夢のような魔法が、切れた後
前回のあらすじ
聖歌公国軍が勢いに乗り、突出した敵部隊を叩く。後方の弓兵に紛れた晴嵐は、敵の動きが妙だと感じた。救援の気配がまるでない。これでは捨て駒のようだと呟くと、近場にいた魔法の旗使いも同意する。後方の戦略家たちも『深追いはするな』と厳命しているようだ……
立体旗が倒れた緑の国中央軍は、急に我に返ったようだった。
戦争行為を精神的に補助する魔法は、旗持が撃破されると効力が切れてしまう。具体的には戦意の高揚、痛覚や恐怖心の鈍化などなど、早い話が戦闘に向いた精神状況を兵員に作るのだ。
仮に仲間が敵の攻撃で倒れたとしても、恐怖で使い物にならなくなる……といった事態を緩和する。交戦で傷を負ったとしても、意識をすべて痛覚に持っていかれるような事は無い。苦痛で我を失うようなことは、立体旗が展開中はあり得ない。
それは兵站に悩む国家にとって、夢のような魔法だった。
立体旗の効果内なら、誰もが恐れを知らない戦士になれる。凡人であろうとも、まるで勇者のような立ち振る舞いをさせる事が出来る――
鍛えた肉体、磨かれた技術、そして強靭な精神の三つをバランス良く備える事が、優れた戦士の資質だと言う言葉もある。そのうちの一つ、精神の部分を大きく補強するのが、立体旗に仕込まれた魔法だった。
肉体については測定がたやすく、技量もテストを重ねればある程度知る事も出来る。最も数値化しずらく、明言できないのは精神だ。
その精神を、一定以上のレベルまで保証する魔法――それが立体旗の戦場での大きな意義の一つ。裏を返せばその魔法が失われれば、一気に補正が切れてしまう。
「あ……あ……」
「うぁ……ああああぁあ!」
「ひっ……ひっ……ひいいぃっ!!」
まるで夢から覚めたように、緑の国の兵士達は慌てふためいた。
負った傷の痛みに呻く、魔法で押さえつけられていた恐怖が胸の中から噴き出す。激しく心に渦巻いていた、敵意や闘争心はみるみる内に萎えてしまい、急激な心細さから……中には泣き出し、崩れ落ちる者までいる。
失われた補助は、急激に兵士達を恐慌状態に導いた。戦う気概のある者もちらほらいて、どうにか立て直そうと声を上げる一人がいた
「誰か! 誰でもいい! 旗持を代行するんだ! もう一度立体旗を起動させれば立て直せる!!」
立体旗が機能不全に陥るケースは二つある。輝金属で作られた立体旗が破壊されるか、旗の魔法を扱う『旗持』が倒されてしまうか……大半の場合は後者が該当する。魔法と打撃が飛び交う中で、輝金属製の棒が完全に破壊される事は珍しい。
仮に使い手が倒されたとしても、立体旗は地面に転がったまま放置されている事が多い。地面に落ちた武器より、まだ動いて生きている者へ敵は注目する。その隙に立体旗を使える誰か、が旗を取り返せばチャンスはある。
……ただ、それは理論上の話だ。
「死ぬ……ダメだ、死にたくない! 逃げろ!!」
「誰か指示を……命令を……」
「だ、ダメだ……これじゃ話にならない……!」
周辺の兵士達は、まるでこの世の終わりと対面したかのような有様だ。狂乱する空気に押されて、もはや軍としての体裁は保てていない。
補助が切れても、戦士としてのセンスを、精神を鍛えていれば乗り越えられたかもしれないが……一度崩れてしまった集団は、より大きなショックでも与えない限り、持ち直す事は無い。
中には冷静な者もいるが、むしろ悲劇かもしれない。どれだけ宥めても周りは理性を蒸発させ、持ち直せと諭した所で聞き耳を持たぬ。死にたくない、恐怖から逃れたいと喚きながら、正気を失った者から奈落の底へ落ちて行く……
「誰かぁ! 誰か助けてくれぇ!!」
「降参する! 武器は捨てた! 投降す――ぐぇっ!」
「なんでこんな事になるんだよぉ!? エルフは一番優れていて、偉くて、負け知らずの種族じゃなかったのかよぉ……!?」
ここは地獄だ。まだ理性を残している兵は、なんとなくそう思った。
さっきまではずっとイケイケの空気だった。旗を掲げて、敵陣に突撃して、命令も無視して敵性種族のオークを殺して良いと、自分の手で劣った種族を屠ってしまってよいと、そんな夢のような状況があると思っていた。
背中を押していた勢いが切れた途端……この有様だ。
こんな事になる前に、何か制止するような強い警告が飛んでいた気がする。けれど自分たちは止まらなかった。上の将まで何かに呑まれたのか、自分たちを止める者は何もいなかった。
本当に? それは止めなかったのではなく、止めようとした誰かを無視しただけ、感情に流されて、考える事をやめただけだったのでは……?
「カーチス……お前が言っていたのって、こういう事だったのか……?」
理性の残っている一人が、ぼんやりとそんな言葉を口にする。
かつて自分の信じた幻想を打ち砕かれた経験のあるその若者……いやこの場においては兵士と呼ぶべきだろう。彼は今更になって、自分の頭で考え始めた。
――恐怖に狂えば確実に死ぬ。投降しても良いかもしれないが、混乱した戦地でどこまで通じるかどうか。
――救援は来ているか分からない。連絡は切れているが……けど自陣の方向ぐらいは分かる。恐慌状態の兵は方向感覚さえ失っているが、まだその兵士には敵味方の区別ぐらいはついた。
――一緒に戦っていた奴らとは話があったし、出来れば助けたい気持ちもある。けど自分の命には代えられない。状況は悪いが、それでも今なら――真っ直ぐに逃げれば何とかなる。
……それでも、ただ一人逃げ出すことは、胸の中に躊躇があるのか、その兵士は最後に叫んだ。
「……マトモな奴は、本陣側へ撤退しろ!!」
まだ無事な立体旗を見つめ、逃げ出す兵士達。
――すれ違う味方の姿が、よく見ると旗のように透けて見えていた。
用語解説
立体旗 (追加情報)
一番の効果は『魔法の旗同士で、相互に連絡を取り合うことが出来る』ですが、もう一つ戦場で大きな役割を持つ。痛覚や恐怖を感じにくくなり、兵士や戦士として必要な精神部分を、魔法の力で補強する効力がある。
一人一人が死の恐怖を強く感じているようでは、兵として使い物にならない。純粋な技巧や体力を伸ばすだけでは、兵は兵になり得ない。しかし精神は測ることが難しい……その問題を、この魔法は解決した。仮に未熟だとしても、魔法の旗の影響下なら、一般兵として安定した戦力に出来ると。
――ただし、その魔法が切れた時……鈍っていた戦場の負の側面が、一気に降りかかる。
この特性があるため、ユニゾティアの戦地では『旗持』は敵の標的になりやすく、そして軍勢にとって、守るべき要所となる。




