第五章 親と子と友達 中
「はあ~。体に染みるぅ……」
湯船に浸かり、じんわりと広がる暖かさに思わず声が漏れた。
「あはは。にーに、おじいちゃんみたい」
膝の上に座る花音がコロコロと笑う。すかさず抱きしめると、くすぐったいと言ってさらに笑った。
ひとしきり花音を笑わせて遊んだ後、体を洗うと湯船から出た花音をぼーっと眺めながら今日一日を振り返った。
変化はクラスの中だけではなかった。休み時間にトイレへ行こうと廊下を歩いていたときだ。通り過ぎる生徒の多くが、チラ見ならまだしも一度見たあとにあからさまに二度見してきたのだ。「おい、さっきの女子誰だよ」と男が。「ねえねえ。今の子見た?」と女の子が。先週まで俺に興味を示さなかった彼ら彼女らが、手のひらをひっくり返すかのごとく、突然騒ぎ始めたのだ。
昼休みは特に大変だった。学年さえ違う名前も顔も知らないヤツらから、食事の間中ずっと視線を浴びせられたのだ。気持ち悪くなってご飯が喉を通らなかった。
かなたが言うように、ドラマであるような、見た目が変わることで周囲の人から好意的に受け止められるようになったとしても、俺がそのドラマのヒロインのように喜ばしく思うかどうかは別問題だ。
前の自分にコンプレックスがあれば、この周りの変化も嬉しく思えるのだろう。しかし俺は容姿自体にコンプレックスは持っていなかった。だから前の自分も今の自分も大した違いはない。それなのに周りは過剰に反応するから、正直気分が悪い。
別にかなたが悪いとは思っていない。彼は彼なりに俺を気遣ってくれたのだろう。その証拠に、ホームルームを終えた後、ゲッソリしている俺を見て「ごめんね」と謝ってきたのだ。「まさかここまで騒がれるとは思わなかった。クラスのみんなから、変わったね、と驚かれるくらいで終わると思っていた」と。
「明日は僕も頑張るから」と言っていたけど、いったい明日に何があるのだろうか。
「にーにどうしたの? 具合わるいの?」
考え込みすぎてぼーっとしてたらしい。気付けば目の前に心配そうな花音の顔があった。考えるのは一人の時にしよう。
「大丈夫。それより、ちゃんと髪も洗えよ?」
「えぇー。目が痛くなるからやだ」
「目を閉じたらいいんだよ」
「目を瞑ったら見えなくなっちゃう。にーに、髪洗って」
それが当然という風に、シャンプーのボトルを渡して背を向ける。う、うーん。小学二年生でこれはどうなんだ。甘やかしすぎたかな……。
「にーにはやくー」
「……あーもうはいはい。今日だけだからな」
そして今日も花音の髪を洗う。慕ってくれる妹を無下にすることは姉――じゃない、兄としてできないのだ。
湯船の中に立って、花音の顔に泡が行かないよう注意しつつ、頭皮をマッサージしながら念入りに洗う。相変わらず小さな頭だ。頭と言うより全身か。病気ではないと医者は言ってていたので、単純に俺と同様小柄なのだ。両親はどちらも平均以上なのに、兄妹共に平均を大きく下回るというのはどういうことだろう。一応これでも二人で毎日牛乳を飲んでいるのに。
ふと視線を下ろす。そこには緩やかなカーブを描く小さな胸がある。まったくないわけではないが、あるとは決して言えない大きさ。
……いや、別に小さいからと言って劣等感を抱くことはない。胸なんてなくても――って何を考えてるんだ俺は。胸があるとかないとか以前に胸そのものがどうでもいいんじゃないか。俺は女でありたいわけじゃないんだから。
学校に通い始めてからどうも変だ。引きこもっていた頃は体のことなんて気にも留めなかったはずなのに……。先週なんてかなたに胸を触られただけで平手をかましてしまった。花音に触られてもなんともないんだけどなあ。
「花音、流すから目を閉じろ」
「うん」
少し間を置いてお湯を被せる。綺麗に泡を流し終えると、花音は再び湯船に浸かり、俺の膝の上に座った。
花音に両腕を回し、軽く抱きしめる。まだ二次性徴を迎えていない花音の体。もちろん胸はまだ膨らんでいない。中性的な体つきだけど、あと二、三年もすれば俺のように女らしく成長するのだと思うと、少し寂しいような気もする。
俺のように、か……。
自分が女であることを否定したくても、この体はどうしようもなく女だ。事実、一般の女の子と同様に俺にも生理は来る。これが結構重い。
『今は女の子だよね?』
今どころじゃない。俺はずっと前から女なんだ。そんなこと分かっている。分かってはいる。それでも俺は男だ。男でいたかった。でも……。
頭を振り、花音の頭に頬を寄せる。
「……なあ花音。花音は女の子だよな?」
「うん」
揺れることのない、はっきりとした言葉。俺のようにぶれはしない。
「にーにも今は女の子だけど、花音はにーにがどっちだったら良かった? 男のままが良かったか?」
それはありえないこと。三年前のあの日、俺は否応なく女になったのだから。いや、医学的には元から女だった、が正しいのか。
俺が男のままだったら、両親とも今のような関係にはならなかったのだ。きっと花音もそう思って――
「にーにはにーにだから、女の子でも男の子でもどっちでもいいよ」
花音は振り向き笑顔で言った。
「でも、結婚するなら、にーには男じゃないといけないんじゃないか?」
それ以前に兄妹なのだから無理なのだけど、今それは関係ない。
花音はやはり同じく笑顔で答える。
「どっちでもいいの。花音はにーにだから好きなの」
花音が両手を広げる。その言葉に揺らぎはなく、はっきりとしていた。
男だろうが女だろうが関係なく好き、か。……まったく、こういう変なところは俺よりも成長しているんだから困った物だ。
「……そっか。花音はにーにが好きなのか」
「うんっ」
これは完全に甘やかしすぎたな。