三十五話 極楽は霞なり
日は沈みきっていた。街灯の光りを背に平井少年はひとり佇んでいる。人気のない公園は暗く、昼間とはまったく違う雰囲気をかもしている。湿度の高い風が肌を撫で、それが妙に気持ち悪い。
ぼーっと立ち尽くす平井少年の背後がゆらりと揺れる。風が吹いたわけでもないのに景色がさざめいたのは不思議な光景だっただろう。
空気が澱み、音が止む。
さっきまで聞こえていた虫の鳴き声が消えた。
ずぷ、ずぷ。ずぷぷ。
何もない空間から黒い触手のようなものが何本も現れた。実体があるのか定かではないのに、それは平井少年へ這い寄るとお腹や四肢に巻き付いていく。少年は一切抵抗をしない。引っ張られるがまま足や手が動き、その姿はまるで繰り人形のようだ。
その周りを一匹の白い蝶が舞った。
「オンキリキリ・バザラウンハッタ」
暗闇の中から鋭く響く、低い男の声。
また別の声が「緊縛」と告げた。
触手はぴたりと動きを止める。正確には、動けなくなった。そして白い蝶が一瞬光ると、細い糸へとどの姿を変化させて触手にきつく巻きついた。
「葵、いけるか」
「どうかな。釣れればいいけど」
葛葉葵は糸を思いきりたぐり寄せる。それに合わせてずる、ずる、と触手が異空間から引きずり出された。このまま本体をこちらへ持ってこれればいいが、しかし手応えはあまり感じられない。
共にいる男は諸星といい、服装こそラフなものの、手には錫杖を持ち、相手の動きを止める真言を唱え続けていた。彼は元高野山の僧という特殊な経歴を持つ陰陽師である。
平井少年は触手に引きずられて無惨な姿になっていたが、ポンと音を立てて白い人型の紙へ戻った。
「相変わらずおまえの術はすげーな」
「まあね」
涼やかに応えるものの、その表情は厳しい。手元の糸は確かに触手を捉えているのだが、それが本体を引きずり出せるほど繋がりがあるかと聞かれたら、微妙なところだ。トカゲの尻尾。イカの足。切れてもなんら問題ない、そんな雰囲気がする。
諸星のおかげで触手はまだ身動きがとれない。葵は片手を自由にすると、懐から折り畳まれた一枚の白い紙を取り出した。口元にあてて小さくつぶやき、手のひらに乗せてふっと息を吹きかける。
白い蝶となったそれはひらりと優雅に舞うと、触手の根元である異空間へその体を滑り込ませた。
その時、ざっと砂利を擦る音がした。振り返ると、暗闇にひとりの男が立っている。
「おいおいおい、オメーらか。餌やりの邪魔してんのは」
派手なアロハシャツにグレーのサングラス。雑に染められた金髪は根本が黒く、にぃっと笑った口からは尖った歯が見えた。
「いい度胸してんじゃねえか」
上背があり、その左耳には大きな釘のピアスが見えた。葵と諸星の間に緊迫感が走る。もしや例の男ではないか。
「……人間か」
「さあな」
葵の問いに男は軽薄な笑みで答える。
先に動いたのは釘ピアスの男だった。手をかざすと、そこから形が歪な黒く大きい獣が三匹現れ、葵たちへ襲いかかってくる。
諸星は舌打ちをすると葵を守るように前へ立ち、錫杖片手に印を結んだ。
「オンクロダノウ・ウンジャク」
穢れを祓うための解穢真言。烏枢沙摩明王のお力を錫杖にまとわせ、諸星は獣たちに一閃を入れた。獣の細い悲鳴とともに、錫杖についた金属の輪っかがカシャリと鳴る。しかし倒したのは先頭の一匹だけで、後方の二匹は唸り声を上げ葵たちを睨みつけている。
「オメーらなんなの」
釘ピアスの男が楽しげな声で聞いてきた。
「陰陽師と言えば伝わるか? それよりこちらも聞きたい。先ほど餌やりと言っていたが、まさか人間を化け物に食わせているのか。わざわざ異界へ引きずり込んで」
「アイツはまだ成長途中なんだよ。心配しなくても、デカくなったら街へ放してやるぜ」
葵と男は視線を逸らすことなく対峙している。
「……名前を聞いても?」
「夜ノ助サマとでも呼べよ。趣きがあんだろう」
緊張感がカケラもない声音はかえって葵と諸星を警戒させた。
「ほら、もっと遊べよ」
夜ノ助の目が獰猛に光り、それに呼応して黒い獣がふたたび葵たちを襲う。犬と猪を混ぜたような異形の獣は牙を見せつけるように大口を開けた。
「おい葵、あの男どうにかしろ!」
噛みつかれる寸前に錫杖で防ぎ、諸星はふたたび真言を唱えて黒い怪物と相対する。怪異相手なら諸星も強いのだが、彼が力が発揮できるのは怪異だけ。真言は人へ向けてはいけないと教えられたため、怪異に近かろうが人間の姿をしている者に諸星は手を出すことができなかった。
葵は狙いを夜ノ助に定めた。
触手はいったん捨て置く。
「六根清浄急急如律令。心身を蝕む不浄を急ぎ取り去れ」
自分自身と諸星に清めの結界をはると、三つの手印を結んで式を放つ。
「元柱固真、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神」
ツバメの形をした白い式は宙を素早く滑空し、夜ノ助を中心として五芒星の形に飛んだ。「緊縛」と葵の言葉に、五芒の軌跡が光り輝く。
「なるほどねえ」
光を放つ五芒星は夜ノ助に向かって収束したはずだった。
「あの人が言ってたのはコレか」
ひとりで納得している夜ノ助は、どこからともなく大きな断ちバサミを取り出した。ふっと息をかけるとそれは生命を得たかのごとく動き出す。まるで血を求める妖刀のようだった。重力を無視して浮遊したハサミは禍々しいオーラを放ち、葵の術をブチンと断ち切る。光は消え、夜ノ助の足元に紙片がひらりと舞った。ハサミは大口を開けたサメのように錆びてあちこち欠けたした刃先を葵へ向ける。
「悪いね、オレも上司に言われてんだよ。邪魔する奴は殺せってな」
ひゅっと風が動く音と共に大バサミが消えた。
次の瞬間、衝撃音と共に火花が散る。諸星の錫杖が大バサミの刃を叩き落としていた。
「サンキュ」
「おうよ」
夜ノ助がぱちんと指を鳴らすと闇の中からまた異形の獣が現れる。
「玄武結界」
葵の小さなつぶやきと同時に地面に五芒星が浮かび上がった。よく見れば白く小さな人型の式が五箇所に配置されている。隙をみて仕込んでいたらしい。ぱぁーっと清らかな空気が辺りを包み、黒い獣はたちまち霧散していった。地面にあった大バサミも魂を抜かれたようにただの無機物と化している。
しかし夜ノ助は違った。完全な怪異ではないのか、飄々として佇む姿はやはり人間に近い。
「なあ知ってるか、殺すより捕まえる方が難しいって。そりゃそうだよな。色々やるより眉間に一発ぶち込むのが早いんだからよ」
「……何が言いたいのかな」
「おまえがスゲー奴でもオレが有利だってこと」
ずるるるるっ。
地面を這う黒い何本もの触手が諸星と葵を取り囲んだ。浄化結界の中心にいるというのに、触手にはなんらダメージを与えていないようだ。触手はふたりの脚に巻きつき、次いで腕や腹へその身を滑らせた。
「的当ては得意だぜ」
そう言ってケラケラと笑う夜ノ助の手には小さなナイフが何本もある。見せつけるように一投目を振りかぶった。だが。
「……は?」
体が動かない。夜ノ助は焦った。
手も足も、どこを動かそうとしてもぴくりともしないのだ。
「ほんと、無傷で拘束って大変でさ。だから捕まえる側は大人数になりがちなんだよね」
そう言って暗がりから出てきたのはスーツを着たふたりの老紳士。葛の葉の総取締役である葛葉要と、小粋にハットをかぶり、手に刀を携えた堺という名の老紳士だった。
「引きつけ役ご苦労だったね、葵」




