灰色の世界から
前回のあらすじ
を、前書きで書きます。今回は一話なのでないです。
その老人の命は、今まさに尽きようとしていた。
曇天の空の下、ひび割れ自然に侵食されたアスファルトの上を歩く。
やや左に寄った襤褸を纏い、つぶれた右目と、老いと飢えで皺しかない肌が印象的な彼は、あてもなく彷徨っていた。
厳密には――自分のいた拠点から遠ざかっていた。他にも何か所か彼は拠点を作成していたが、そのすべてから遠ざかるように移動している。老人と同居していたモノたちに、自らの骸をさらさないために。
もう今が西暦何年なのはわからない。少なくとも2100年にはなっていないはずだが、彼にはそれを計る余裕はなかった。そして、西暦が使われることは二度とないだろう。良くて――おそらく奇跡的な確率の話だが――新世代の知性を持った者たちから、旧文明が使っていた物と定義されるのが精いっぱいだ。
人類の構築した文明は破滅した。
詳しい流れを知る手段は失われた。十年ほど前に全滅した、文明復興組なら知っていたかもしれないが、老人には興味のないことだった。
ただ奇妙な夢を見た……あの日がすべての始まりだった気がする。その日から世界は、徐々に不穏に包まれていった。
途絶える海外との連絡網。マスコミ越しに国民をなだめるだけで対応の遅い政府。真実とデマが混ざり合って混沌とするネット情報に、膨れ上がる不安に急かされながら、今ある生活を守れれば十分と無関心な大衆……
いよいよ隠し切れなくなり、政府が発表した情報は極めて巨大な混乱を生んだ。
――世界に、核が落ちた。
それも一か所や二か所ではない。彼ら側も正確に把握出来ない程、世界に核弾頭が降り注いだ。
老人の生きていた国には、幸いなことに核は落ちなかった。
唯一の被爆国、非核保有国の印象に加えて、先制攻撃を行わない専守防衛の方針が、結果として核攻撃の優先対象から外れ、演習訓練の迎撃ミサイルが国民の命を守った形だった。
しかし、それが幸福だったかどうかはまた別の話である。
食料と各種資源を輸入に頼っていたが故に、外の国が亡国となれば資源難に陥るのは必然。国家を担う政治家の多くもお手上げと逃げ出し、己の生命を優先したとの噂が民間で広がったのが、日本国の終焉を招いた。
一番上が保身に走れば、それより下に倣うのも人の性。ゾンビもパンデミックもなく、所謂終末世界に呆然とたたずむ情けない日本人諸君には、天のいたずらかあるいは罰か……いなかったはずのゾンビじみた『何か』が、いつの間にか出没していた。
理性を失い、人の形をした『何か』は、人を襲い喰らい、そして襲われた人間を同族へと変異させてゆく。生き血を啜り、夜行性であることから『吸血鬼』と呼ばれたそいつらは、今現在ほとんどが死滅していた……あるいは全滅しただろう。
(おそらくワシが、人類最後の一人じゃろうからな)
余計な思考を放棄していた脳が、末期を悟った老人の皺を深くする。食料となる健全な人間がいなくなれば、捕食者たる吸血鬼が全滅するのも道理。少なくとも二年近くは、自分以外の直立二足歩行する生物を見ていない。そのことに寂しさよりも幸運と感じてしまう老人は、己が既に狂人であることを認めていた。
寄り合い所帯で辛うじて人らしいコミュニティを形成していた学校が、一瞬で修羅の国に転ずるのを見た。
一生連れ添い守ると、家族の前で胸を張っていた父親は、吸血鬼となった息子に干からびるまで血を啜られた。
悪性と混沌。社会が抑えこんでいたモノが、システムによる統制を失った途端暴発した。
これが人類の最後だと思うと笑えてくる。先程奇跡的な確率について考えを巡らせたが、もしこの冬を乗り越えた知性がホモ・サピエンスを知ったら、ありとあらゆる罵詈雑言でなじられるに違いない。ここまで老いてまで生き延びた自分も、その一匹であることを思えば情けないと思えた。
しかし、自分ひとりで未来を変えられただろうか? 老人……大平 晴嵐は考える。……出る結論は、いつもと変わらなかった。
ありえない。当時ただの大学生であった自分が、海を跨いだ先にある国家に警鐘を鳴らせるはずがない。核が撃たれた後、人々が起こした混乱と混沌を鎮める手段もなければ、吸血鬼どもへの対処を優先すべきと訴えたところで、誰も聞き耳を持たないであろうことは……その後の展開と結果を知っている、今においても自明であった。
結局、ただ一人無様に生き延びることで精いっぱいだった。なるようにしかならなかった……紛れもない事実のはずなのに、胸の内で響く「言い訳だ」と、痛みを訴える心臓は何なのだ?
「全部……遅い事じゃ。もう何もできんよ、わしは」
それこそ言い訳でしかない。胸が疼く中、失った左手を隠すための襤褸布の、そのポケットに右手を突っ込み、老体には堪える質量を持った金属の塊を取り出した。
文明が機能してきた時代の遺骸。螺子巻き式のオルゴールがそこにある。漠然と未来が続くことに疑問を持たず、明日が当たり前だと信じることが出来た……その頃に手に入れた彼の嗜好品だ。情報を引き出せるインターネットから、仕組みを学んで複製も試みたがうまくいかなかった。しかしこれが彼が道具を自作するクセのきっかけとなり、おかげでこの終末もここまで生き延びることが出来たが……それももう終わり。最後に音色でも聞きながら臨終するつもりだった。
干からびた腕でオルゴールの螺子を巻こうとすると、微かな音が彼の耳に届く。それは徐々に迫り、彼は反射的に迎撃の構えを取ったが……気配を探り、険しい表情から一転、彼の瞳が大きく見開かれた。
「馬鹿者……なぜ来た」
人とは異なる、彼が戯れで同居を始めた生命体の一匹が、晴嵐の眼前へやってきた。
出立の際、生気は完全に殺していたはず。絶対に気づかれぬ自信があった老人だが、この個体は彼がいないことを不審に思ったのだろうか? 一つ鳴声を上げたソレは、晴嵐に帰って来いと訴えているように感じられた。
「戻らん……わしはもう、死ぬ」
彼らは人間の言語を理解しているのではない。ただ、発音の仕方や状況からなんとなく悟っているだけだ。晴嵐側も同様だが、下手に複雑化するよりも手早く伝わるからと、互いに了承の上でのコミュニケーション方式だった。
もう一度、切迫した訴えを含んだ鳴声。老人は首を振った。
「お前たちに屍を晒すつもりはない。生き永らえるのも限界なんじゃよ、わしの身体は」
生命体が俯く。全ては理解できずとも、老人の覚悟は伝わったのだろう。何度か顔を合わせては下を向き、もどかしげに立ちつくす生命体の足元に……老人は光の粒が伝うのを確かに見た。
先程以上に老人が瞠目した。惜別の感情。高い知性と明確な精神を持つ生物しか流せない涙……この生命は『新世代の知性』の萌芽を持っている。理解が及んだ刹那、傷だらけの心身に血が巡り、今の自分ができる精いっぱいを晴嵐は叫んでいた。
「行け……すぐに戻るんじゃ……!」
決死の叫びを受けても生命はまだ迷っている。晴嵐との別れを振りきれずにいた。
最後の灯火を燃やす勢いで、老人は隻眼で生命体を射抜き、想いを託す。
「お前は死んではならん。お前がわしがいなくなった後の、お前の同族たちを導け。もう二度と世界をこんな風にしてくれるな!」
人類の罪科を、一人で背負ったつもりはない。しかし同時に、地球に地獄を生成してしまった人間という種の、無念からなる総意が籠った言葉に生命が揺らいだ。
「行け……『――――――』!」
晴嵐は誰にも、同居した生命に名を与えたことはなかった。最初で最後の命名は、どこかの国の言葉で『光』を意味していたと辛うじて覚えている。咄嗟にでた単語が『光』とは。胸に広がる苦みと裏腹に、老人の意思を汲んだ生命体が、何度か鳴声を上げながら去っていった。
姿が見えなくなるまで、直立不動で見送る晴嵐。やがて生命がいなくなると、気迫を吐き出しきった肉体に疲労がのしかかり、枯れた身体を冷たい大地に横たえる他なくなった。
しかし老人の顔には、久々に笑みが浮かんでいた。胸中に燻っていた虚無は消え去り、さっぱりとした心情で、オルゴールにもう一度手を伸ばす。
分かっている。彼らが成功する可能性は限りなく低いことも。そもそもこんな災禍を引き起こした種の、一個体である晴嵐が言えた義理ではないことも。
それでも……縋るに値するモノが最後の最後にあっただけ、何もかも滅ぶばかりの終末では上等だ。そう納得した自分へ送る、読経代わりのオルゴールの螺子を巻いた。
涼しい金属音が、誰もいない世界に響いていく。しばらく音色に聞き入っていると、老人の視界に幻影が映りこんだ。
光を抱く天女が、晴嵐の眼前へ近づいてくる。おぼろげな記憶から、今臨終を彩る曲を歌ってたアーティストだと直感した。幻に違いない彼女に、亡くした左手を伸ばすと、幻肢の指先から柔和な熱が広がっていく。
――間に合ったー!――
脳髄に響く言霊。万感の想いを乗せた思念が晴嵐を包み込み、どこかへと運び昇華させて――
三日後、「――――――」が同じ場所を訪れた時、老人の痕跡は跡形もなく消えていた……
後書きでは、用語解説や人物解説をすることがあります。
現段階の整理なので、若干不自由な感じにします。(謎が解明された段階で、詳細をある程度開示します)