8.マリーの転落
あれから2週間。未だ熱狂の冷め止まぬ辺境領都の中にあって、肝心の洋介と剣聖はいずこかに消え去っていた。
誰もかれもが洋介と話したがり、勘違いしたものが剣聖にも話しかけ切り飛ばされたり、ともかく彼の周りは騒がしいばかりであったから嫌気がさして逃げ出したものと見受けられる。
マリーは少しだけ行き先が気がかりではあったが、彼らを見かけなくなった3日後に辺境領都から南に数十里離れた他領の街にある冒険者ギルドから照会の連絡がきた。
曰く、領都第二冒険者ギルドに所属しているヨースケという冒険者が本領で短期活動を希望しているが、これは本当に存在する人間なのかという、いわば実在確認のための照会連絡であった。
どうやらうまい事逃げ出せたらしいと安心したマリーは、毎日の事務手続きの一環としてその実在性を保証する返信をしてやる。
右のものは確かに第二冒険者ギルド所属のF級冒険者で、数日前に事情があって一時的に領都を離れた、とかなんとか。
ついでにヨースケが竜殺しの大人物である付加情報を添えようか迷ったが、本来最底辺のFランク冒険者に定められた事務手続き以上の余計な処理は不要とされている。
下手な返信で相手を混乱させても申し訳ないと思ったマリーは余計なことは書かなかった。
これが結果としてナイスアシストとなり、ヨースケ達はその後数週間の穏やかな冒険者生活を過ごすことが出来るのだが、これは今回の物語の趣旨とは関係のない話。
本題はやはりマリーのことであり、何より愛しい恋人、ガストンとの一件であった。
ブラックドラゴン討伐から2週間。
少しづついつもの日常を取り戻しつつある毎日の中で、いつものようにお惣菜を片手に我が家に戻ったマリーを待ち構えていたのは、険しい顔をしたガストンであった。
「マリー? 君と話したいことがあるんだ。」
ガストンのその真剣なまなざしにマリーは緊張を覚えつつも、「ええ。」ととにかくこくりと頷いた。
何でも本日、件のブラックドラゴン討伐についての調査部会が執り行われ、ガストンも特別な配慮をもって会合に加わって来たのだそうだ。
ガストンの恋人が第二冒険者ギルドの花形受付嬢、マリーであることは騎士団の中では知られた事実であった。今回の一件が明るみになり、そこにマリー嬢が関わっていることが分かった段になって、騎士団団長は気を利かせ、部会の最中にいっさいの発言権がない事を条件に参加の誘いをし、ガストンはもちろん喜んでこれを受けた。
一件以来すっかりふさぎ込んでしまった最愛の恋人の真実がガストンは知りたかったのだ。
部会に出席するのはマルダー辺境伯に腹心のカロット伯爵、鋼鉄騎士団団長や水晶魔術師団長、さらには大勢の辺境貴族や有力者たち、いずれも名だたるそうそうたる人物たちばかりで、豪胆で知られるガストンもさすがに畏怖の念を禁じ得なかったそうだ。
人々が固唾をのんで見守る中、調査部会では一連の事件のあらましがつまびらかにされてゆく。
数奇な事情を経て剣聖を配下に携えた冒険者ヨースケが第二冒険者ギルドに所属している由。
カロット伯爵が第二冒険者ギルド長に剣聖出撃の要請をかけた由。
ギルド長が冒険者に相談を持ち掛け、これに対し冒険者があろうことかギルドの花形受付嬢マリーとの一夜を所望した由。
ギルド長が受付嬢に相談を持ち掛け、マリーがこれを快諾した由。
そして彼女の献身により冒険者ヨースケは剣聖とともに出征、見事ダナーを討ち滅ぼし、辺境に平和がもたらされた由。
何だそれは! 何なのだそれは!!
ガストンは次々に明らかになる事実に目まいを覚えた。状況を咀嚼するのにしばしの時を要した。そして全てを理解するにつれ、怒りがふつふつとこみ上げてきた。
あの日マリーは「相手が誰かは聞かないでくれ」としきりに懇願していた。それはつまり、相手がよほどの大人物であった事が今になって伺い知れる。
なるほどF級冒険者ヨースケなる人物は恐らく大したことのない小人物であろう。だが今回の一連の件の背後に、領主の絶対の命令があり、ギルド長の強要があり、マリーがやまれずに従わざるを得なかった事情があれば、あの態度も大いにうなずける。
マリーは暗に領主に立てつくなと、そうガストンを諭そうとしていたのではないか。
ガストンは目の前にいるすべての人間がマリーを貶めた敵であるように見えてきた。
部会は進み、みながそれぞれ意見を言う段へと移っていた。
「では、今後剣聖を動かすにはマリー嬢を使えばよいという事ですかな?」とカロット伯爵。
「どうだろうな? そもそも我らにギルドの受付嬢などといった人物を目的外に差配する権限もなかろう。他に女を宛がうのが適切ではないか?」これはマルダー辺境伯。
「いっそマリー嬢とやらを囲えばよいのでは?」と、下卑た笑みを浮かべる名前も知らぬ小領主。
「さて、そのあたりはいかようにでも考えればよいが、とにかく剣聖をこれからも使えるようにすることが肝要でしょうな。」と、改めてカロット伯爵。
ああやはり、とガストンは思った。
領主マルダー、カロット、第二冒険者ギルド長、その他有象無象の貴族や有権者たち。お前らがマリーを……
ギリギリと噛みしめる奥歯から音が鳴る。憎しみに世界が真っ赤に塗り替えられていく。ないはずの剣の鞘のあたりに、自然と手が伸びてしまう。
ハッとなった騎士団長がガストンの腕を掴む。
「落ち着け、ガストン!」耳元に響く小さな叱咤に、だがガストンは聞き入れず、ねっとりとした怨嗟の瞳を騎士団長へと向けた。
そんなガストンの肩を何度か叩くようにして、騎士団長は諭すように口を開く。「ガストン! お前は勘違いをしている! ガストン!」
それから騎士団長は大きく手を上げた。「発言をお許しいただきたい!」
程なくして騎士団長の発言が許可される。
「先にご領主様が言及されている事柄ではあるが、本来第二冒険者ギルドの受付嬢などという立場のものに、貴族の皆々様方が何か特別な命令を下す権限はございませぬ。
翻るに今回、もしカロット伯爵様並びに冒険者ギルド長のお方々が一般市民たるマリー嬢へ強要するようなことがあれば、これは帝国法に対する重大な背任行為となり得ます!
正義の女神に剣を捧ぐ我、鋼鉄騎士団団長ダッタイト・レーベンとしては、この点にいて他意なきことを関係諸氏に明らかにしていただきたい!」
「何を生意気な……!」顔を真っ赤にし立ち上がろうとする小領主を片手で制したのは領主、マルダー辺境伯であった。
辺境伯やにわに立ち上がると騎士団長の脇に立つガストンへ向き直った。辺境伯はこの日、マリーの恋人たるガストンが同席することを事前に聞き及んでいたのだ。
そんな辺境伯は、ほかならぬガストンに向かってこう宣言した。
「我はマリー嬢なる女性の事は聞き及んでいなかった。第二冒険者ギルドを使えば剣聖を動かせるかもしれぬとカロット伯爵より提言を受け、ではそのようにせよと命じただけだ。いたいけな女性を犠牲にする意図はなかった。神に誓おう。」
厳かにそう言葉をつむぎ、どっしりとまた席に腰を下ろした。
続いて立ち上がったのはカロット伯爵。
「わたくしめもマリー嬢なる女性のことは終ぞ頭にありませんでしたな。わたくしは立場上、様々な事に精通する立場にあり、事前にヨースケなる冒険者が剣聖を御した経緯などは把握しておりましたが、ではヨースケをどのように使えば事がなせるかまでは考えがございませんでした。
もっとも!」ここでカロット伯爵は一息つく。「第二冒険者ギルドがFクラス冒険者の魔石の特例などを不当に活用して、何やら違法に儲けているようだという噂は聞いておりましたな! このあたりを用いて揺さぶりをかければあるいは使えるだろうといった算段があったことはここに告白いたしましょう。
まあ切り札はすぐには使わずに、まずはやんわりとギルド長へ依頼をしたのみにございますが。それでうまくいったので、少々拍子抜けしている次第です。ギルド長は命拾いしましたな!」
カロット伯爵は「はっはっは」とまるで笑ってない顔で笑い声を上げながら、再び席についた。
「何だその違法行為とやらは。」苦々しい顔のマルダー辺境伯がそんな伯爵に声を掛けるも、「まあ、ちょっとしたものです。今は見逃してやっている最中ですから余計な事は考えぬように。」と涼し気な顔のカロット伯爵。辺境伯が「ぐぬぬ」と声を上げるが、この話はこれ以上は続かなかった。
最後に証言者として召喚されていたギルド長が部会席の前へと連れてこられる。
「さて、ギルド長よ。そなたよもや、受付嬢に強要などをしていまいな?」すごむような辺境伯の声に、飛び上がるギルド長。
「めっそうもございません! わたくしめはただお願いをしたばかりにございます! それも始めはすげなく断られたのです! わたくしはてっきり失敗したと思っていたのに、いつの間にやらヨースケとやらが竜を滅ぼしていたので、驚いている次第なのです!」
「立場にあかせてマリー嬢を追い詰めたのではないか?」なおも追及の手を休めぬ辺境伯。
「とんでもございません! 神に誓ってそのような事は!!」その場に平伏するギルド長。
その様子をじっと眺めた辺境伯は騎士団長、いや騎士団長の隣に立つガストンに向きなおるとこう語り掛けてきた。
「さて、このものはこのように申しているが、そなたは信じられるか?」
ガストンは首を横に振った。隣に立つ騎士団長がガストンの意を汲んで「恐れながら、信じられませぬ。」とそう返答した。
「さもありなん。」マルダー辺境伯は大きく頷くと、「このものを『真実の瞳』にかけよ!」と配下の者に命じた。
騒めく調査部会。騎士団長もガストンも目を見開いた。ギルド長も「なっ!?」と声を上げた。
『真実の瞳』は魔術の力を用いて自白を強要する恐ろしい術だが、対価として被験者に大変な苦痛をもたらす。場合により気をおかしくさせてしまうほどの強力な術に、帝国法では一般市民への使用は著しく規制されている術であった。
しかしてギルド長は辺境一帯の貴族どもの頂点たるマルダー辺境伯に対して、寄り子の立場から決して逆らえない事情がある。親が「カラスの色は白」と言えば子もまた「白」と応えねばならない。貴族という名の武闘派ヤクザ同士の上下のつながりの中で、ギルド長は抗う術もなく『真実の瞳』の術下に置かれた。
水晶魔術師団長の怪しげな呪文の詠唱に「ぎゃっ!」と悲鳴を上げるギルド長。
だが容赦なく魔術は行使され、強要された自白が次々と状況を明らかにしていった。
――ヨースケくんのお願いなんだけど。その、マリーくんとね、一晩をともに出来るのなら受けてもいいって、そう言うんだ。
強力な魔法がギルド長の脳内をかき回し、当時の会話が一字一句正確に再現されてゆく。
――ボクがお願いしたら、ヨースケくんにもお願いされちゃった。
――じゃあギルド長、私が今すぐこの場で首括って死んでくださいってお願いしたら、聞いてくれます?
――えっ……!?
――いいんですよギルド長。これはただのお願いなんですから、別にいう事を聞く必要はないんです。お願いってそういうものですよね? ね?
――う、うん。
マリーとの軽妙なやり取りの再現には、部会内のみんなの笑い声が響いた。
――これは本当に首をくくらなければならなくなったかもしれない……
ギルド長の独白とともに、勤務時間中に釣りに勤しむ様子はみなの失笑を買った。
そして、ブラックドラゴンダナー討伐の掛け声に驚いたギルド長がその場にへなへなと崩れ落ちた時の様子が語られる段にまで辿りつくと、もはや誰もが彼の潔白を疑わなかった。
術が解かれ、苦しみのあまりのたうち回るギルド長を押さえつける衛兵のやり取りが一段落すると、マルダー辺境伯は再び立ち上がり、騎士団長の隣に立つガストンに向かって声を掛ける。
「これで我らに一切の不正がなかったことは証明されたかと思うが、そなたの信じるに値する内容であったかな?」
直答を許されないガストンに代わり、騎士団長が一歩前に出て返答をする。
「充分にございます、辺境伯閣下。皆々様は確かに法の下に正しく行動された。一片たりとも疑いを覚えたこのわたくしめの不肖をお許しください。」
そしてその場で深々と頭を下げる。
「よい。そなたの疑念は当然のものであった。疑いが晴れて私は満足している。まっことマリー嬢は義勇の士であった。彼女の私心なき献身があって辺境は救われたのだ!」それから大きく両手を掲げ、「マリー嬢の献身に拍手を!」と声を張り上げた。
程なくしてみなの手からぱちぱちと拍手が鳴り響いた。それは喝采と呼べるほどの立派なものではなかったが、温かみのある、柔らかな拍手であった。
ギルド長は床下に押さえつけられながらうめき声を上げていた。
こうして調査部会は幕を閉じた。
そして今、狐につままれたような表情となったガストンは、そのまま少し早めに自宅に戻り、マリーの帰宅をこう待ち構えていた次第であった。
だいたいのことのあらましを聞かされたマリーは、「そう……。」と小さく返事をするくらいしかすることがない。
対するガストンはどうすればいいか分からないといった様相でマリーへこう訪ねてくる。
「なあ? マリー。どうしてマリーは自分を犠牲にしようなどと思ったんだ? 何故ヨースケなどという落ちこぼれ冒険者に抱かれようと思ったんだ? どうして……?」
「それは……。」マリーは答えに窮してしまった。正直、マリーにもどうしてあんなことになったのだか、よく分かっていないのだ。
なんとなくとにかく彼らに会いに行こうと考えて、なんとなく話の経緯がおかしな方向へと進むうちに、どういう訳だか彼らと一夜を共にすることになっていたのだ。
だからマリーは素直にこう答えるしかない。
「自分でもよく分からないの。ただ気が付けばそういうことになっていて……。」
「自らの意志で抱かれたのではないということか?」ぎろりと睨みつけてくるガストン。この顔はマリーを責める顔ではない。マリーに無理強いしたヨースケ達を非難する目なのだと、マリーにはすぐに分かった。だが何故か、マリーは自分が責められているような気持になった。
何故ならば……。
「いいえガストン。あの日私は、自らの意志で彼に抱かれたわ。」
そうなのだ。確かに剣聖による脅しはあった。だが彼女が「あなたが身を差し出せばダナーを討ってあげる」と取引を持ち掛けてきたとき、首を縦に振ったのはほかならぬマリーなのだ。
あの時どうしてそんな気持ちになったのか、正直よく覚えていない。
ただただ剣聖が恐ろしかったのか、それともカガリちゃんたちが故郷に死にに戻る様子が耐えがたかったのか、それともあの金物屋の店主のように……。
そうだ。都会から来たマリーはずっとこの街では余所者である印象がぬぐえなかった。みながマリーに優しくしてはくれるものの、どこか客人扱いされているとずっと感じていた。
都会からやってきた人々はダナーが現れてすぐに逃げ出してしまった。美味しいローストビーフの店のノリカさんがいい例だ。
だが金物屋のオヤジさんやカガリちゃん、ケトラくんは命を賭けてこの地に残ると言っていた。だったらマリーはどうすればいい?
マリーは近い将来ガストンと所帯を持って一つになるつもりだ。この街に溶け込み、ガストンと共に辺境で生きていく心積もりがあるのだ。
だったらマリーも何か一つ、賭けてみてもいいじゃないか。命とまではいわずとも、この身体ひとつ賭けることで辺境の力になれるなら、皆はマリーを温かく受け入れてくれるのではないか。
そこまで思い至ったマリーは、驚きに目を見開くガストンに対し重ねてもう一度、こう告げる。
「私が彼に抱かれたのは自らの意志よ。私は彼と、合意のもとに一晩を過ごしたの。」
この返答に、ガストンは吠えた。
「けれどもあの日! きみは泣いていたじゃないか! 泣き崩れてオレにしがみつき、その後3日も寝込んだじゃないか! どこが合意なんだ! 合意した男女がどうしてあんな風に心身をおかしくしてしまうというのか!」
「それは……!」マリーはガストンの指摘に返す言葉もなかった。
そんなマリーに詰め寄るガストン。
「あの日の前の晩、君は『みんなのために自分を犠牲にすればいい』などと悩みを口にしていたな!? だがオレはこう答えたはずだ。君は自分のことだけを考えればいいのだと!
他人を背負うのはこのオレの仕事なのだと!
オレの話を聞いてなおどうして自らを犠牲にしようなどと考えた! なぜ好きでもない男と一夜を共にしようとした!
何故オレの言う通りにしてくれなかったんだ!
どうして自分を大切にしてくれなかったんだ!
なぜ! どうして!」
ガストンはマリーの肩をがっしりと掴み、乱暴に上下にゆする。だがマリーは何の回答も持たない。どうしてと聞かれても理由が思い至らない。
その場に崩れるようにして膝をついたのは、ガストンの方だった。さめざめと泣きながら、懺悔にも似た独白を口にする。
「そんなにオレが信じられなかったのか……!
オレが……!
オレが悪かったのか……!」
マリーは思った。もちろんガストンは悪くない。だがしかし、ガストンを頼ろうとも思わなかったマリーは、それでも自分が悪いとも思えなかった。
確かに彼らと一晩でも関係を持ってしまった事はマリーにとっては不本意なものだったし、心も体も傷つきもした。
だが結果としてダナーは打ち倒された。その事にマリーは今、万感の思いがある。
些か風変わりな関わり合いではあったが、暴竜討伐の一翼を、マリーは確かに担ったのである。
だからマリーは褒めてほしかったのだ。「辛い思いもあったろうが、よくやった!」とガストンに讃えてほしかったのだ。そうすればすぐにでもこれはあんまり思い出したくない思い出として過去のことに出来たはずなのに、肝心のガストンが今足元にひざまずいて自分を責めるばかりだから、いつまでたっても話が前に進まないのだ。
「マリーが一言事前に相談してくれさえすれば……。
オレは……!」
ガストンは未だにそんな事をぶつくさ言っている。
だからマリーは彼の横に膝をつき、こう声を掛ける。
「ガストン。あなたに相談もせず、勝手な事をしてごめんなさい。それに……。」続けての一言を、マリーは口に出していいか一瞬悩んだ。だがどの道いつかは言わねばならない一言だろうと決意した。「あなた以外の男と、その、関係を持ってしまってごめんなさい。」ガストンはビクンと震えた。
「もう二度としないと誓うわ。だから……。」マリーがそっとガストンへ手を差し伸べようとすると、
ばちんっ!
ガストンがその手を払った。
びっくりとなり、思わず後ずさるマリー。
「あ、ああ。」びっくりした表情なのはガストンもだった。「いや、すまない。つい反射的に……。」
「え、ええ。」マリーは気を取り直し、もう一度ガストンへと手を伸ばそうとする。
「触らないでくれ!」ガストンの悲痛な叫び声。
マリーは慌てて手を引っ込めた。
「いや、その……。」真っ青な顔のガストン。「その、君に触られようとすると、どういう訳だか怖気が……。いや、もちろん君を愛する気持ちに偽りはないはずなのだが……。」などと言い訳じみた事を口にする。
そんなガストンの様子を目にしたマリーは……
「私が他の男に抱かれたから?」
彼の中の核心を言葉にしてみせる。
ビクンと震えるガストン。どう取り繕っても、それが真実であることが暴かれてしまった。
やがてうずくまる様にしてさめざめと泣きだすガストン。そこからは男の一方的な懺悔が始まった。
「駄目なんだ……!
マリーがオレではない男と関係を結んだと考えてしまうだけで……!
苛立ちや、悲しみや、殺意や、絶望や、様々な感情が渦巻いてしまうんだ……!
せめてこれが無理やりであったのなら、納得は出来たんだ……!
けれども合意があったなどと言われてしまうと……!
このオレを差し置いて君が見知らぬ男に自分から股を開いたのだなどと考えてしまうと……!
愛しているはずの君のことですら……!
殺意が芽生えて、堪えきれなくなるんだ……!」
これにはもう、マリーとしても何も返す言葉がなかった。
自分が取り返しのつかない過ちを犯したのだと今になって気付かされたが、もうすでに手遅れだった。
それにマリー自身にも自覚があった。あの日ガストンは「誰にやられた!?」としきりに相手の事を気にしていたが、マリーとしては答えるわけにはいかなかった。
何故ならあの日、マリーは生まれて初めての深い快楽を覚えてしまったのだ。
もちろんヨースケにではない。剣聖タニアにだ。剣聖のもたらす類稀なる享楽の術に我を忘れ、深く溺れて乱れに乱れたマリーは、おおよそみっともない痴態を憚りもなくまき散らしたのだ。
だからマリーはガストンに知られるわけにはいかないと考えてしまった。
嫉妬深いガストンがあんな風になったマリーの事を知れば、それだけで二人の関係はお終いになること間違いなしであった。
だからマリーは相手のことも、相手との間で起きた出来事のことも、いっさいを知られるわけにはいかないと考えてしまったのだ。
だって合意があったからこそ、マリーはあの晩あんなにも感じてしまったのだから。
……ストックホルム症候群という言葉はこの世界にはない。マリーがその概念の知識を少しでも有していれば、きっと彼女はもっと別の結論に達したに違いない。
だが彼女は知らなかった。自己防衛のためにわざとそう思い込もうとしているだなんて、考えもしなかった。だから彼女は『それは「合意」であった』と考えるしか他に術がなかった。
だからマリーは泣きじゃくる大男の後頭部をいつまでも眺めつつ、何も返す言葉がなかった。
何もできないまま少しばかり時が進み、やがて落ち着きを取り戻したガストンが立ち上がる。それからガストンは、涙にぬれた顔を無理やりくしゃりと笑顔に変えて、どうにか次の言葉を口にする。
「すまない、マリー。今日のオレは正常ではいられない。今日は騎士団の宿舎で寝泊まりしようと思う。すまない。」
そして彼は簡単な準備だけして、すぐに出て行ってしまった。
残されたマリーは唖然と立ち尽くし、それからとにかく一人でも夕食を取ろうと、買ってきた総菜と作り置きのクリームシチューと焼いたパンで遅い晩餐を簡単に済ませた。
料理の味はどれもさっぱり分からなかったが、溢れる涙の分だけ塩辛く感じた。
続く1週間、彼は一度も家には戻らず、久々に会った週末の夜に二人は破局した。
別れの際の彼の言葉は「オレは姫を守る騎士になりたかった。君はオレが守るには強い女性だった」という、正直マリーにはなんだかよく分からないものであった。
ガストンとマリーについては、作者がもともと本作品をのくたん向けに考えていただけあってNTR要素もありのひでぇ展開を予め決めておりましたので、おおむね予定通りのゲスい着地をしてくれて書いてる本人は大満足だったりします。
お貴族様達が大勢集まる中、領主様直々に「お前の恋人は自らの意志で違う男とセックスした」と宣言されたガストンの心境を慮るに、下卑た笑いが止まりません!
ヒドイ作者でごめんなさい。