二話 陰陽師と名乗るモノ
三葉唯香は今をときめく女子高生である。
友だちと他愛もない話で盛り上がるひと時が最高に楽しい今どきの子。ちょっと変わった特技はあるけれど、それ以外はいたって普通の女子高生だ。
そんな彼女は今、普段はあまり見せないような厳しい表情をしていた。
「先生、もしかして前からああいうのに襲われてました?」
ドアから視線を外し、三葉は辰野を見上げる。辰野の顔色は悪いが新任の先生だけあって若々しく体力はありそうだ。顔つきはそこそこだけど意外と身長が高く、女子たちの間でこっそり人気がある。本人は知るよしもないだろう。
襲われていたのかという質問に、辰野は首を横に振った。しかし思い当たる節があったのか、少ししてから「そういえば……」と話し始めた。
「たまに怖い視線を感じるんだ。それに最近は夜あんまり寝れてないっていうか……金縛りみたいなことが続いてて」
情けないとばかりに辰野は下を向いて頭をかいた。
さっきのヤツは辰野をずっと付け狙っていたのだろう。じわじわと追い詰めて衰弱させていく辺りに狡猾さを感じる。先ほどは狙い目だと思って襲いかかったに違いない。
「アレ、先生のこと諦めてないですよ。まだ異空間に閉じ込められたままです。……ここからじゃ式も遠いな」
三葉は自分の胸ポケットから小さな鈴を取り出した。これといって特徴のない普通の鈴で、りんと鳴らせば涼しげな音が辺りに響く。さっきのは応急処置だ。次の手を打たなければ。
「先生これ持っていてください。なにもないよりマシです」
古来より鈴の音は魔を祓う神聖なものとして扱われた。安物ものだけど、いくらかの護身にはなるだろう。小さな鈴が辰野の手に渡るとちりちりとこもった音がした。
「……三葉は何者なんだ」
恐る恐る辰野は尋ねる。
「わたし陰陽師ってやつなんです。うちは分家ですけど、本家が代々そういうのやってて」
にっこり笑って見せた。話についていけないのか、辰野は目を白黒させている。無理もないだろう。こういう事を言うとだいたい不審がられる。だが三葉自身はそのことを全く気にしておらず、むしろ端席とは言え陰陽師の座に連なっていることを誇らしく思っていた。
「六根清浄っていうのは簡単に言えば『心身から不浄を取り除いてください』という短い祝詞です。日常でも使えますから、先生も覚えてたら便利ですよ」
ふいに何か堅いものを引っ掻くような音がした。ドアをこじ開けようと、アレが隙間にガリガリと爪を立てているようだ。
「先生」
ドアから一歩下がり、先生を守ろうと三葉は手で制した。そして辰野へ振り返る。
「わたしの式神になってください。一時的でいいので」
「へ?」と間抜けな声をもらしたのは辰野だ。
「式神って知りません? 神や悪霊みたいな力の強い存在を従えるんです。陰陽師と言えば式神ですよ」
「いや、そうじゃなくて」
三葉の説明むなしく辰野は困惑の表情を浮かべた。先ほどの尋常ではない体験ですでにパニックに陥っているのだ。頭がついていかないのも当然だろう。
「俺、ただの人間だし」
「そう思ってるのは先生だけですよ。大丈夫、わたしに任せて」
三葉は辰野を右手を握った。突然のことに辰野は肩をびくりと振るわせるが、さらに三葉は恋人のように指と指をからめて自分の方へ辰野の体を引き寄せた。
合わさった肌からドクンドクンと脈が伝わる。
「六根清浄」と小さく唱えると、三葉と辰野の周り空気が引き締まった。部屋中に広げていた清めの力をふたりの周りに集中させたのだ。しかし守りに関しては正直これが精一杯。
さっきは意表を突いたからうまくいった。しかし獲物が抵抗してくると分かったのなら、向こうも全力で来るだろう。目の前にいる極上の餌を食うために。
三葉は深く息を吸った。
それと同時に入口のドアが勢いよく開く。
ヤツがこじ開けたのだ。黒く淀んだ空気が流れ、その中心から女の白い腕のようなものが一本、二本、三本と次々に現れる。周囲の温度が少しずつ下がり、ぬかるみに足を踏み入れたかのような不快感が全身を覆う。腕は手招きするようにゆらゆらと動き、徐々にふたりに近づこうとしている。おいでおいでと誘い、近づけばとり殺そうとしているのだからタチが悪い。
三葉たちは即座にその異形から距離をとった。
淀んだ空気がふたりを遠巻きに囲む。壁が震え、トントンと叩くような音がし始めた。それは次第に大きくなり、まるで何人もの人間がドンドンと壁を強打する音になった。
つないでいない方の右手で印を結び、異形に向かって人差し指と中指をぴっと伸ばして向けた。まるで刃物を突きつけられたように異形はびくりと身を震わせる。
「ノウマクサンマンダ、バサラダンセン——」
壁を叩いていた音が止んだ。三葉は言葉を唱え続け、異形から視線をそらさない。そしてひと呼吸おくと、きっぱりとした声で辰野に宣言した。
「先生、わたしに従うと言ってください」
「は?」
「式神を使役するには関係が大事なんです。わたしは全力で先生を守ります。だから、身をゆだねてください。三葉唯香に従うと言ってください。そうすれば言霊がわたしたちを繋ぎます」
「俺は教師で、男で、れっきとした大人だ。生徒から守られるなんて」
その時、異形の腕が伸びた。獲物に食らいつく蛇のように勢いよく三葉へと向かう。一度食い付いたら離さずに引き寄せるつもりなのだろう。
だがバチッと静電気がはぜたような音とともに腕は引っ込んでいく。見れば、辰野が手を繋いだまま三葉を守るように前へ出ていた。歯を食いしばっているのか顔からは血の気が引き、体は恐怖で震えている。生徒を守らねばという気持ちだけで自分を奮い立たせているのだろう。
ゆらり。辰野の体から神気が立ち登る。
異形の伸ばしていた腕は赤く腫れ、辰野のまとう神聖な力にたたらを踏む。
それを見て三葉の胸がドキドキと高鳴った。どっと増えた血流で頬が赤く色づく。
(やっぱり、先生は身の内に神を宿している)
理由はわからないが、ひとつの体に人と神の魂が共存している。こんな人は初めてだ。それこそ、三葉が日本酒を持ってきたのは神様にお供えをする感覚だった。他の人が辰野にやたら差し入れをあげようとしていたのも、目には見えない神気を感じとったからだと思う。
異形が興奮したような雄叫びをあげた。空気が震え、耳障りな音が鼓膜に焼き付く。
人と神が混ざった魂は強いエネルギー体でもある。並の霊なら近づくこともできないだろう。だけど時としてとんでもない存在——神を食らって成り上がろうとする邪悪なモノに狙われてしまう。
辰野が悔しそうに舌打ちをした。
「……しかし、いくら強がってもこの場をどうにかする力は俺にはない。もし俺がきみに従うと言ったら、きみの安全性は高まるのか」
「はい。先生がいてくれたら百人力です」
しばらく考えて、辰野は頷いた。
「それなら……俺は三葉に従う」
三葉は笑みを深めて頷いた。右手で刀印を結ぶと大きな五芒星を空中に描き、ずっとつないでいた辰野の左手を強く握りしめた。