未知の亡霊
前回のあらすじ
若人からの相談を聞き終え、報酬代わりに噂の情報を晴嵐は得た。裏側で人が消える噂で、流す者も消されるという。今回上がった犯人候補は、千年前の『異界の悪魔』とまことしやかにささやかれているようだが……現場の『人狩』、そして『吸血種』の気配を知る晴嵐は、強い違和感を覚えた。
一方その頃、裏路地では……
あの人がいなくなった後も、テグラット達の底辺暮らしは変わらない。
人目につかないように、捨てられた生ごみと廃品を探して這い回り、一日一日を必死に超えていく。表の人間が一週間居ただけで、大きく変化するほど現実は甘くない。人目につかない秘密の領域で、今日も今日とて裏路地の住人は過ごしていた。
「テグラット。こんな感じか?」
「ん……よさそう」
けれど少しだけ、変わった事もある。焚き木に集まる人影の中心に、暗く赤い髪の少女が、丸い耳をぴこぴこさせた。
男が残した技術の一つ。今までゴミとして捨ててた動物の骨から、出汁を取る方法だ。意外と捨てられている残骸は、軽く洗って鍋に投げ込めば栄養になる。時間はかかるが数人で火の番をして、仕上げをテグラットに任せれば良い。
「よいしょ……っと。できたよ。みんな来て」
「うっし」
「へへへ」
鍋を上げ、スープを冷ましてから、周囲の人々が容器を持ち寄る。出来たスープは、協力したみんなで分け合って使う。無制限の水源と大量の骨のおかげで、いくらでも出汁を作ることが出来た。
本場の質には遠く及ばないものの、栄養が取れるだけでも十分だ。惜しみなくテグラットは皆に提供し、全員に分け終えた後、自分の取り分の保存に入った。
「ふーっ……これでよし」
ささやかな変化かも知れない。でもちょっとだけ、ここの暮らしは楽になった。
傍から見ればなんてことない、小さな小さな変化。清浄な世界の住人にしてみれば、鼻で笑われる次元だとも思う。
それでも……目の前にある現実は、ほんの少しだけ良い方向に変わった。いきなり逆転は出来なくとも、ほんの僅かな一歩でも、最底辺の底の底からは遠ざかった。
これでいい、とテグラットは思う。自分の出来ることを増やして、それが現実をちょっとずつ変化させていく。誰に馬鹿にされようとも、誰にも無視されようとも、自分の良い変化なら肯定していい。
自らに言い聞かせ、ぐっと手を握る少女に、ほんの少しだけ影が差した。
(お兄さんに、ほとんど返せなかったな……)
綺麗になった住居内で、少女はしんみりと唇を結ぶ。変化のきっかけをくれた男は、名も名乗らずにここを去ってしまった。
珍しい事じゃない。別れを言えただけマシで、誰かが野良猫のようにふらっと去ったり、隣人が翌日死体になる事もよくある。彼は簡単に死なないと思うけど、いつ何が起こるかなんて誰にも読めない。
目を伏せたまま、テグラットは二回首を振った。
(……心配しても仕方ない。私は私で生きないと)
もやもやした気持ちのまま、瓶詰のスープを棚に並べる。掃除した直後の室内を汚したくないと、彼が去った後も整理整頓を続けていた。今日拾い集めた物資を積み込み、一つ一つ陳列していく。全て積み終えた所で、一枚の用紙がひらりと舞った。
最近は手軽な遊びで、路地裏では折り紙が流行っている。使えるだろうと手に取ると、少女はその感触に固まった。
つるりとした光沢を持つのに、手のひらにべたつくような感じがする。生じた違和感に思考が目覚め、手にしたモノへ注意が向いた。
(なんだろう、これ……?)
指が触れた面はカラフルに彩られており、何かの絵のようにも思えたが……べたつく指に絵の具は付着していない。初めて見る用紙には、良く分からないものが表現されていた。
巨大な錆びの鉄塊が、暗い青の背景の中に沈んでいる。泳ぐ魚、揺れる海藻、茶色の錆びまみれの金属は、輪郭を見れば船にも思える。貝が、珊瑚か、びっしりと張り付いた金属の中心に穴が開いていて、底知れぬ暗黒を覗かせていた。
(よくわかんないけど……怖い……)
それは未知の用紙にだろうか? それとも描かれている何かにだろうか? 見つめてると背筋にうすら寒い物が走る。正視を避けるように裏側をめくると、奇妙な何かが刻まれていた。
学のない彼女には、何を意味するかが分からない。意味不明の記号の群れは、こう刻まれていた。
『Crossroad Ghost』
……訳が分からない。一体いつの間に紛れ込んだのか? これだけ特徴的な物を拾ったのなら、絶対に記憶に残るはずだ。出所不明の何かに対し首を傾げるテグラット。しばらく見つめると強い悪寒が、冷たい風のように身体の芯に吹き抜けた。
臆病な彼女は、カタカタと身体を震わせたまま動けない。自分だけがいる小屋なのに……誰かの気配を感じていた。
いや、誰かと表現することも正確ではない。実体を持つ相手であれば、ネズミ並みの臆病さで少女は感知している。
ならば――今、自分の背中にいる気配は何だ? 磯の臭いを漂わせ、テグラットの右肩にある奇妙な存在感は一体? 確認したい欲と、見てはならぬと少女の心がせめぎ合う。ただただ嵐が過ぎるのを待つように、震えて待つ少女の耳に、かすれた何かの声が届いた。
“彼ノ下ニ、カエシテ”
「ひっ!?」
手にしたものを取り落として、悪寒のあまり自らの身体を抱く。ガタガタと歯が鳴り、底知れぬ存在に魂が凍るほどの恐怖を覚える。突如降りかかる何かの気配は、誰かが発した一声で吹き飛んだ。
「ムンクス!? おめぇ、生きてやがったか! ったく……もっと顔を見せろよ!」
「ゴメンゴメン、ボクも色々あるからさ。手に持ってるソレ何?」
「あぁこれ? ここで最近流行ってるオリガミって奴。知らねぇの?」
「初めて見たよ! 教えてくれる!?」
「ったく、しょうがねーなぁー!」
隣人の声が、正体不明の何かを遠ざけたのだろうか? 悪寒の根源は幻のように消え去り、謎の気配は嘘のように消える。早鐘を打つ心臓が、ゆっくりと平時の鼓動を取り戻していく。
何なのだろうか、今の気配は。ただの考えすぎか、それとも悪い物でも食べたからか? 混乱する頭ではさっぱりわからないが、直感的に一つだけ察した。
“これはきっと、お兄さんの物だ”
拾った覚えのない用紙に、返してくれと要求する何か。ほとんと因果関係が薄いのに、臆病者の勘が察知していた。これは一週間だけここにいた、あの男が持ち込んだ私物なのだと。しばらく迷ってから、少女は謎の物体を大事にしまって頭を下げた。
「ごめんなさい。明日お兄さんの所に持って行きます」
不気味な何かに詫びてから、久々に出会えた友達の所に歩き出す。
――久々に再会した彼『ムンクス』から、少しだけ『人狩』の気配を感じた。




