窮鼠の意地
前回のあらすじ
闇夜の中、その吸血種の男は一人でボトルを堪能する。血液で製造された、ワインのような酒を肴に、過去の回想にレリー・バキスタギスは浸った。ガラスの割れる音と共に、秘密裏の憩いを打ち破られた男は、武器を手に侵入者を討伐に向かう……
固く閉ざされた塀を上り、二匹のドブネズミが窓に取りつく。ガラス窓へヒートナイフを添え、熱で強度を下げて破壊した。
足音を完全に殺して、砕けたガラス片を避けて着地する二人。照明のない闇を見通し、敵の気配を慎重に探る。
突入直前、リビングの一角が明かりを灯したのを見た。ゴーレム達も観測し、人影からターゲットと断定できたと言う。方角を見定める獣人少女の目は暗く、懐の刃物を静かに握りしめて睨む。一方の男は周囲警戒を続けるが……
「静かすぎる……警備員もいないのか?」
「誰も来てないよね」
「まぁいい。好都合だ」
月明かりを頼りに外套をまさぐり、男はトゲ付きの鋼糸を握り込む。下準備を整える彼は、行動を起こしつつ少女に促した。
「となると、私兵団の本命は別か。わしの仕事は増えたな」
「……そうだね」
「ま、お主には良い条件よな。こっちに罠を張り巡らせておく。上手く使えよ」
「うん」
あちこちに線を引く様に、廊下の一部に視認困難な糸を配置していく男。彼を背にテグラットは、明かりの方を目指し歩みを進めた。
外の刺すような空気と異なり、ここの館の空気は生暖かい。鉄錆の香りと高級品特有の臭気に、小汚い恰好の彼女は顔をしかめた。
不慣れな臭いだ。この空間が、この館が、打ち倒すべき敵の居城と自覚させる。近い構造の建造物、ムンクスの屋敷と比べても……どこか高圧的な気配を感じるのは、気のせいだろうか?
「もう暫し待つが……奴等の私兵が来ないなら、倒すべきはレリー一人じゃろう」
「予定と違うけど、どうするの?」
「ムンクスの話だと、ユーロレック城の地下が怪しいそうじゃ。ま、そちらならユニゾン・ゴーレムを暴れさせても問題ないらしい。移動はちと手間だがの」
「……そっか」
胸に沸くのは寂しさと――仄暗い独占欲。
背中を守る人はいなくなるけど
代わりに敵を横取りされる心配はなくなる。
顔に出していないのに
セイランは見逃しはしなかった。
「あまり力み過ぎるなよ。積極的に死に急ぐな」
「……復讐はダメって言うつもり?」
逆光で見えない角度でも、同族の彼なら悟れるはずだ。ムンクスにも向けた仄暗い眼差しを。
――男は動じず、されど引き下がらない。
「んな残酷な事は言わんよ。ただ……自死を前提に動くなとだけ言っておく」
「死ぬ覚悟はしてるよ」
「覚悟と諦めは違う。そりゃムンクスやわし、この館の主と比べりゃ貧しいのかもしれんが……お前さんが死んじまったら、取り戻しても裏路地に帰れなくなるぞ」
日常を奪い返しても、戻れないなら意味がない。生きることは諦めるな。暗に差し込まれた言葉に少女は硬直した。
セイランは――獣人少女の捨て鉢な気持ちを見抜いたのだろう。けれど何故? 闇の中瞳を泳がせる彼女に、初めて彼はバックボーンを明かした。
「お主の日常は確かに壊れた。全部綺麗に復元することはできんじゃろう。それでも……それでも、取り戻す余地があるだけマシじゃ。全部零れ落ちたわしとは違って……」
「……お兄さんは」
「何も出来んかったよ。日常が壊れていくのを、指を咥えて見てる事しか出来んかった。信じられるか? 元々わしはムンクス側……表の世界で生きていた人間なんじゃよ」
「嘘でしょ?」
「本当だとも。奪われて、失って、でも生きる事はやめれんかった。お主のように覚悟を決めて、反逆する勇気は持てんかった。結果見事に腐り果てたドブネズミに落ちぶれた。全くざまぁないな」
嘘ではない。徹底した自虐口調は、反面教師に使えと少女には聞こえる。もう敵の本拠地にも関わらず、テグラットは男の言葉に耳を傾けていた。
セイランは手を止めず、彼にしては優しい声色で語り続ける。
「知った顔が復讐で死んで、残された側は惨めなモンじゃよ。じゃから……死に急ぐな。頼むぞ」
初めて。
初めて彼の、人らしい言葉を聞いたかもしれない。不自然なほど顔を背けて、すぐいつもの悪態を吐いた。
「けっ! 柄でない事言うもんでないな。調子が狂うわい」
即席の罠を仕掛け終えると、そそくさと彼は館から撤収を試みる。闇夜に影か消える前に、獣人少女も意思を伝える。
「セイランも、死なないで」
――大事な局面の直前に、何を甘い事を言っているのだろう。
現実に慈悲がないことくらい、私達は良く知っているのに。
それでも願わずにはいられない。それでも祈らずにはいられない。
世界を大きく変えられなくとも
祈る事さえ忘れて、生きることは出来なかった。
初めて名前で呼ばれた彼は振り向き
「死なない努力はする」
それだけを言い残し、割り砕いた窓から彼は外に出た。
あんな冷たい人間でも……少しだけ、人らしい所もあるんだって、私は思った。
表情は見えなかったけど、彼はきっと、微笑んでいたと思う。
……私が勝手に、そう感じただけかもしれないけど。
窓から吹き込む、シンと冷えた空気に背を向けて
生暖かい絨毯の先、私の日常を奪った敵を睨む。
本当はちょっと怖くて、手が震えているけど
私しかいないなら、私がやるしかない。
臆病者のドブネズミだって追い込まれたなら
化け物にだって噛みついてやる。
私が生きていくために、奪われたまま、心が抜け殻になったまま生きないために。
私はこれから「吸血種を、殺す」
呟いた決意を嘲るように
大げさな拍手と共に、私の敵は姿を現した。




