深緑の森へ
前回のあらすじ
主人公、終末世界にて死す!
受容体である肉体はほとんど朽ちていた。
災禍に見舞われた精神は擦り切れてて、稼働していることが信じられない。
そもそも……見捨ててしまったあの世界で、84才まで人間が生きていた事が奇跡だった。
わたしをこの場所に引き上げた神の一柱が、驚嘆の表情で呆然としている。
わたしは溢れ出る感情のまま、彼の全てを既知していく。
……やがて神は一つ嘆息を吐きだして、わたしと交わした約束の履行をはじめた。
「いいものが見れたから」と、少しだけ契約に色を添えて。
***
夢を見ていた。
いや、見てなどいなかった。
五感が暗く塞がれたまま、意識だけが暗獄の底で沈殿していた。
肉体が朽ち、何も感じ取れないまま曖昧であるはずの魂だけが浮遊している。これが死か? あるいは、何もない場所でぽつりと独りあり続ける刑罰の、無間地獄というやつだろうか。
(……お似合いじゃな)
最後の最後まで意地汚く生きただけ。生きるために手を汚したくせに、崩壊を止める行動もしなかった。薄っぺらな可能性と、ありもしない幻影に縋った人間には当然の末路であろう。老人だけではない。おそらくあの世界では、誰もかれもが地獄行きだった。収容しきれるのだろうか……ふと思い至った想像は、即座に無意味へと転じた。
まるでどこかから落ちるような感覚に襲われた。咄嗟に受け身を取ろうとしたが、しかし地面を転がるだけだった。夢から覚めるように、彼の五感が機能を取り戻す。頬を涼やかな風が撫で、深緑特有の土と木々の香りが鼻を抜けていく。
木の葉のざわめきが耳を打ち、鳥か獣かわからないが、邪気の無い鳴き声が響いている。
寝起きのような気だるさの中、身じろぎした身体の下で、枯れ葉の寝具が軋んだ。
彼が目を開く、光が差す、つい手で覆う、腕を伸ばして。
(なんじゃ……これは……!?)
失われたはずの、豊かな自然に覆われた大地に、彼は横たわっていたようだ。
空気は湿度に富み、生命の匂いに溢れ、肌を刺すような寒気は無く、空は青く陽光は眩い。
驚天動地。滅びゆく世界を生きてきた彼にとって、豊かな森林を見れたのは世界崩壊前のことだ。やせ細った木々の集落が、晴嵐の知る森である。耳をすませても小鳥のさえずり一つ聞こえず、頭上にある雲一つない青空も、1年に一度見れれば良いほうだった。
天国か? 一瞬浮かんだ考えを、彼は即座に否定する。地獄行きならば納得いくが、自分のようなドブネズミが、どう考えたって死後の楽園に行けるはずはない……何より、天国にしてはこの光景は半端ではないか?
(落ち着け……落ち着け……!)
そう言い聞かせても、鼓動は早いままだ。生きていることは確かだと思うが、いきなりどこかに放りだされた感触に、猛烈な恐怖と不安が彼を苛む。
口元を覆い、何度も息を吸って、吐き出す。死臭と頽廃に満ちた空気と異なり、ここの空気はあまりに豊かで、清浄だった。
その度に彼は知覚していく。自分はまだ、生きているのだと。
何故? どうして? 疑問は尽きない。死んだ経験は皆無だが、老いて、飢えて、全身から力が抜けて、意識さえ朧の底へと沈んで……肉体の熱が冷めていく感触は、死だと断言できた。できた、のに、何故自分はまだ生きている?
生きて苦しめ、悩み苦しめと罰を与えたつもりだろうか? しかし誰が? なんのために? 何より罰や地獄の類にしては、この景色は豊か過ぎる。ならば……ここは、天国でも地獄でもないのだろうか?
(ええい! しっかりせんか! まずは息を整えろ!!)
終末を生き抜いた頃に身に着けた知恵だった。考えるだけでも、人間はエネルギーを消耗する。そしてエネルギーは無限ではない。食料や栄養が不足すれば、身体も脳も鈍り死に至るしかなくなる。まずは自己の状態の確認、次に食料及び水分の確保……何よりもこの二つを最優先すべきと、晴嵐は動揺を押さえ込み、当面の方針を定めた。
瞳を閉じて、まずは肉体を自己診断。痛む部位はなく、空腹や喉の渇きも問題なし。体感温度はやや暑く湿気を感じるが、晴嵐の世界は寒冷化が進んでいたのを含め、崩壊前ならば心地よいの範疇なのだろう。身体の感触を調べ終えれば、次は外側。広がる木々を観察していた晴嵐だが、その際はっきりと遠近が認識できる事に気がついた。
片目がつぶれて以来、老人は両の目でモノを見る機会を奪われていて、以来遠近感覚に狂いが生じていた。慣れようのない喪失を死の直前まで抱いていたはずなのに、なぜだか今はそれがない。まさか……と思い手をかざすと、本来死角となったはずの箇所に己の腕の像が浮かんだ。
そのままの勢いで左手にも首を向ければ、シミも皺もない健全な左腕部がそこにある。何故かは知らないが……二度と治るはずがない欠損を負った、右目と左手が再生しているようだ。さらに肉体も若返っている?
異常に次ぐ異常に晴嵐は錯乱寸前だ。常識外の連発に脳がついていけない。呆然自失のまま立ち竦み、しばし森の中で、心が静まるのを待つほかなかった。
人物紹介
大平 晴嵐 享年84才
所謂「終末世界」を生き抜いた老人。
死亡時には片腕と片目を失っており、全身ボロボロになりながらも……周りの人間が全滅するのを見届けてから、『次世代の知性体』に希望を託し死亡した……はずだった。
しかし何故か「天国でも地獄でもない世界」にいきなり投げ出され、さらに失ったはずの腕と瞳が再生。加えて肉体も若返っている(推定十代後半~二十代前半)