第五章 親と子と友達 上
まどるみの中、電子音がけたたましく鳴り響いた。ゆっくりと目を開ければ、そこは薄暗い馴染みの部屋だった。
「ふあ……」
欠伸を一つして、頭上に手を伸ばす。指先に目的の物が当たり、手を振り下ろす。カチッと音がして、室内が静寂を取り戻した。
眠い。けど起きないといけない。
枕元の眼鏡をかけ、視線を下ろす。そこには俺を抱き枕のようにして眠る花音がいた。すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。
昨日の二一時頃だ。RFをしていたらドアをノックして花音が入ってきた。枕を抱きしめて、「にーにのお布団で寝てもいい?」と尋ねてきたのだ。いつものことなので了承すると、表情を綻ばせてベッドに潜り込み、ちゃんと俺が寝る場所を確保してから目を閉じた。
で、朝起きたらこれだ。花音が寝てから一時間後くらいにベッドに入ったのだけど、いつごろ抱きつかれたのか。
起こさないようにベッドを抜けだす。カーテンと窓を開け、外の空気を部屋の中に取り込む。肌寒い風にブルッと体を震わせ、空を見上げた。
今日も晴天。秋晴れだ。うろこ雲が空に綺麗に浮かんでいる。
んっと伸びをして深呼吸する。向かいの家の屋根に猫を見つけて手を振ると、猫はジッと俺を見つけて、ニャーとひと鳴きした。
窓を閉めて、制服に着替える。パジャマを脱ぎ捨ててブラを付け、キャミソールの上にセーラー服を着て、スカートを穿きホックを留める。最後にタイツを穿いて、鞄に荷物を詰め、カーディガンを腕にかけて部屋を出た。
さて、今日はご飯とパン、どっちにしよう。
そんなことを考えながらエプロンを付けてキッチンへ。炊飯器を開けてみると、ご飯がまったくなかった。パンにしよう。
俺の朝は早い。両親の帰りが遅いため、家事は主に俺がやっているのだけど、それは朝も同じこと。平日は誰よりも早く起きて、花音の朝ご飯を作っているのだ。
食パンをトースターにセットして冷蔵庫からマーガリンとジャム、卵とベーコン、昨日切った野菜の盛り合わせを取り出す。卵とベーコンはフライパンへ。野菜はお皿にそのまま盛りつける。ゴマと青じそのドレッシングを用意して、テーブルに並べる。
朝ご飯の用意が出来たところで部屋へ戻り、花音を起こす。
「花音。起きろ。朝だぞ」
「うにゃ……」
花音に声をかける。しかし案の定小さく呻くだけで起きる様子はない。
「まったく。いつになったら一人で起きられるようになるんだか。……まあ、その前に一人で寝られるようになることが先か」
まだまだ甘えん坊な妹に苦笑を漏らす。気持ちとしてはこのまま寝かせてあげたいけど、そうもいかない。心を鬼にして、布団を引っ剥がす。
「花音。起きないと、にーに先に行っちゃうからな」
言った途端、花音がパチッと目を覚ました。
「それはいや~……」
舌っ足らずな声を上げて、花音は体を起こした。まだ眠いらしく、動きは緩慢だ。「ん」と花音が両手を広げてきたので、抱え上げて床に立たせた。可愛らしいピンク色のパジャマがぐちゃぐちゃだ。
「はい。着替え。顔を洗ってきな」
「はあい」
花音は目を擦りながら服を受け取り、おぼつかない足取りで部屋を出ていった。それを見届けて俺もリビングへと戻る。牛乳をレンジで温めて、そこにハチミツを入れてかき混ぜる。パンにはいちごのジャムを塗り、サラダにはゴマのドレッシングをかける。
「にーに、おはよー」
準備ができたところで、ちょうど花音がリビングへとやってきた。目が覚めたようで、その手にはランドセルがあった。
「おはよう。今日はパンだぞ」
「いちごのジャム?」
「ちゃんと花音の好きなヤツだよ」
花音が「わあい」と喜びに手を挙げてから、椅子に座る。
「服を汚さず食べるように」
「がんばる」
三日に一回は汚すので、去年あたりからこう言うようになったのだ。小さくため息をつく。
「にーにも準備してくるから、ご飯食べたら歯ブラシするんだぞ」
「ふぁーい」
返事を聞いてからエプロンを外して洗面所へ。まずはコンタクトからだ。
瞼を開いて固定し、透明で薄いレンズを指先に乗せ、目の中に入れる。降りて来る瞼に何度か邪魔されつつも、なんとか装着に成功し、目をパチパチとする。流れる涙を拭い、次は髪のセット。昨日の帰り際に買ってきた寝癖直しを髪に吹き付け、櫛を通す。
「こんなもんでいいかな……」
自分では昨日までと一昨日までで、そこまで変わったように思えないからよく分からない。とりあえず寝癖は全て直したし、いいだろう。
最後にうざきの髪留めをつけて完成だ。
「かわいい……」
うさぎが。
リビングに戻ると、まだ花音はテーブルについたままだった。花音の隣に座り、少し冷えてしまったトーストにマーガリンを縫って齧り付く。
「花音。今日は何時頃帰ってくる?」
「んーと。四時かなあ。るるちゃんと遊ぶの」
「遊ぶのに四時に帰ってくるのか? もう少し遊んでもいいんだぞ」
「んーん。にーにとも遊びたいの」
遊ぶと言っても、いつも花音は俺の上に乗ってるだけのような……。それで花音が満足しているならいいけど。
「あーもうほら、ジャムがついてる」
「んふふ」
「なんで笑ってるんだよ」
近くにタオルがなかったので、人差し指でジャムを取って口に含んだ。いちご味。
「しんこんさんみたいだねっ」
唐突な発言に吹き出しそうになった。
「どこでそう言う言葉を覚えてくるんだ……」
「るるちゃんが教えてくれるの」
「るるちゃんとはそのうち一度話さないといけないな……」
できればその両親とも話をしたい。いちゃつくなら子供が見ていないところでしろ、と。
「ごちそうさまでした」
花音が手を合わせて椅子から飛び降りる。俺も食事が途中だったけど、花音の方が家を出るのが早いため、手伝うことを優先する。
洗面所で歯ブラシをする花音の後ろで髪を梳く。
「ちゃんと奧も磨くんだぞ」
コクコクと頷く。髪は両サイドをゴムで留め、ツーサイドアップにする。花音のお気に入りの髪型だ。
歯ブラシを終えたらリビングに戻り、ランドセルを背負って玄関へ。
「にーに、いってきます」
「いってらっしゃい」
手を振って花音を送り出す。これでやっと一息つける。っと、今日は早く来いってかなたに言われてたんだっけ。
ゆっくりする時間はないらしい。すぐに食器を流しへ持って行き、軽く水洗いして食洗機へ。脱衣所へ移動して、予約設定していた洗濯機から洗い終えた洗濯物を取り出して庭先に干した。今日は晴れているからよく乾くだろう。
朝の家事を終えて伸びをする。いつもならこの後に休憩を入れるのに、かなたのせいでもう出なければならない。
「行くか」
肩をトントンと叩きながらカーディガンを着て鞄を持つ。
リビングを出て、玄関へ向かう廊下の途中、何気なく振り返って、とあるドアを見つめる。
そこは両親の寝室。中から物音はしない。まだ二人は寝ているのだろう。昨日が日曜日で会社が休みだったとしても、染みついた生活習慣のおかげで出社ギリギリの時間まで寝ている。
寝癖がないか髪を触る。大丈夫。
踵を返して玄関へ。ローファーに足を突っ込み、無言で家を出た。
◇◆◇◆
「あ、千尋。おっはよー」
教室へたどり着くと、中にはかなたしかいなかった。椅子に座らず、机に腰を下ろして足をぶらぶらと揺らしている。
「おはよう」
「うんうん。ちゃんと髪も整えて、コンタクトもしてきたんだね」
満足げにかなたが俺を見て頷く。
「じゃあ、行こうか」
「どこへ?」
かなたが机から飛び降り、俺の手を掴む。
「まだ誰もいないからここでもいいんだけど、一応ね」
俺の手を引っ張って教室を出た。廊下を奥へと進み、最奥の突き当たりにある空き教室に入った。
「それじゃ、ちょっとスカート見せてもらうね」
「ああ、うん」
そうか。スカートを弄るって言ってたな。教室じゃいつ人がやってくるか分からないもんな。
かなたの行動を理解して、セーラー服と中のキャミソールをたくし上げる。と、腰のあたりを探っていたかなたがビクッと体を震わせて、その動きを止めた。
「ち、千尋。上はそのままでいいからっ」
「そうか?」
手を離す。何故か、かなたの顔は赤くなっていた。
「やっぱり。千尋、スカートを穿く位置が下過ぎるよ」
「穿く位置?」
「うん。もっとこう、上に」
かなたがスカートのウエスト部分を両手で持ち、胸の下近くまで一気に上げた。
「そ、そんなところまで上げるのか?」
「うん。本当は切っちゃう方がいいんだけど、一之宮でもたまーに抜き打ちで制服検査があるからね。スカートを切るわけにはいかないんだよ」
「は、はあ……」
よく分からず、曖昧に返事する。それで察したらしいかなたが補足を入れる。
「スカートはね、人にも物にもよるんだけど、男子みたいに腰で穿くんじゃなくて、もうちょっと上のおへそのあたりで穿くんだよ。千尋は腰で穿いてたから野暮ったく見えちゃってたんだよね」
「おへそって、今全然それより上じゃないか」
「うん。折るからね」
そう言ってスカートのウエスト部分を内側に折り始めた。一回、二回と折り、位置を調整する。
「長さは……これくらいでいいかな」
かなたはポケットの中からベルトを取り出した。伸縮性のあるゴム製のベルトだ。それを折ったところから十センチ下あたりに巻き、ぎゅっと締め付けて固定した。
「はい。出来上がり」
かなたが俺から離れ、教室の隅にあった姿見を持ってきた。
鏡に映る俺のスカートは見事にその丈を短くし、かなた程ではないが、裾の位置が膝から結構上にまで来ていた。ベルトで締めたところや折ったところはセーラー服の中なので見えない。
「どう? いいでしょ」
たしかにかなたの言う通り、前よりも垢抜けたように思える。ちょっとスカートを短くしただけなのにこうも違うのか。……ちょっとと言っても、ここまで脚を出したことがないから充分恥ずかしいのだけど。
「これでクラスのみんなもメロメロだねっ」
「かなた、それ古い」
「がーんっ。同い年に古いって言われた……」
わざとらしく口元を押さえて近くの机に手をついた。と、思ったらすぐに復帰して、
「これで学校のみんなもイチコロだねっ」
言い直した。しかも規模が大きくなった。そしてやっぱり古い。
「何言ってんだか。ちょっと見た目が変わっただけで、みんなの俺を見る目が変わるはずないって」
「ふふん。まあ、すぐに分かるよ」
意味深に笑みを浮かべるかなた。その自信はどこから来るのか。
「はいはい。時間もあまりないし、そろそろ戻ろう」
一蹴して空き教室を出る。あとに続いたかなたを隣にして、教室へと戻った。
◇◆◇◆
結論から言うと、変わりました。ええ、それはもう一八〇度に。コイツら全員中身入れ替わったんじゃないかと思うぐらいに俺を見る目が変わりましたよ。
「千尋さん? 千尋さんなの? 本当に千尋さん?」
「千尋ちゃんどうしたの!? 凄く綺麗になったねー」
香奈恵さんと紫苑さんが目を丸くしている。
「君、比与森さん? うわっ。気付かなかったよ」
今まで一度も話したことのない男までもが声をかけてきやがりましたよ。注目度も登校初日と同じかそれ以上。どうしたみんな。
「言ったでしょ? 千尋が可愛くなったからだって」
休み時間。変わり果てた周囲の反応に気分を良くするかなた。今も向けられる幾つもの視線に寒いものを感じながら、周りに聞かれないようかなたに耳打ちする。
「そんなに言うほど変わってないだろ……」
「いやいやいや、ぜんっぜん違うから。ドラマとかでもあるじゃない。地味で目立たない女の子が、ある日を境に眼鏡を外して髪を解いたらモテモテになったって話。あれだよ」
ああなるほど。分からん。
「なるほど、分からんって顔しないの!」
「心を読むなって。つまり俺は地味で目立たない女だった、と。……ハッ。俺を女って言うな!」
「そこには反応するんだ」
かなたが苦笑する。
「例に挙げただけだよ。千尋は地味でも目立たなくもなかったしね」
そりゃ登校拒否していたのだから、悪目立ちをしていただろう。
「元が良かったのに、千尋がそれを隠していたから、みんな気付かなかったんだよ。まっ、僕は気付いてたけどねっ」
「……ふーん」
気付いてた。その言葉がなんとなく嬉しくて、それを悟られないよう素っ気ない返事をした。
そういえば昨日のアレも、今思えば俺は嬉しかったのかもしれない。あの時は驚きの方が大きかった。
「明日から大変かもね」
周囲に視線を巡らせながら、かなたはポツリと言った。
「明日?」
「そっ。明日」
「どういう意味だ?」
「明日になれば分かるよ」
かなたはそう言うだけで、詳しくは教えてくれなかった。