内を巡った。
どれだけの距離を走ったのか、どれだけの時間を走っていたのか。
それすら曖昧になりながら、俺はがむしゃらにコユキの背中に食いついていた。
するとやがて、前を走るコユキが足を止めた。
それまでの尋常ならざる速度の慣性を全て殺し、ぴたりと立ち止まった。
彼女に合わせて足を止めると、その瞬間、疲労が全身にのしかかった。
膝に手を着きながら、コユキと、コユキが見つめるその先の景色を目に入れた。
「ここは・・・?」
そこは集落だった。ニエ村と同じくなんてことない、ただの村だった。
住人がそこここを歩き回っており、近くにいた者の数人は俺とコユキを見ていた。
「あの、大丈夫ですか?」
俺たちに気付いた村人の一人が、そう声をかけてきた。
俺はその言葉に答えることは無く、憮然として立ち尽くすコユキに目を向けた。
「おい、コユキ。ここがどうかしたのか?」
「ここは、分からん。普通の村であることには間違いないのだが、何か・・・」
釈然としない、含みのある言葉だった。
未だにコユキがここまで走ってきた理由が分からない。
いや、彼女の言葉通り、彼女自身も理解できていないのだろう。
正体の分からない予感に引き寄せられて、ここに足を向けたのだ。
「おい、お客さんだ。歓迎しようじゃないか」
俺に問いかけてきた村人の一人が、他の村人にそう呼びかけた。
その村人は、困惑の淵に立つ俺とコユキを、あれよあれよという間に宴の席に着かせた。
「何が起きてるんだ、これ」
俺は隣に座るコユキに尋ねた。
「はて、一体の何の宴なのかのう」
コユキはもまた、この唐突な展開に頭が追い付いていないようだった。
目に付くのは、豪奢な御馳走と、酒と、騒ぐ村人。
高揚するその場とは対照的に、俺とコユキは冷静だった。
「お前、何で急に走ったりしたんだ」
「少し、思い当たる節があってな」
「思い当たる節?なんなんだ、それは」
「・・・いや、思い違いならそれでいいのだ。だが、少し様子を見たい。ここには、何かがあるような気がしてならんのだ」
何かとは一体何なのか。
皆目見当もつかない。
それにしても、こういう宴は久しぶりだ。魔物の襲撃に遭っていたニエ村を救った時も、こんな風に宴が開かれたものだ。確か、その時にユウナと親しくなったのだ。
物思いに耽っていると、村人の一人が声をかけてきた。
「ほらほら、お客さん。宴は楽しまないと駄目でしょ?」
片手に酒を煽りながら、仄かに赤くなった顔で言う。
「いやぁ、にしても珍しいこともあるもんだな」
「珍しいこと?」
「ええ。昨日の今日で、二度もお客さんが来るとは」
「二度?」
まさか、さっきの二人のことだろうか。
だとするならば、あの二人は逃げ出す前はこの村に居たのだろうか。
獣が来る。そう言っていた。
あの焦りようは普通じゃなかった。
きっと身の毛もよだつような思いをしたのだ。
だとするならば、この村は一体どうしてこうも普通なのだろう。
この村に、獣という奴が来たのではないのか?
しかし、この村には脅威に晒されたような痕跡はどこにもない。獣とやらの爪痕や、無残に転がる死体なんてものはない。
杞憂、なのだろうか。
そんな割り切れない思いを抱えながら、宴の時を過ごした。