一話 闇間から狙うモノ
校舎に下校を告げるチャイム音が響き渡る。
学生たちの顔がパーっと明るくなり、急いで帰り支度を始めたり、連れ立って部活棟へ行ったり、はたまた友達同士で輪になっておしゃべりしたりと様々だ。
新人教師の辰野隆宗はホームルームを終わらせて教室を出た。就任して二ヶ月。まだまだ慣れずに試行錯誤する毎日である。
「せんせーさよならー」
「はいさよなら。気を付けて帰れよ」
職員室へと歩くとすれ違う生徒たちからぽつぽつ声をかけられる。先生業務は今のところ順調らしい。
「先生疲れてる? 顔色悪いよ。アメあげよっか」
「学校にお菓子持ってきちゃダメだろ。今のは聞こえなかったことにするから早く帰りなさい」
男子生徒が数人、笑顔で絡んできた。一年生なのだろう。制服はまだ新しく、顔立ちには幼さが残っている。
「あ、じゃあ先生にお茶あげる。ペットボトルで買ったんだけど飲まなかったんだよ」
「サンキューな。でも気持ちだけ受け取るからそのお茶はしまいなさい」
「俺さ、先生におにぎりあげようと思ってさ、家からいっぱい持ってきたんだけどお腹空いて全部食べちゃったんだ。ごめんね」
「……うん、ありがとう。先生これでも三食しっかり食べてるから心配しなくても大丈夫だぞ」
彼らの肩をぽんぽんと叩いて帰宅をうながした。優しい子たちだ。しかしこの学校の生徒に限らず、なぜか辰野の周りには気にかけてくれる人たちが常にいた。友人知人は隙あらば飲みものや食べ物を渡そうとしてくるし、おじいちゃんおばあちゃんはそれに加えてたまに拝むように手を合わせるから気が引けてしょうがない。
ふと視線を感じた。遠くから鋭利な刃物を向けられている、あるいは銃の照準を合わせられているような感覚だ。辰野は廊下のまん中で立ち止まり辺りを見回す。特に変わりはない。生徒たちがちらほらと歩き、開いた窓からは生ぬるい風が入ってくるだけだ。
背筋にひとすじ汗が伝った。
このところ似たようなことがよくある。それは街角だったり建物の中だったり様々で、日に日に不安がつのっていく。それが原因なのかここ最近は夜にあまり眠れていなかった。おかげで体はヘトヘトだ。
「せんせー! 辰野せんせーっ!」
突然、廊下に響く大きな声。ギョッとしながら見ると、ひとりの生徒が大声で辰野を呼びながらすごい勢いでこちらへ向かっているではないか。ふわふわなボブヘアが可愛らしい女の子。廊下を全速力で走っており、スカートのひだが勢いよく舞っている。
「おい、廊下は——」
「日本酒持ってきましたよ! ほら大吟醸!」
ブフォッと盛大に吹き出しつつすぐさま頭を切り替えた辰野は、酒瓶を抱えて嬉しそうに駆け寄ってきた生徒——三葉唯香を生徒指導室まで連行した。
◇
「すいませんでした。先生を見てるとつい……」
しょぼんとうな垂れる三葉。伏せられた目は長いまつ毛が影を落とし、ふんわりと香るフローラルな匂いはいかにも女の子という感じだ。整った顔立ちにスラリとしたスタイルからして、さぞや男子から人気があることだろう。
そんな子が、あろうことか酒瓶を片手に廊下を猛ダッシュ。辰野に差し入れとして持ってきたと言うのだから頭を抱える。三葉との接点といえば数学を教えていることくらいで、特別に顔見知りというわけでもないのに。
「なんで日本酒……」
「先生好きかなと思って」
「いや好きだけれども」
テーブルの上に置かれた日本酒に目をやる。500mlのペットボトルよりも少し大きなそれは、大吟醸というだけあって高級そうな見た目をしている。呆れながら息を吐いたその時だった。
突然、パリンッと薄いガラスが割れる音が頭上から聞こえた。
同時に部屋の電気が消え、一瞬で奪われた視界に脳がパニックを起こす。
「わっ」
「三葉、大丈夫か」
せまい生徒指導室に暗闇に包まれる。本当だったらドアにはめ込まれているすりガラスから廊下の光が漏れてくるはずなのに、この部屋だけ宇宙に放り込まれたかのように真っ暗だ。心なしか部屋の温度が下がっている。辰野はポケットからスマホを取り出すとすぐにライト機能を使って辺りを照らした。
割れた蛍光灯の細かな破片が床に散らばっている。下手したら自分たちの頭にもカケラが落ちているだろう。まずは生徒を安心させなければ。そう思って一歩踏み出そうとしたのだが、何故か辰野の足は動かない。まるで床に縫い付けられたかのようにピクリともしない。いや、足だけではない。腕も肩も頭も口も、どこもかしこも動かない。なんだこれは。ふいに湧き上がった恐怖心に辰野は息をのむ。
次の瞬間、ねっとりとした空気が耳元に流れた。
いや、空気というよりも吐息に近いのかもしれない。何者かが辰野の背後に立ち、腕を回してきた気がした。苦しい。背中にべっとりとくっついたソレは辰野の体温を奪っていく。
スマホのライトは相変わらず床を照らしたまま、全身が凍りついたように動かない。気持ちは焦るばかりで呼吸がうまくできず、気づけば犬のようにはっはっと短い呼吸を繰り返していた。
「先生、大丈夫ですか」
「……み、つば」
生徒に安否をとわれて恥ずかしいかぎりだが、彼女の声が恐怖をわずかに打ち払ってくれた。意識して深く呼吸をする。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせるうちに体の震えは少しずつ治まっていく。
突然、りん、と小さく鈴の音が鳴った。
三葉がやっているのだろうか、わずかに空間がゆらいだ気がした。続けてりん、りん、と清らかな鈴の音が辺りに響き、だんだんと体の強張りがとれていくのがわかる。背後の存在が一歩うしろへ下がる気配がした。
「祓いたまえ 清めたまえ」
ぱんっと手を打つ音と共に、三葉の凛とした声。
「六根清浄 急急如律令」
ぐらりとめまいがして辰野は目をつぶる。そして次に目を開いた時、辺りがほんのり明るいことに気が付いた。ドアのすりガラスからは廊下の明かりがもれ、床に蛍光灯の破片がが散らばっているのが見える。
力がぬけてへなへなと床に座り込んだ。貧血にでもなったのか体がすごくだるく、寒気もまだとれない。三葉が目の前に座り込み、心配そうに覗きこんできた。
「先生、これ飲んでください」
そう言って差し出したのは三葉の持ってきた日本酒だった。ふざけている場合かと怒りたかったのに思うように体に力が入らない。ゆるゆると目線だけを向けると、三葉は真剣な表情をしていた。
いっこうに動かない辰野にしびれを切らしたのか、三葉は瓶のふたを取ると無理やり辰野の口に押し付ける。
「ひと口でいいから」
「しかし、」
まだ業務時間内だし、ここは未成年が集う学び舎だ。酒を飲むのは抵抗しかない。うだうだしていると三葉の指がのびて辰野の鼻をぎゅっとつまんだ。息ができずに口をあけると、その瞬間を待ってましたとばかりに酒瓶をかたむける。
「えいっ」
三葉のいたずらな声とともに口の中にこぽっと流れてきた酒。思わずのみ込んでしまったが、きかん気管支に入ってしまったのか盛大にむせてしまった。
「……けほっ、三葉、おまえ、何やって——」
喉から伝う日本酒のとろりとした感触。体内に入るとそれはたちまち体に熱を巡らせていった。その温度が心地いい。
「体、楽になったでしょ? 御神酒は清めの力が強いから」
にこりとほほ笑む彼女は自信ありげだ。しかし御神酒とは神前に供える酒のことではないのか、と疑問にも思う。よくわからない。試しに手を動かすと先ほどまでのダルさはなかった。そういえば全身にのしかかるような重みももう感じない。思い切って立ち上がると三葉もそれに続く。
改めて辺りを見回す。確かにここは生徒指導室だ。床には割れた蛍光灯の破片が散っていて、徐々に赤くなっていく太陽がすりガラスの向こうから照らしている。だけど廊下からはなんの音もしなかった。
「さっきのは一体なんだったんだ……」
ついさっき、部屋の電気が消えて異様に暗い空間になった。背後にあったおぞましいモノは幻覚とは思えない。
まだ終わっていない気がする。
その証拠に、三葉は先ほどからドアの外を睨むように見つめていた。




