第五章 親と子と友達 下
翌日。異変は俺が思った以上に早い段階から始まった。
下駄箱を開けたときだった。通常なら俺の上履きだけが入っているはずの場所に、薄っぺらい封筒がいくつか入っていたのだ。
……まさか中にはカミソリの刃が?
昔テレビで見た、いじめを主題としたドラマを思い出す。たしかそのドラマでは主人公の下駄箱にカミソリの刃が入っていたのだ。ただし封筒の中ではなく、上履きの中だったけど。
この場で開けるのもどうかと思い、鞄の中に突っ込んで教室へと向かう。今日はかなたの方が早かったようで、既に席についていた。
「おはよう。千尋」
「おはようって、今日はいやに真面目だな」
「ん、まあ、その、昨日あんなことになったしね……」
かなたは頬を掻きながら苦笑する。
「かなたがそこまで気にするんじゃない。単純に周りが騒ぎすぎなんだ」
「ううん。僕の誤算だった。ある程度は人気者になるだろうなとは思っていたけど、まさかあんなにまでなるなんて……。ギャップが大きかったからなあ」
そう言って大きなため息をつく。
「……ちょっとみんなに可愛い千尋を見せびらかしたかっただけなのに」
「かなた、何か言ったか?」
「う、ううんなにも!」
かなたが両手を顔の前で振る。少し頬が染まっているように見えるのは気のせいだろうか。
「それよりかなた。見て貰いたいものがあるんだけど」
「なになに?」
さっき下駄箱で手に入れたばかりの封筒を鞄から取り出し、机に並べる。
「これが下駄箱に入ってたんだけど、何か分かるか?」
かなたが封筒を手に取る。持ち上げ、蛍光灯に透かすと、表情が曇った。
「下駄箱にまでこれが……。都市伝説かと思ってたよ」
「なんだ? やっぱりカミソリの刃か?」
「むしろ真逆」
真逆? カミソリの刃の逆って……みね?
「そういう逆じゃなくてね。まあ、開けてみてみれば良いよ。危険はないから」
促され、おそるおそる封筒を開ける。中には一枚の便箋。カミソリの刃は入っていないようだ。
「手紙?」
「読めば分かるよ」
何故かかなたはふて腐れていた。手紙を広げ、読んでみる。
「…………え、なにこれ」
それは声に出すのも憚られるような、身の毛がよだつ内容だった。
一目惚れ、恋、好き。
そんな甘ったるい言葉が並んでいた。この手紙はもしや、いわゆるラブレター、日本語訳で恋文というヤツだろうか。
「凄いよね。昨日の今日で手紙出すって。一通くらいはあるかなあ程度に思ってたのに、まさかこんなに来てるとはね」
睨み付けるように机に広げられた封筒に目を向ける。封筒の正確な数は四。
「これ、全部そうなのかな……」
「たぶんね」
かなたは頬杖をついて、封筒を指に挟み、中を透かして見る。
「とりあえず全部見てみるか」
憂鬱な気分で封筒を一つ一つ開けて中を確認する。どれも飾り気のない地味な便箋に三行か四行程度の短い文章が綴られていた。内容はどれも似たり寄ったり。つまり四通ともラブレターだった。
「……どうしよう」
「どうしようか」
ラブレターなんて今まで一度も貰ったことがない。これをどう処理して良いか分からなかった。
と、教室にひとが増えてきた。机に手紙を広げていると勘繰られるかもしれないので、慌てて鞄にしまう。
「かなた。今日の放課後空いてるか?」
「うん。特に何もないけど」
「だったらこれをどうするか話したいから、うちに来てくれないか?」
「え……?」
かなたの動きが止まり、その目が俺に固定される。疑問に思いながらも言葉を続ける。
「学校の方がいいんだろうけど、今日は妹が早く帰ってくるんだよ。だから家にいなくちゃいけない」
「そ、そうなんだ」
「……ダメか?」
今日中にこれをどうにかしたい俺は縋るようにかなたを見つめる。
「そ、そんなことないよ! 行く、絶対行くから!」
かなたはガタンと椅子を鳴らして腰を浮かし、机越しに俺の手を握りしめる。
「そ、そうか。じゃあ宜しく頼む」
「頼まれたっ!」
さっきまでのテンションの低さはどこへやら。いつもの調子を取り戻したかなたは笑顔で頷いた。
◇◆◇◆
そして放課後。予定通りかなたを連れて家へと向かうその道中。
「男は単細胞生物なのか?」
「千尋、千尋。一応僕も男なんだけど」
「そうだった。じゃあなんと言えば良いのか……。とにかく、アイツらはバカだ、アホだ」
「酷い言われようだね……」
若干かなたが引いていた。しかし前言を撤回する気はなかった。それだけ俺はアイツらに憤りを感じていた。
それはお昼休みのことだった。昼食を食べ終えて図書室でゴロゴロしていたところを、突然見ず知らずの男に声をかけられ、人気のない場所へ連れて行かれた。
『付き合ってください!』
土下座するんじゃないかと思わせるような深々としたお辞儀と共に告げられた言葉は、朝の下駄箱に、そしていつの間にか詰め込まれていた机の中に入っていた手紙と同じ内容のものだった。つまりは告白だ。
もちろん俺は断わった。男は食い下がったが、最終的にはちゃんと理解して、諦めてくれた。
「あれなら手紙の方がまだマシだ」
「そう? 手紙よりはっきりしていて男らしくない?」
「男らしいねぇ……」
面と向かって告白してきたことは、たしかに男らしいと思ったけど、その後はどちらかというと女々しかったような……。
「まあ、その男はどうだったか分からないけど。断わったんだよね?」
「当たり前だ。俺が男と付き合うだなんてありえない」
「どうして?」
「どうしてって、俺は……」
男だ。そう続けようとして口を噤んだ。かなたが怪訝な顔をする。
「あ、うちが見えてきた」
話題をそらそうと視界に入った我が家を指差す。
「どれどれ?」
意図を汲んでくれたのか、かなたは俺から視線を外し、指差した先に目を向けた。
白を基調とした日本ならどこにでもある一戸建て。特徴と言えば街中の住宅にしては少しばかり敷地が大きく、庭が広いことだろうか。洗濯を干すには絶好のポイントなので重宝している。
「あ、にーに。おかえりなさーい」
「ただいま、花音」
ちょうど洗面所から出てきた花音が、帰ってきたばかりの俺を見つけて抱きついた。頭を撫でてやると目を細めて頬を胸に擦りつけた。
「千尋、この子は妹さん?」
「うん。花音って言うんだ。花音、挨拶して」
花音は名残惜しそうに俺から離れると、かなたにペコッと頭を下げた。
「比与森花音です。小学二年生です」
「り、立仙かなたです。よろしくね」
かなたが目を輝かせながら挨拶を交わす。聞かずとも分かるぐらいに、花音を気に入ってくれたようだ。
「千尋……犯罪なくらいに可愛いね、この子」
「自慢の妹だ。……だから、犯罪になるようなことはしないようにな」
「善処します」
花音に視線を固定したままかなたが言う。まったく説得力がない。
「花音はかなたを俺の部屋に案内して。俺は飲み物持って後で行くから」
「はーい。おねーさん、こっちこっち」
「ち、千尋。おねーさんだって」
「そりゃそうだろ……」
かなたの姿を見て男だと思うヤツはどこにもいないっての。
二人と別れてリビングへ。飲み物は何が良いだろう。紅茶で良いか。棚からアールグレイの茶葉を取り出し、ティーサーバーに熱湯と共に入れる。カップを三つと牛乳、砂糖を取り出してお盆に載せ、リビングを出た。
部屋へ行くと、かなたはソワソワと落ち着きなく、目をキョロキョロとさせていた。
「どうしたんだ、かなた?」
「へっ? えっと、なんか緊張しちゃって」
「なんで緊張するんだ?」
「あはは。そ、そうだよね」
やけにぎこちないかなたに首を傾げつつ、テーブルにお盆を置き、カップに紅茶を注いでいく。
「いい香りだね。なんていうのこれ?」
「アールグレイ。フレーバーティーの一種だよ。味より香りを楽しむヤツかな。アイスティーが良いらしいけど、俺はミルクを入れてミルクティーにして飲むのがおすすめ」
紅茶を注ぎ終え、そこにミルクと砂糖を入れていく。花音の分には砂糖とミルクを多めに。かなたの好みは分からないから自分で入れて貰おう。
「ふーん。千尋って紅茶に詳しいの?」
「そんなことないよ。これぐらいちょっとネットで調べたら出て来るし」
花音を膝に乗せ、まだ熱い紅茶に息を吹きかけて口を付ける。悪くない出来だと思う。
「ナチュラルに妹を膝に乗せたね……。妹と仲良いの?」
「うん、まあ人並みに」
「人並み以上だと思う……」
かなたは紅茶にミルクだけ入れてカップを持った。カップを傾けながら、その視線は花音に向けられている。
「花音ちゃんは、千尋と仲良いの?」
「にーに、好き」
「にーにかあ……」
かなたの顔がほころぶ。と、思いきや真面目な顔をして俺を見た。
「可愛すぎるのでお持ち帰りしても良いですか」
「駄目に決まってる」
「えぇー」
「えーじゃない」
本当に残念そうな顔をするかなたから護るように花音を抱きしめる彼はそれを見てため息を一つ、紅茶に口を付けた。
「あ、そうそう。紅茶美味しいです」
「わざわざ取って付けたように言うな」
半眼を送ると、かなたは舌をペロッと出した。
「まあ冗談はここまでにして、本来の目的を済ませよっか」
かなたはカップをソーサーに戻して身を乗り出す。鞄の中から手紙を取り出し、それをテーブルに広げる。朝の四通に、いつの間にか机の中に入っていた二通の計六通だ。
「見てもいい?」
「どうぞ」
かなたが一通ずつ目を通していく。とは言っても文は短いし六通とも内容に差はないからすぐに読み終えた。花音が興味津々に手紙を見つめて「これなあに?」と聞いてきたので、友達からの手紙だと言って誤魔化した。
「うん。まあ、普通に返事出せばいいんじゃないかな?」
「普通にって、ごめんお前とはつきあえない、って?」
「そんな感じ。書いた手紙は……僕の友達経由で渡して貰えば良いかな。全員名前は聞いたことある人ばかりだし」
便箋に書かれた名前を見て、かなたが言う。
「俺が直接渡さなくてもいいのか?」
「それでもいいけど……手紙を書いた相手に会うのって嫌じゃない? 特に今回は断わるわけでしょ。会わない方が相手にも興味がないってことが伝わるんじゃないかな」
なるほど。そういう考えもあるのか。
「つまり俺は手紙を書けば良いのか」
「うん」
手紙なんて書いたこともないのになあ。書くしかないんだろうけど。
「レターセットが必要だな。近くのコンビニに売ってたかな」
「そう思って、ちゃんと持ってきてるよ」
そう言って取り出したのはカラフルなレターセットだった。女の子らしく、右下には小さくマスコットが……ってよく見たらうさぎじゃないか。うわどうしようかわいい。
「その髪飾りと同じうさぎにしてみたんだけど、どう?」
「う、うん。悪くないんじゃないかな」
どこに売ってるんだろうこれ。凄くほしい。
「良かったら。じゃあそれ使ってね」
もったいなくて使えない……とは言えないので、渋々封を開けることにする。
内容は淡泊に「君とは付き合えません。ごめんなさい」でいくことにした。短すぎるとも思ったけど、向こうだって大したことないんだし、むしろこっちの方がチャンスなんて欠片もないということが伝わってよさそうだ。
書き終えた便箋を封筒に入れて封をする。それをかなたに渡して終了だ。あとはかなたの友達経由で相手に渡るだろう。
「これで一件落着と」
「落着はしてないんじゃない? 。だって今日はまだ二日目だよ? 当分の間はラブレター貰ったり告白されたりするんじゃないかな」
「……なんてこった」
がっくりと肩を落とす。今日みたいなことが当分繰り返されるというのだ。憂鬱になってくる。
あーもー面倒臭い。恋だとか愛だとか男とか女とか。なんでそんなものに振り回されなくちゃならないんだ。俺はただ普通であればそれでいいのに。
……って、俺自身が普通じゃなかったか。
「ねぇ。千尋」
「んー?」
膝の上の花音の頬をむにむにしながら返事する。
「千尋はなんで自分が女の子って呼ばれることが嫌なの?」
「また唐突に鋭い質問をしてくるんだな」
かなたが部屋をぐるりと見回す。
「うさぎのグッズがあの棚に集められていること以外は、男の子の部屋みたいにシンプルだなと思って」
うわっ。失敗した。うさぎグッズを隠すのを忘れていた。
「うさぎ好きだったんだね。いくつかうさぎのグッズ持ってるから、今度あげるよ」
「あ、ありがとう……」
嬉しいやらバレて恥ずかしいやら、微妙な気分だ。
さて、どう返事しようか。はぐらかすことは簡単だ。前のように適当に何か言っておけば良い。空気の読めるかなたのことだ。深く追求はしてこな――
「……もしかして、ご両親と何か関係あるの?」
「――っ!?」
……しまった。反射的にかなたを凝視してしまった。今更目をそらしても遅い、どころか隠そうとしていることばればれじゃないか。
「なるほど、ね。そういうことか」
なんで分かった? 俺は一言も親が関係していると言った覚えはないぞ? いくらやたら勘が鋭いと言っても、心が読めるわけじゃない。一体どうやって……。
「そこの机の写真。家族で撮ったものだよね? 真ん中の男の子が千尋で、その隣にいるのがあなたのお父さんとお母さん、そして花音ちゃん」
机へと視線を向ける。たしかにそこには昔家族で旅行へ行ったときの写真が飾ってある。楽しそうに笑う俺と母さん、そして父さん。花音は母さんの腕の中で眠っている。どこにもおかしなところはない、普通の家族写真だ。
「これ、かなり昔の写真だよね。花音ちゃんがこんなに小さいし」
「五年前、かな」
「五年前の写真が机に飾られていて、もっと最近の写真はないのかなと、失礼だと思ったけど、千尋が来るまでに部屋の中を探したのだけど、これ以外見つけられなかった」
それのどこがおかしいのだろうか。その五年前の写真が今も飾られているのは、それ以降家族写真を一枚も撮っていないからだ。だからそれしか――
そこでようやく俺は気付いた。かなたはこう言いたいのだ。五年も前の写真だけが飾られているのがおかしい、と。
かなたが眉を下げる。申し訳なく思っているのだろう。別に彼がそんな顔をするする必要はない。何も考えずにここへ招き入れた俺のミスだ。
肩の力を抜く。今更取り繕うつもりはなかった。若干自棄になっているような気もするけど、まあこの際構いやしない。
「かなたは探偵とか向いてそうだな」
「あはは。そうかな」
かなたが苦笑する。俺は結構有りだなと思っているのだけど。
「まっ、お察しの通り、両親とは昔いろいろあってね」
ぬるくなった紅茶の残りをぐいっと一気飲みする。冷めたせいで香りは薄まっていた。
「半陰陽って知ってるか? 俺も詳しくは知らないけど、染色体の異常のせいで男だか女だか分からない曖昧なことをいうんだけど、俺がそれだったんだ」
そうして誰にも話したことのない昔話を語り始めた。
「生まれたとき、見るからに男だった俺は、もちろん男として育てられた。周囲も俺も、比与森千尋は男だとして認識していた。ただ、男にしては小柄で、内気な性格だったせいで、よく女の子に間違えられたらしいけどな」
小学生の頃には、同じクラスの男子からよく「女みたい」だと言っていじめられた。その度に俺は反論し、大喧嘩。帰れば大好きだった母さんに泣き付き、慰めてもらっていた。
「喧嘩して帰ってきた俺は母さんに、俺って男だよね? と聞いた。母さんは笑顔で、そうよ、っていつも答えたんだ」
そしてある日。連日の高熱にうなされて病院で検査を受けた際に知らされたのは、俺が女であることだった。
「外見だけが男のそれで、しかし中身は完全に女。それが俺だった。すぐに俺は入院、そして手術を受け、一ヶ月後。リハビリを終えて退院する頃には、立派な女の子になっていた」
小学生に手加減という言葉はない。二ヶ月ぶりに投稿した俺に、男子は「やっぱりお前女だったじゃねーか」と大笑いした。性別が変わりナーバスになっていたこともあり、また以前のように大喧嘩。男だった頃は均衡していた喧嘩も、女になったことと、入院生活が長かったことによる筋力低下であっさりと負けてしまう。床に倒れた俺に男子は追い打ちをかけるように「やっぱり女はよえーな」と吐き捨てた。
「そして俺は母さんに言ったんだ。母さんの嘘つき。俺は男じゃなかったじゃないか、って」
それは溜まりに溜まった母さんへの不信感が合わさっての言葉だった。
俺が女になった当初から、母さんと父さんの態度は急変していた。まるで厄介事を抱え込んでしまったみたいな、嫌なものでも見るような目で、病院のベッドで痛みに蹲る俺を見下ろしていた。それが酷く心を傷つけていたのを今でも覚えている。
「それからだよ。俺が引きこもり始めたのは。学校に行きたくない。母さんや父さんとも話したくない。だから部屋に引きこもって、極力誰とも会わないようにした。気付けば一緒の家にいるはずの両親と顔を合わせるのは週に一回、日曜日の夕方に少しだけだ。これで仲が良いはずがないよな」
そうして今に至る。家事をするようになったのも、ご飯を作れるようになったのも、全て母さん達との接点を少なくするためだ。避けようとすればするほど女の子らしくなっていくとは、ちょっと皮肉だ。
「だからさ、時々思うんだ。もし俺が男だったら、こうして母さん達と険悪な関係にならなかったんじゃないかって。きっと今も俺はお母さんっ子で、仲良く笑っていられたんだろうなって」
だから俺は男であろうとした。心だけでも、自分を男だと思おうとした。無駄だと言うことは知っていながら、それでも止めることはなかった。
「……千尋は今でもお母さんのことが好きなんだ」
「まあ、そうだな。母さんは俺のことどう思ってるか知らないけど、俺は今でも……。けど、顔を合わせるとあの時のことがちらついてどうにもならないよ」
「にーに……」
静かにしていた花音が泣きそうな顔をして見上げる。心配するなと頭を撫でても、その表情が和らぐことはなかった。
「そんなことはないよ。きっと今からでも昔みたいに仲良く出来るよ!」
「今更どうやってだよ」
「それは……うーん……」
腕を組んで唸り出してしまった。ぶつぶつと小さな声で何かを呟いているようだけど、何を言っているかまではさっぱりだ。
「……ドラマのように何か劇的なことがあればいいんだろうけど、実際はそんなことってないよね」
「都合良く転がってはいないよ」
「だからと言って何もしないのは良くないと思うんだ」
かなたの言うとおりだ。しかし、一体俺に何をしろと。
「ほら、千尋といえばその場の勢いでしょ?」
「煽り耐性ゼロだとでも言いたいのか?」
「そうなんだけどそうじゃなくて、とにかくやってみようよ。やればきっと前に進むんだから」
「だから何をだよ」
若干呆れながらも、その何かを求めてかなたに耳を傾ける。
「お母さんとお父さんと、もっと何か接点を作ろうよ。たとえば……」
そう言って再び考え込む。数秒後、何かひらめいたらしいかなたはテーブルを叩いてこう言った。
「そう、ご飯を作ってあげるとか!」
◇◆◇◆
今更ご飯を作っただけで何になるんだと思ったけど、何もやらないよりはマシだということで、かなたの案に乗ってみた。
とは言え、母さんと父さんの帰りは遅い。温かいご飯を作っても、帰ってくる頃には冷めてしまう。だったら最初から冷えているものを作ろうと逆転の発想により、冷えても大丈夫。そして一番喜んでくれそうなお昼ご飯のお弁当を作ることにした。
おかげでさらに朝が早くなった。まだ外が薄暗い中、花音を起こさないようにベッドを抜け出してキッチンへ。唐揚げや卵焼きといった定番のメニューを作り置きではなく、ちゃんとお弁当に詰める前に一から作る。どうせ作るなら手の抜いた物を食べさせたくはなかったのだ。
眠い目を擦りながら三人分のお弁当を作る。花音の小学校は給食だから、母さんと父さん、そしてついでに俺の分だ。
棚の奥に閉まっていたお弁当箱を引っ張り出してそれに詰め、メモを挟んでテーブルに置いておく。こうしておけば気付くだろう。
ちゃんと食べてくれるだろうか。不安に駆られながらも花音を送り出し、俺も学校へと出た。
そして翌朝。リビングに行くと、そこには何故か母さんと父さんがいた。朝はギリギリまで寝室から出てこないはずの両親が、ダイニングテーブルで俺を待っていたのだ。
驚愕してその場から動けない俺に、母さんは泣きそうに、けれど微笑んで、手にした空のお弁当箱を見せて「美味しかった」と、そして「ありがとう」と頭を下げた。
ずっと謝りたかった。そして花音の世話のお礼を言いたかった。そう母さんは言った。
瞳に浮かぶ涙を見て、それが母さんの心からの言葉だと悟った。母さんも人の子。どうやって俺に接すればいいのか分からなかったのだ。きっとあの時、俺が女になったときも、俺を邪魔者扱いしたかったわけじゃなくて、親としてどうすればいいのか悩んでいたのだろう。結果悪い方に行ってしまった。それだけだ。
これからもお弁当を作ってくれるかしら? と尋ねてきた母さんに、俺は即答で頷いた。
代わりに俺からも一つお願いをした。
いつか連休が取れたときで良いので、また家族で旅行に行こう、と。
◇◆◇◆
「やってみれば案外簡単でしょ?」
「まあ、そうだな」
ミートスパゲティをフォークにクルクルと巻きつけながら答えた。
かなたは俺のお弁当を食べている。今回のお礼をしたいと言ったら、「千尋のご飯が食べたい!」と言ったので、しばらくの間は彼の食券と交換という条件でお弁当を食べさせてあげているのだ。
「大抵のことは最初の一歩がとてつもなく難しいだけで、進んでしまえば案外いけるもんなんだよ」
得意げにかなたが言う。
「それは経験談か?」
「その通り」
「女装か?」
「正解。最初は結構ドキドキものだったよ。お母さんに何て言われるだろうなあって」
「見せたのかよ!?」
かなたは唐揚げを頬張りながら頷いた。
「うん。だって初めて着たのはお母さんの服だったし」
「なんでまた親に見せようと思ったんだよ……」
普通は息子がそんな格好をしていると知ったらショックを受けて卒倒ものじゃないのか。
「うちのお母さんなら喜んでくれるかなって。実際似合ってるって褒めてくれたよ」
「お前の家はどうなってるんだよ……」
「うちの親は結構寛容だからね」
寛容にもほどがあるだろ……。
「ちなみに、かなたはどうして女装しようだなんて思ったんだ?」
聞いて良いことなのかどうか迷ったが、かなたには遠慮はいらないだろうと聞いてみることにした。
「ん? まあ、日頃のストレス発散かな。これでも子供の頃はいろいろ習い事をさせられててね。イライラしてたら、ふとお母さんの子供の頃の服を見つけて着てみたのが始まりかな」
子供の身でストレスって……。一体どれほど忙しかったのだろう。しかしストレスが原因で女装とは、また凄いところをついたものだ。
「今はただの趣味だけどね」
かなたが笑う。相変わらず女の子にしか見えない。
「まあ、いいんじゃないか。似合ってるんだし」
「あれ、いいの?」
「うん。もう気にしないことにしたんだ」
これは請け売りだけどな、と前置きをして俺は続けて言う。
「どんな姿をしていても、かなたはかなただからな」
どうだとかなたに視線を向ける。しかし、かなたはきょとんとするだけで何も反応を示さなかった。
「かなた?」
顔の前で手を振ってみる。それでも反応はなく、仕方ないので彼の頬を引っ張った。
「いたたたた。千尋痛いって!」
やっと動いた。手を離すと、かなたは赤くなった頬を涙目になりながら擦った。それがおかしくてクスクスと笑ってしまう。
「今の千尋の笑い方。女の子らしくて可愛かった」
「そう?」
意識してやってわけじゃないのに。
「あれ、ここは『俺は男だ』って怒るところじゃないの?」
かなたが首を傾げる。
「もういいんだよ。元々母さんとのことがあって男になりたかっただけだし」
「つまり、これからは積極的に女の子らしくなる、と?」
「それは違う」
ちぇっと口を尖らせるかなた。かなたは俺をどうしたいんだ。
「しかし、どうしてかなたはここまで俺に良くしてくれるんだ?」
それはずっと疑問だったこと。元はネットゲームで繋がった顔の知らない友人だ。それがあの日リアルで顔を会わせてから今日まで、気付けば横にかなたがいるぐらいに俺の傍にいて、助けてくれた。無償で人を助けるなんて仏でもない限りありえない。RFでレアアイテムでもせがんでくるのかと思えばまったくその様子はない。一体何を見返りに求めているのだろうかと、いつも気になっていた。
「ん、? うーん、それはね」
かなたは頬を赤く染めてはにかんだ。その表情の意味が分からず、首を傾げる。
そしてかなたは答えた。胸に手を当て、ゆっくりと、しかしはっきり堂々と。
「それはね、僕が千尋のことを好きだからだよ」