二十六話 黄昏は赤なり
今日は土曜で、辰野は副顧問をつとめる陸上部の練習へ顔を出していた。校内のグラウンドではなく、近くにある競技場のトラックを借りての練習だ。基本的には外部からコーチを招いて指導をしているため、辰野は付き添い程度の役割しかない。
競技場の外で荷物番をしていると「辰野さん」と声をかけられる。ぼーっとしていたので慌ててそちらへ顔を向けた。
「……あ」
見た瞬間固まった。できれば関わりたくないと思っていた、あの出雲が目の前にいたのだ。
「こんな所でお会いするなんて奇遇ですね」
ふふ、と笑う出雲は、OCRと呼ばれる機関の研究員だという。怪しげな名刺からそれ以上のことは読みとれず、三葉と関わりがあることしか把握していない。
理知的で、どこか艶めいて怪しげな雰囲気がある。女性らしい体つきに毛先まで艶やかな長い黒髪もあいまって、多くの人が彼女を魅力的に感じるだろう。しかし、辰野はなんとなく彼女が苦手だった。どこかと聞かれたら眼差しだ。瞳の奥をのぞけばそこに捕食者がいるような気がして、少しばかり背筋が冷える。
「辰野さん?」
呼ばれて慌てて声を出した。
「はい、先日ぶりです。その説はお世話になりました」
軽く頭を下げると、出雲のふっくらとして形のいい唇がニコリと弧を描く。
「もしかして部活動の引率ですか? お休みの日も大変ですのね」
「いえ」
どうしてこんな所に出雲がいるのか気になってしょうがない。競技場の外は一般にも開放されていて誰しも立ち入ることができるのだが、運動しない人間がわざわざ寄り付く所でもない。ノースリーブのニットにタイトなペンシルスカート。出雲の服装を見る限り、競技場に用があるとは思えなかった。
その時、休憩に入ったのか生徒たちがまばらに戻ってきた。出雲の姿を見とめると「先生の彼女?」と顔をにやにやさせる。
「お忙しそうなので失礼しますね。またどこかでお会いできら、ゆっくりお話ししたいですわ」
場が生徒でにぎわってくると出雲はにこやかに去っていった。
いったい何だったんだろう。
生徒にはやれ彼女だ逢引だとからかわれたが、きっぱり否定すると「それもそうか」とすんなり納得してくれる。後には「彼女もち妬ましい・抜けがけ厳禁」と真剣な表情で詰め寄られ、さすがに笑いがもれた。
「おまえらに彼女できるほうが早いよきっと」
「うわー元気づけられた。お礼に塩アメあげるよ。先生も荷物の見張りがんばってね」
ひとりがそう言うと俺も私もとアメをくれるものだから、辰野の両手にはいろんなメーカーの塩アメでいっぱいになった。最後には「彼女ができますように」と手を合わせてくるので苦笑してしまう。
『先生の中には神様がいます』
ふと、まっすぐに見つめてくる三葉の姿が頭によぎった。自分はそんな大それたものじゃない。そう思いながら辰野は三葉の姿を頭から追いやる。
渡瀬の件で多少思うことはある。しかし、自分は凡人であるという気持ちがぬぐえない。そもそもなぜ自分の中に神がいるのか分からない。いるのだとしたらいつからなのか、きっかけはなんなのか。一切心当たりがないのだ。
(その辺、三葉と少し話をしてもいいのかな)
暑さが増した七月の午前十一時。夏休みにはいり、部活の生徒以外と顔を合わせることは極端に減った。街路樹のセミがいっせいに鳴いて、これからくる夏の本番を予感させる。
日本酒を片手にこちらへ走ってきたあの少女はいまごろ何をしているのだろうか。そこまでまた三葉のことを考えていたと自己嫌悪が襲った。
(いかんいかん、気をしっかり持て)
ぱしぱしと両手で頬を叩き、邪念を振り払う。もし自分の中に神がいるのだとしたら、平穏な学園生活を送らせてくださいと切に願う。もちろん返事がくることはなかった。
辰野がふたたび出雲に出会ったのは、それから四日後のことだった。
◇
「こんなところでお会いできるだなんて」
にこにこと笑う出雲は今日も魅力的だった。渡瀬が一緒にいたらきっとテンションが上がっていたに違いない。大型ショッピングセンター内にある本屋へ寄った帰り、コーヒーショップでひと休みしていたところでの再会だった。
「おとなりよろしくて?」
「……はい」
となりのテーブルかと思いきや、すぐとなりに座ってくる出雲。それに慌てて距離をとろうと腰を浮かせたが、出雲の手が辰野の服をひっぱり、やんわりとそれを阻止した。
「え、えっと……」
「今日も暑いですね」
「そう、ですね」
「辰野さんはお買い物の帰りですか?」
「まあそんな感じです」
出雲さんはなぜここに、という言葉は結局飲み込んでしまった。ちらりと目をやると、出雲は弾まない会話に動じることなく、その瞳は楽しそうに細められていた。
でもそれは色恋の楽しさではなく、捕食対象を見つけた時の愉悦さのような気がする。気がするだけかもしれない。こんな美人が自分に興味を持つなんてやっぱり裏があるはずだと浮き足立ちつ気持ちを辰野は必死でなでつけた。
「ねえ辰野さん。私、あなたとお近づきになりたいんです」
出雲の吐息が耳にかかる。ゾクゾクと肌が粟立つ理由は悪寒なのか、恍惚なのか。
「あなたに、すごく興味がある」
身を寄せられ、太ももにそっと手を置かれた。辰野は確信した。目の前にいるのは百戦錬磨の強者だ。自分ではとうてい太刀打ちできる相手ではない。
頭ではなんとかこの場を逃げ切れないかと必死に考えているが、本能なのかわずかに出雲の色香に吸い寄せられていた。まずい、まずい、まずい。
「このあと一緒に行きたいところがあるんですけれど」
「あ」とか「う」とか情けない言葉しか吐けない辰野に出雲はくすりと笑った。
その時だった。
「先生に近づかないでって言いましたよね」
突如として降ってきた声に顔をあげる。そこには不満そうに眉間を寄せた三葉唯香、そして状況が掴めずオロオロしている藁田みよが立っていた。




