四十話 我こそは神なり
『すまんな隆宗。おまえの体を使いすぎた』
どこか遠く聞こえる声に、辰野は閉じていた目を薄く開いた。景色は乳白色のような優しい色合いで、暗くもなく、眩しくもないぼんやりとした空間だった。
少し離れたところに立つのは、自分とそっくりな顔をした男。ただし、頭から角は生えているし、平安時代の貴族のような着物をまとっている。
「……もしかして、神さまですか」
『左様。若宇加能売雨竜彦だ』
穏やかだった表情もつかの間、雨竜彦の顔は悪鬼のように歪んだ。
『私は、あの男をまだ殺せなんだ』
辰野の頭の中に映像が流れてきた。短い場面がいくつも続き、時系列もバラバラであるのだが、不思議と理解できた。雨竜彦は、過去に大事な人をあの芦屋という男に殺されている。
身を焦がすような怒りと憎しみが、辰野に伝わってくる。気持ちの強さに飲み込まれてしまいそうだ。
『口惜しい、ああ口惜しい。かくなる上はおまえを喰ろうて祟り神にでもなろうかと思うよ』
聞いたことがある。日本の神は祟ると。そうなってしまえば辰野は死ぬのだろうか。もう教卓に上がることも、生徒と言葉を交わすこともないのだろうか。二度と両親や友人へ会うこと叶わず、一生をここで終える。それは嫌だなと思った。やりたいことがまだまだある。……三葉にもお礼を渡せていない。
激情をたぎらせた雨竜彦だったが、そこで雰囲気が緩んだ。眩しいものを見るように目を細め、ふっと息を吐く。
『……あの娘が、道をくれるという』
娘とは誰のことかと思いつつ「道ですか」と辰野が聞き返すと、雨竜彦は優しく笑った。
『隆宗よ。まだしばし共に生きようか。私とて、おまえと一緒に世を見るのは心地がいい』
辰野の意識がゆっくりと浮上する。しかし自分の体なのに借りているような感覚だった。すぐ目の前には涙をひと筋ながす三葉がいた。拭ってやりたいと思っても、腕を動かすことができない。
三葉の形のいい唇がゆっくりと言の葉をつむぐが、辰野はそれがうまく聞き取れなかった。しかし自分の体が発した言葉はよく伝わってくる。
『此は若宇加能売雨竜彦。……三葉唯香に従うモノなり』
◇
腕に満身創痍の辰野を抱きしめ、三葉は雨竜彦の姿を見た。以前と同じ姿だった。
神をその身に憑依させる「神卸し」は誰もができることではない。修行を積んだ巫女や神職、あるいは生まれ持った素質がなければ、神気に耐えられずに体が崩壊してしまう。内に宿すには問題がなくとも、雨竜彦が前へ出て力を行使することに辰野の体は耐えられなかったのだ。
だとすれば。
『この姿は二月ぶりか』
式神となり雨竜彦の神体を外へ引き出せば問題ない。指導室で怪異を吹き飛ばした、あの日のように。
芦屋は不満だった。全身が裂傷だらけ。これは森ノ宮の返納呪術によるもので、つけられた傷を芦屋へ上乗せで返されている。普段ならばかすりもしないが、雨竜彦から受けたダメージは思いの外重く、ガードに手が回らなかった。加えて今代陰陽頭・葛葉要が唱える緊縛の術が芦屋から自由を奪い去っていた。思ったよりも術師としての格は高いようだ。
魑魅魍魎どもは堺が灰燼に帰し、贄の人間たちは葵らが無力化し保護してしまった。大ムカデは化け狸と取っ組み合いの最中、夜ノ助はおのれの手で八つ裂きにしてしまったしで予定はガタガタだ。
怒りで感情が沸き立つが、それも一瞬のこと。芦屋は仮面の下でニヤリと笑った。力をため、要の封じを振りきると、夜ノ助を回収しつつ大ムカデの元へ一瞬で移動した。巨大な化け狸と組み合っていたが、芦屋が手を振ると化け狸は壁へ叩きつけられた。大ムカデは恐怖し、逃げるように異界の穴へ戻ろうとして途中でぴたりと動かなくなる。
「せっかくここまで育てたが、仕方ない」
懐から出した注射器を躊躇なく人間部分の首へ突き刺す。その時、銃弾が芦屋の頬をかすめた。とは言っても本物の銃弾ではないのだろう。そんなもので芦屋の体を傷つけることはできない。銃弾は休むことなく胸、頭、太ももと確実に嫌なところを貫いてくる。
視線をやると、そこにはライフルの銃口を向ける三葉の姿があった。芦屋は不愉快な気持ちもあったが、同時に楽しくもあった。久しぶりに遊びがいのある玩具を見つけた気分だ。また機会を設けて遊びたい。
「また会おう、陰陽師たち」
そう言って芦屋はボロボロの夜ノ助と共に姿を消した。まるで最初からいなかったかのように、跡形もなく。
『ヴァ、我ゴゾバァ、神ナギィィイイッ!!』
芦屋の消失に驚く間もなく、三葉は大ムカデの暴走に目を張る。苦しそうに巨体を暴れさせ、みるみるうちに体が肥大化していく。特別室の中にはほとんど人はいなかった。部屋の壁も床もあちこち壊れていて、測定器やカメラも無事なものは少ないだろう。
『ヴァデ、ゴゾ……プァッ……ギィッ……』
『唯香、もう十分だ! 早く避難しろ!』
インカムから厳しい声音が聞こえる。
当初の予定は太三郎が大ムカデを押さえつけ、その間に要が封じの術を行使するものだった。しかし芦屋と雨竜彦の乱入に計画は変更。封じの術は芦屋にかけられ、三葉はその間に逃げろと言われていた。辰野の体だってもう別の場所に運ばれている。
『ア、ガアア……グルジ、イィ……』
化け物の苦しむ声が後ろ髪を引く。ふくらみ続ける風船のように、いつかは破裂するだろう。もはやその存在は時限式の爆弾だった。
「……もう少しだけ時間をください」
静止の声を無視して、三葉は暴れ狂う大ムカデへと駆け出した。両手には漆黒と白銀の剣を持ち、襲いくる触手を切り倒し、のたうつ胴体を避けながらブクブクに膨らんでいる化け物の上部へと向かう。
『ダ、ズゲデェ、ダズゲ、アア、イダイィィイイ』
三葉は狙いを定める。ぶくぶくと膨れた体の中に見える核、そこへ向けて刃を差し込んだ。膨張のせいか体表が柔らかくなっていて好都合だ。思いきり力を入れて切り裂くと、中から生臭い粘液が吹き出した。その奥からはぐちょぐちょとした内臓のような肉壁があらわれ、三葉は迷うことなくそこへ腕を突っ込む。自身も粘液で汚れることも気にせずに、肉塊をまさぐっていく。
「!」
手ごたえを感じ、両手で力いっぱい引っ張ると、ひとりの人間がずるりと出てきた。
「太三郎!」
声を張り上げると、頭上に影がかかり、巨大な獣が芯を失った大ムカデへ食らいついた。バキ、ゴリ、と鈍い粉砕音をさせながら、太三郎は大ムカデを噛み砕き、飲み込んでいく。
粘液まみれの人間は男で、目を見開いたまま何かをずっと呟いている。
『おれ、は、神、だ。神な、んだ』
三葉は何も言えないまま、ただ男を見つめた。男は——荒川誠司はすでに死んでいた。死してなお肉体に閉じ込められ、利用され、妄執に取り憑かれている。死を自覚させるためにも何か言いたいのに、うまく言葉が出ない。肯定しても、否定しても、彼は受け入れない気がした。
その時、雨竜彦が三葉の隣に現れる。ゆっくりとした動作で床に膝をつくと、横たわる荒川へ手を差し伸べた。
『このような所に留まらず、天へのぼれ。道が分からぬなら連れて行ってやる』
優しい眼差しをする雨竜彦に、荒川は目を見開いた。すがるように手を伸ばし、やがて動かなくなった。三葉はその光景にただただ驚くばかりだった。雨竜彦は三葉へ振り返ると、辰野と同じ面持ちでふわりと笑う。
『私は神だからな』
そう言って雨竜彦は溶けるように姿を消した。辰野の中へ戻っていったのだろう。
いつのまにか黒翔が肩にとまっていて、放心する三葉の髪をくいくいと引っ張る。その頭を指先で撫でると三本足のカラスは気持ち良さそうにひと声鳴いた。
「神さまってすごいね、黒翔」
見渡せば、部屋の中は大惨事。要の指示は無視してしまったし、化け物は跡形もなく太三郎が食べてしまった。きっと両者からこっぴどく叱られるに違いない。
それでも三葉に悔いはなかった。
脅威は去ったのだ。




