悪性の神
彼が歩き去っていく。
歩いて、道行く人の中に紛れて、その背中は見えなくなってしまう。
彼は何を思っていたのだろうか。
私が吐露した思いを、彼はどう感じたのだろうか。
きっと私は嫌われてしまっただろう。
当然だ。私は彼が大事に想うエルリアル様を陥れたのだから。
なのにどうしてだろう。
悲しいと思わない。そして嬉しいとも思わない。
心が、まるで鉛のように重く、動じず、何も感じない。
抜け殻にでもなったようだ。
「やあ」
突然、頭の中で声が響いた。
私はこの声を知っている。
私はこの声にそそのかされ、そして今この状況に至っている。
声の主は、悪性の神。
この神は、いつも姿を現さず、こうして声だけを聞かせてくる。
「久しぶりだね、第四王女」
二重に重なったかのような声が頭の中で響く。
「最近めっきり声がしないと思ったら、今ですか」
「まあ、こういっちゃなんだけど、君は用済みだったからね。相手するだけ無駄だったのさ」
「口が悪いですね」
私がそう言うと、神は高らかに笑った。
そしてひとしきり笑った後、話し始めた。
「私は悪性の神だよ?悪口は言ってなんぼ、悪事は働いてなんぼだよ」
上機嫌なのが声音から分かる。
それがなぜだか腹立たしい。
「にしても、彼は優しいね。君を咎めないなんて。甘すぎて反吐が出るよ」
「いいえ、彼は私にこの罪を罰さず、赦されないまま背負って生きろと言いました。たとえ押しつぶされようと、それでも生きろと。確かに優しい言葉ではありますが、同時にこれ以上なく残酷な言葉です」
人知れず罪悪感を抱えて生きていくこと。それがどれほどまで過酷であるのか。
たとえ自責の念に殺されてしまいそうでも生きることは苦しいに違いない。
「でもそれ、他人の受け売りだよ?彼が生み出した言葉じゃないよ?」
「だとしても、彼がこの言葉を贈ったことに、彼自身の思いがあるはずです。それを見ないふりは出来ません」
「たった今振られたのに、健気だね」
私を嘲笑するように神は言った。
これ以上会話をしてもこの意地汚い神を喜ばせるばかり。それはとても不愉快なことだ。
早々に話を切り上げようと、私は考えた。
「それで用件はなんですか」
隠し切れなかった苛立ちが、自分でも無意識のうちに語気を強めた。
「おぉ、怖い」
そんな私の態度を、神はまたも嘲った。
「いやね、さっきも言ったけど君は用済みになったんだ。本当に、道端に落ちてる小石ぐらいにしか思ってなかった。でもそれが今は障害になっちゃった」
「彼にあなたのことを話したから?」
仮にそうなのだとしたら、嬉しい限りだ。
彼に悪性の神の存在を教えたのは、他でもなくこの不快な声の主を困らせるためだったのだから。悪性の神の不利益に繋がればいいと思ったからだ。
しかしそうではないらしい、というのがすぐに分かった。
なぜなら声に焦りや動揺が見受けられないからだ。
「それはいいよ。どうせ彼は私を知ることになる運命だった。それが早くなっただけだ」
私はその言葉に落胆した。
「そうじゃなくて、君が私のことを他の誰かに吹聴して回る可能性が出来たってことさ」
「・・・そうですか。早めに誰かに話しておけばよかったです」
暗い声音でそう言うと、神は愉快そうに笑った。
「それは無理さ。言ってしまえば、自ずと君の罪が露見することになっただろうからね」
「私はあなたにそそのかされた。その事実は変わりません」
「よく言うね。恥とか無いの?」
「不思議とあなたにならどれだけ恥を晒しても構わないと思えます。あなたにどう思われようと構いませんから」
神は大きくため息を吐き、そして口を開いた。
「私はあくまで選択肢を提示しただけさ。最後に選んだのは君だ。責任転嫁は辞めてくれよ」
返す言葉も無かった。
悪を冠する神に正論を言われた私は、おそらくこの世界で最も惨めだろう。
「それじゃ、人のいないとこまで来てくれる?私にはよくても、民衆に恥を晒したくは無いだろう?」
私は辺りを見渡し、路地裏へと入っていった。
自然と、彼と初めて会った時のことを思い出す。
場所は違うが、彼と会ったのもこんな路地裏だった。
もしあの時に戻れたら、私は同じことをせずに済んだだろうか。
そんな不毛な自問に、私は否と答えた。あの時、あの場所で、私はきっと恋に落ちるのだ、そして今の私になるのだ、と。
「そこでいいよ」
その言葉に、私は足を止めた。
「別に姿を見せなくてもいいんだけど、まあ冥途の土産ってやつだ。特別だよ?」
二重だった声がそうではなくなっている。
頭の中で響いていたのが、今は路地裏に響いている。
路地裏を満たす暗闇の奥から、足音が聞こえてくる。
足音は段々と近づいてきて、やがて私の前に現れた。
その姿に私は言葉を失った。
そんなはずがないと、そう思った時。
「それじゃあ、さようなら」
私の首は斬り飛ばされていた。
「アルマ君。数多の苦難を越えた先で待っているよ」
最後に聞こえたのはそんな言葉だった。