三十九話 ゆえに救わねばならぬ
控え室に突然現れた男は、時代錯誤の燕尾服に道化師のような白い仮面をつけていた。異質すぎるその男の出現に、その場にいた人間が唖然とする。
「ぐっ……ふぅ……」
藁田の小さな手が男の腕をかきむしる。しかし拘束が緩むことはなく、藁田は呻いた。肺の中の空気はとっくに空っぽで、酸欠で視界がチカチカする。
「みよを離せ!」
修介が男に掴みかかろうとするが、男が手を払う仕草をすると、修介は壁際まで一気に吹っ飛ばされた。机や椅子、機械類を巻き込んで倒れ、床の上で動かなくなる。「修介さん!」と呼ぶ山内の声も届かないようだ。
血まみれの森ノ宮がインカムを通し状況を告げる。そしてOCRの職員たちへ避難するよう怒鳴り声をあげていた。
その様子を無心で見ていた男だったが、強い気配を感じて視線だけを動かす。
刹那、燕尾服の男の右腕が床にぼたりと落ちた。ギロチンですっぱり切れた首のように、手首から先が床に転がっている。血は出ていなかった。同時に藁田も解放され、男の足元にぐしゃりと横たわる。すでに意識を失っているようだ。
「久しいなあ、芦屋」
ゆらりと立ちはだかったのは辰野だった。しかしその様子はさっきまでと違い、不敵な笑みをうかべ、まっすぐに佇んでいる。
「……雨竜彦か」
「いかにも」と彼は笑う。しかし笑っているのは顔だけで、全身から漏れる神気には怒りや憎しみが満ちていた。
雨竜彦が手をかざすと宙に水の玉がいくつも現れた。よく見るとそれは高速で回転しており、芦屋と呼ばれた男に向かって銃弾のように発射すると、玉のひとつは壁を破壊して穴を開けた。残りは全て芦屋に被弾するものの、体に穴が空くだけでダメージを受けたようには見受けられない。もちろん流血する様子もなく、それが人外の存在であると悠々と語っていた。
雨竜彦は再び水の玉を出したが、同時に体勢を崩して床に膝をつく。足腰に力が入らず、思わず舌打ちをする。神である雨竜彦に辰野の体が耐えられないのだ。次いで鼻から血がたれるどろりとした感触。
「……この世の神とは難儀なものだな。なあ、雨竜彦。その器はすぐに壊れるぞ」
憐れむような芦屋の声に、雨竜彦は笑って返す。
「おまえを殺せるのなら、それでよい」
肉が裂け骨が砕けても構わない。我が求めるとき、その体も命も全て寄越せ。それがかつて結んだ約束なのだから。
◇
一方で特別室Dでは化け物が枷から解き放たれ、暴れ出していた。何者かによって森ノ宮の呪術は返され、葵の施した封印は消されてしまった。間の悪いことに、行方不明になっていた人間たちをこちらの次元へ呼び戻した直後の出来事だった。
『救済ヲ与エヨウ』
化け物の声とともに、行方不明者たちの体が起き上がる。焦点の合わない虚な眼をした彼らは、ゆっくりと歩き出すと近くにいた準士らを襲った。
さらに悪いことに、魑魅魍魎と呼ぶにふさわしい小鬼や怨霊などが姿を現しはじめ、現場は想定以上の悪状況だった。
『今コソ、救イノトキ』
人語を発する大ムカデの化け物は、そのいくつもある手足を伸ばし、ムチのように周囲へ振り回した。機材や壁が破損し、床へ散乱する。
『我コソハ神ナリ』
耳が痛くなるような金切り音が辺りへ響くと、重力を無視して瓦礫が浮かびあがった。
インカムを通して指示が出される。
雑多な怪異は堺に任された。葵と諸星は行方不明者の確保に全力を注ぐ。そして三葉は——
「松山太三郎喜左衛門、ここへ」
三葉に応え、宙から現れた太三郎の体はめきめきと大きさと重量を増し、大ムカデと引けをとらない巨大な獣の姿と化した。目を真っ赤に光らせ、横に大きく裂けた口からは鋭い牙がいくつも覗いている。
「行け」
地響きのような唸り声を上げ、太三郎は大ムカデへ飛びかかった。勢いをつけた体当たりをくらい、大ムカデが体勢を崩し、怒りの咆哮を上げた。
三葉は足元に転がっている男へ視線を向ける。
「夜ノ助さんでしたっけ」
しゃがみ込むと、封印の札をぺりりと剥ぐ。とたんに夜ノ助は凶悪な相貌で三葉を睨みつけた。
「荒川誠司という人が『ひとりコックリさん』というものを広めました。これは一般的な降霊の儀式ではなく、異界の入り口を開くものです。彼にそれを教えたのはあなたですか」
電車の中で触手と対峙した時から何かが引っかかっていて、それがやっと分かった。以前、三葉の学校で見たあの黒いナニカと存在が似ていたのだ。
夜ノ助は何も答えない。
「彼はこれをまず学生たちで様子をみて、安全、あるいは力の確信を得た。そして自分で実行し、呼び出されたあちらのモノに肉体を奪われた」
きっと荒川をたぶらかした言葉があるのだ。あのSNSの裏アカを見るに、歪んだ承認欲求があることは確かだった。そこへ付け込まれたのかもしれない。他にも甘言を吐いた相手がいるのか、はじめから荒川ひとりに狙いを定めていたのか。
「あなたは何を生み出そうとしているのですか。目的は何ですか」
その目的のために、何人を危険にさらし、何人の犠牲が出たのか。分かっていないことが多すぎる。「んなもん知るかよ」と夜ノ助は口汚く罵り、拘束を解けとうるさく要求をした。
「!」
急に夜ノ助が目を見開いた。周囲を見渡すその瞳の中に一瞬怯えるような色が見え、三葉は即座に警戒を引き上げる。だが次の瞬間、無情にも血飛沫が舞った。
「躾のなっていないペットが失礼したね、お嬢さん」
頬にかかる生ぬるい液体。それは自分のものではなく、床に転がっていた夜ノ助のものだった。胸から太ももにかけて、まるで獣の鋭い爪で引き裂かれたように、四本の深い切傷を負っていた。夜ノ助はぐったりとして生きているのかわからない。
三葉はその男を見上げた。
「あなたは……」
燕尾服に白い仮面の男が、三葉の目の前に立っている。怪異とも大ムカデとも違う異様な雰囲気に、全身の毛が逆立った。
「これは失礼、かわいいレディ。私の名はアシュタル。それとも『A』と名乗った方がいいか? ああ、昔の馴染みには芦屋と呼ばれているな」
仰々しく挨拶をしてみせるが、よく見ると右手がない。服もあちこちに穴が空いている。その視線に気付いたらしく、不服そうにふんと鼻を鳴らす。
「まあ、ともかく。私の遊びを邪魔しないでほしい」
考えるよりも先に体が動いていた。先ほどまでいた場所には深々と鎌が刺さっており、燕尾服の男は造作もなく床から刃を抜くと再び三葉へ狙いを定める。三葉はその俊敏な神経としなやかな体で男の猛攻を紙一重でかわしていく。
「黒翔」
隙をついて棍となった黒翔を手にすれば、そのアーチがかった鎌の刃を受け止め、軌道を逸らす。
防戦一方のまま三葉は棍を振るが、視界の端に人影が見えた。
「芦屋っ!!」
声を振り絞ったのは雨竜彦だった。しかしその体は全身血に濡れていて、三葉は思わず息を呑んでしまう。
同時に燕尾服の男は小さく呻いて床に膝をついた。雨竜彦の一撃が入ったのかもしれない。耳に着けていたインカムから要の声が聞こえる。
『唯香よく聞け。その男の動きをしばらく止める。その間に——』
三葉は駆け出した。すでに力なく横たわった雨竜彦、いや、辰野のそばまで行くと、涙でぼやける視界を無視して彼の顔を両手で包み覗き込む。
「先生……!」
涙がぽたりと辰野の頬に落ちた。
反応は、ない。




