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俺達は爆発します?  作者: 本知そら
10/12

最終章 素直になればいい 上

「おはよう、千尋」


 背中から声をかけられて振り返る。新聞を片手にボサボサの髪を掻き毟る父さんが欠伸をかみ殺していた。


「おはよう、父さん」


 なんともだらしのない格好だ。パジャマ姿のままキッチンに立つ俺も人のことは言えないのだけど。実は今日、少し寝坊したのだ。


「今日の弁当はなんだ?」

「クリームコロッケ」


 そう言って視線を戻す。焦げないように菜箸で油の中に浮くコロッケを転がす。


「ほー。お父さんの好きな食べ物じゃないか」


 だから作ってるんだよ。とは言わずに「へー」とだけ答える。


「おはよう千尋。何か手伝えることある?」


 続いて母さんがリビングにやってきた。こちらは既に身だしなみを整えていて、あとはスーツに着替えればいいだけのようだ。


「いいよ。ゆっくりしてて」


 もうこのコロッケを揚げ終えれば、後はお弁当箱に詰め込むだけだ。きつね色になったコロッケを油の中から取りだして、そのうちの一つに竹串を突き刺す。よし、中まで火は通ってる。


「上手に出来たわね。お母さんのより綺麗だわ」

「そんなことないって。……味見してみる?」

「いいの? ありがとう」


 揚げたてのクリームコロッケをお皿に乗せて、お母さんとお父さんに一つずつ渡す。


「熱いから気をつけて」


 母さんと父さんが受け取ったコロッケを頬張る。サクッと衣のいい音が聞こえる。


「旨いっ」

「美味しいわ。衣もサクッとしてて」

「……それなら良かった」


 褒められたことがくすぐったくて、素っ気なく返事してしまう。


「これならいつお嫁に行ってもいいわね」

「よ――」

「嫁だとっ!?」


 俺よりも父さんが反応した。椅子から立ち上がり、テーブルを叩いた。


「ち、千尋。もしかしてお前……っ!?」

「い、いるわけないだろ! こんな俺なん――」


 と、その時脳裏にかなたの姿がよぎった。

『僕が千尋のことを好きだからだよ』

 ……。


「あら、千尋どうしたの? 顔が真っ赤よ」

「へっ? な、なんでもない! そうだ花音起こしてくる!」

 熱を持った頬を手の甲で冷ましながら、逃げるようにしてリビングを後にした。



 母さん達と仲直りしてから一ヶ月。関係は良好。学校での騒ぎも沈静化しつつあり、全てが順調に進んでいた。

 ただ一つ。新しい悩みを抱えてしまったことを除けば。


 ◇◆◇◆


「おーい、陸ー」


 二限目を終えての休み時間。俺は五組の教室へとやってきていた。うっかり教科書を忘れてしまったので、陸に借りに来たのだ。

 他クラスの教室に入るのはダメらしいので、入口から陸を呼ぶ。あまり目立つのは宜しくないけど、時間もないので仕方ない。


「おい陸! めっちゃ綺麗な子が呼んでるぞ!」

「誰だよコラッ。彼女か!?」

「いてっ。ちげーよ!」


 何故か陸が弄られている。教室の外だから中の声までは聞こえない。


「どうした千尋?」


 やってきた陸の髪はもみくちゃにされてぐしゃぐしゃになっていた。


「現国の教科書を忘れたから、貸してくれ。どうせ全部学校に置いてるんだろ?」

「ああ。ちょっと待ってくれ」


 陸は一度教室の中に戻り、すぐに戻ってくる。


「これでいいか?」

「ありがと。終わったら返すよ」


 中をペラペラと捲り、何も挟まれていないことを確認する。挟まっていたのを知らずになくしてしまっては後で大変だ。

 教科書を小脇に抱えて、陸の頭に手を伸ばす。身長差があるから結構キツイ。


「ど、どうした!?」

「髪がボサボサだったから」


 逃げようとした陸の腕を掴んで留まらせ、髪を梳いて整える。髪質が固いせいか上手くいかない。


「別にいいって」

「すぐ直すからじっとしてろって……よしオッケー。じゃ、またな」


 軽く手を挙げてその場を離れた。そのすぐあとに後ろから陸の悲鳴が聞こえたような気がするけど……まあ聞き間違えだろう。

 教室に戻るとかなたが深刻そうな顔をして頭を抱えていた。


『僕が千尋のことを好きだからだよ』


 いやいやいや。かなたを見る度に思い出してどうするんだよ。いい加減気にしすぎだ。あの後かなたは笑って、すぐにいつもの会話に戻ったじゃないか。かるーい冗談だったかもしれないんだ。

 そう自分に言い聞かせながら席へと戻る。かなたは気付いていないようで、相変わらずうんうんと唸っていた。


「どうしてかなた?」

「え、あれ、千尋。いつの間に」

「今だよ。で、どうしたんだ? なんか悩んでいたようだけど」

「んー……。さっきバイト先から電話があってね。店長がシフトを間違って、今日の人手が足りないんだって。僕に言われても困るんだけどなー……」


 かなたは頬杖をついて大きくため息をついた。

 以前にも聞いたけど、かなたはファミレスでバイトをしているらしい。どこの担当でどういう格好をしているのかかなり興味がある。


「でも今日は僕が入ってるんだよね。どうせあの店長だと誰か代わりを捕まえるのは無理だろうし、このままだとホールに人が足りなくて大変なことに……」


 バイトも大変なんだな、とバイト経験のない俺が他人事のように考える。他人事なんだけど。

 とその時、かなたが俺を見た。眉間に皺を寄せていた顔に光りが射し、笑顔に変わった。


「そうだ、そうだよっ」

「な、なにが?」


 嫌な予感がする。

 かなたは両手を俺の肩に置き、顔を寄せてきた。近い。


「千尋」

「な、なんだよ」


 触れられた両肩から熱が広がっていく。心拍数が上がって頭がぼーっとしてくる。なんだこれ。風邪かな。

 そんな状態の俺にかなたは満面の笑みを顔に貼り付けて言った。


「バイト手伝って!」

「……は?」


 ◇◆◇◆


 結局代わりの人は見つからず、かなたに頼み込まれたこともあって、一日限りではあるけど、バイトを手伝うことになった。

 かなたのバイト先は学校から少し離れた県道沿いにある『ファミリーレストラン ネコノン』だった。全国にチェーン展開する安さと早さがウリの有名店だ。ちなみに味はそれでもない。


「えー。ほうれん草のソテーはおいしいよ?」

「それサイドメニューじゃないか」

「あとコーンポタージュ」

「それも同じ」


 休憩室と書かれてドアの奧の部屋で店長を待つ間、かなたと店のメニューについて話して時間を潰していた。結局はサイドメニューはいいけど主となるメニューはどれも微妙ということで落ち着いた。


「ごめんね待たせちゃって」


 数分後、ドアを開けてやってきたのは腰の低い、優しそうな男の人だった。


「比与森千尋ちゃん、だっけ。今日一日だけだけど、よろしくね」

「こちらこそ。何も分かりませんがよろしくお願いします」


 ペコペコと頭を下げる店長を見て、「ああ、この人じゃ人集めは無理そうだ」とか思ってしまった。いい人そうではあるんだけど。


「それじゃあ比与森さんにはホールをお願いするよ。制服はこれね。分からないことがあったら、かなたちゃんに聞いて」


 そう言うと店長はお店に戻っていった。本当に人手が足りないようだ。


「ということなので、僕に何でも聞いてね」


 胸を張るかなた。その手には俺と同じデザインの制服がある。


「なるほど。やっぱりそっちだったか。ちなみに店長はかなたが男だって事は?」

「もちろん知ってるよ」


 い、いいのかそれで。一日限りの俺が言える立場じゃないけど、さすがにこれはダメな気がする。


「女子更衣室はそっちだから。それじゃ」


 かなたは当たり前のように男子更衣室に入っていった。それに違和感を覚えつつ、女子更衣室に入った。

 中は縦長のロッカーが並んでいるだけだった。奧のロッカーが空いていたので、そこを使わせて貰うことにする。

 学校の制服を脱いで、鞄と一緒にロッカーにしまう。代わりに店長から受け取ったこのお店の制服を手にとって広げてみた。


「……なに、このデザインは」


 一言で言うならばメイド服。東京の秋葉原という電気街にあるというメイド喫茶の店員が着るような、フリルがふんだんにあしらわれた動きにくそうな制服だった。ただ、胸や脚が強調されるような過激で今風なメイド服ではなく、どちらかというと黒を基調としたクラシックなデザインだ。そこは好感が持てた。というよりこれじゃなかったら着なかった。


「……これをかなたは着てるって事か」


 そりゃ制服ぐらい朝飯前だと変に納得をする。

 ワンピースなので背中のファスナーを下ろして、頭から被る。ファスナーを上げて、中に入ってしまった髪を出す。エプロンドレスをつけて鏡の前に立ち、飲食業だったことを思い出して、髪をポニーテールにした。

 ……意外と似合ってる?

 鏡に映る自分を見て自画自賛する。贔屓目に見ている分を引いても、長い黒髪とメイド服は似合っていると思う。

 右を向いて、左を向いて、後ろを向いて、前を向く。

 いい感じだと思います。はい。


「いらっしゃいませ」


 鏡に向かって微笑んで練習してみる。ぎこちないながらも、まあ及第点だと思う。今度はもう少し自然に笑ってやってみよう。


「いらっしゃいま――」

「千尋ー。着替え終わったー?」

「――っ!?」


 外から聞こえたかなたの声に血の気がサッと引く。

 ……もしかして、聞かれてたりしないよな?


「千尋ー?」

「い、今行く!」


 慌ててロッカーを閉めて、更衣室の外へ。そこには既に店の制服に着替えたかなたがいた。案の定似合っててもう何も言えない。


「わわっ、千尋凄く似合ってるよっ」

「あ、ありがとう。かなたも似合ってるよ」

「へへー。でしょ?」


 かなたがスカートをつまんで体を横に傾ける。相変わらずの高い女子力。かなたを見て誰が彼を男だと思うだろうか。


「じゃ、さっそく教えるから、ホールに行こうか」

「よ、よろしく」


 スカートを翻して颯爽と歩きはじめる。女の子にしては高い身長のせいで余計凜々しく見える。


「あ、さっきの『いらっしゃいませー』は良かったよ」

「聞いてたのか!?」


 穴があったら入りたい。


 ◇◆◇◆


「これで一通り教えたかな。まあ伝票やらは難しいから、注文は僕が受けるよ。千尋はお水とか料理とか片付けをお願い」

「おーけー」


 簡単に仕事のレクチャーを受けること十分。夕方になり、店内も混んできたのでさっそく実践に移ることになった。


「とりあえず笑ってれば良いから。笑ってればお水を頭からかけても、千尋ならきっと許してくれるから!」


 いや、それはさすがに許してくれないと思う。

 ホールには俺とかなたと店長の三人だけ。しかも俺は急遽手伝うことになった素人バイトなので実質二人だ。少しでも二人の負担を減らせるよう頑張ろう。


「……内向的だった千尋がバイトをするなんて、お姉さん嬉しいよ」

「かなた、そんなところでなにしてんの……」


 何故か少し離れた柱の陰に隠れて、目元にハンカチを当てている。


「ん? 暇なうちに遊んでおこうかなって」

「店長さん、凄く忙しそうなんだけど……」

「いいのいいの。それで回ってるうちは忙しいうちに入らないから」


 ……日頃の店長さんの立ち位置が分かった気がする。


「とりあえず、次のお客さんは千尋が案内してみて」

「分かった」

「何かあったらすぐ駆けつけるように、後ろでずっと見てるから安心して」


 本当に本格的に忙しくならないと店長を助ける気はないらしい。店長も何も言わず動き続けてるから了承済みなのか?

 思案していると入店を知らせる電子音が鳴った。すぐさま入口へと向かう。

 お客は大学生くらいの男三人だった。


「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「三人です」

「お煙草はお吸いになりますか?」


 お煙草にお吸いって、「お」が重なってなんか変だな。


「吸わないです」

「禁煙席ですね。ではこちらへどうぞ」


 笑顔を常に意識して接客する。頬の筋肉がピクピクするけど我慢だ。


「こちらへどうぞ。すぐにお水をお持ちします」


 一礼してその場を離れる。よし、噛まずに最後までできた。合格点だろう。意気揚々とかなたの元へと戻る。


「千尋。完璧っ」

「だろっ」


 腰に手を当ててふふんと鼻を鳴らす。元引きこもりでもこれぐらいのことはできるのだ。


「じゃ、後は任せて。たぶんあのお客さんならお水持っていってすぐ注文くるだろうから」

「へー。そういうことも分かるのか。長年の勘?」

「ううん。あのお客さん、このお店に良く来るから覚えちゃった」


 そういうことか。あれは定期的にこのお店を理由する固定客というやつだ。特に大学生はサークルやらで仲間と集まることが多いから、利用頻度はさらに高いのだろう。

 お盆にお水を載せたかなたが彼らの元へ向かう。と、三人組の表情が明らかに変化した。かなたの言っていた通りすぐに注文を始めたようだけど、何やら時間がかかっている。というより、メニューよりもかなたのことを見ている。

 もしやアイツら、かなた目当ての客か? しかし残念。ソイツは男なのだ。いくらかわいいとおだてても、綺麗だと言ってかなたを喜ばせても、所詮かなたは男なのだ。君達と同性なのだ。アイツらに教えてやりたい。ソイツは男なのだと。その時アイツらはどんな顔をするのだろう。試してみたいなあ。


「ち、千尋。なんて顔してるの?」

「ん、あれ、かなたいつの間に戻ってきた?」


 隣にいたかなたを見上げる。微妙に顔を引きつらせているのは何故だろう。まあいいか。


「ビール淹れるから、それをさっきのお客さんに持っていって貰って良い?」

「いいよ」


 ふふふ。アイツらの残念そうにする顔が目に浮かぶ。

 ……ん、ビール? ってことはアイツら最低でも二十歳なのか。こっちは十六歳だぞ。ロリコンめ!


「はい。それじゃこのビール持っていって……って、また千尋、変な顔してる」


 変な顔とは失礼な。これはアイツらを蔑んでる顔だ。

 そうこうしていると本格的に人の波がやってきて、あっと言う間に店内は一杯になってしまった。俺のフォローをすると言っていたかなたも「ちょっと今からは見てられないかも」と言って、忙しそうにホールと厨房を小走りで行き来している。店長なんて倒れるんじゃないかと言うぐらいにヘロヘロになりながらも働いていた。一番下っ端のように見えてならない。

 俺はといえば当初の予定通り手伝える範囲で二人のサポートをしていた。お客の出迎えやお水を持っていったり、テーブルの片付け。伝票を打てれば良いのだけど、メニューを把握していないから出来ない。歯痒くなるが仕方ない。今の仕事を精一杯するしかないのだ。

 怒濤のゴールデンタイムが過ぎ去り、ようやく店内は落ち着きを取り戻した。店長は休めばいいのに「こういうときこそ僕が頑張らなくちゃいけない」と今もせっせと動き回っていた。

 そしてかなたはと言えば……


「じーっ」


 さっきからずっと俺を監視していた。

 ポーンとお客さんが来たことを告げ、すぐさま入口へ行って出迎える。板についた営業スマイルで家族連れを禁煙席へお連れする。もう慣れたものだ。


「すっかり成長しちゃって。お姉さん嬉しいわ」


 誕生日、俺の方が早いんだけど。いや、そういう問題じゃないか。そもそもお姉さんではないし。性別的な意味でも。

 グラスに水と氷を入れてお盆に載せる。


「大丈夫? 腕、疲れてない?」


 心配そうに送られてくる視線と声。ジッと見つめられているとやりづらいんだけどな……。

 ため息をついてから気合を入れ直し、お客の元へ。お水を配って一礼、その場を離れ、店長に視線で合図する。入れ替わりに店長がメニューを持ってやってきた。


「千尋。お客さんにいちゃもんつけられなかった?」

「ないよ」


 過保護っぷりに苦笑が漏れた。

 その後さらに二時間ほど働いたところで深夜のシフト組がやってきたので交代することになった。


「今日は本当にありがとう。助かったよ」


 髪が乱れまくった店長がまたもやペコペコと頭を下げた。バイト代として貰った封筒を覗くと、あまりにも仕事内容と釣り合わないお金が入っていた。


「あの、これはちょっと貰いすぎだと思うんですけど」

「そんなことはないよ。君がいてくれたから乗り切れたんだしね」


 ありがとう。また何かあったときは頼りにするかもしれない。店長はそう言って送り出してくれた。


「十一月にもなると、夜は寒いね」

「暦の上でも、来月にはもう冬だもんな」


 かなたとファミレスを出て家路を急ぐ。外は真っ暗で、街灯の明かりが行く先を照らしている。はあ、と息を吐くと白いもやが出来て、寒さを物語っていた。


「手、寒そうだね」

「うん」


 両手を合わせて息を吹きかける。水仕事をしたせいもあって指先が冷たい。


「手、繋ごうか」

「うん。……へ?」


 振り向いた時には既に手を握られていた。かなたの大きな手は俺の小さな手を包み込む。かなたの体温が繋がった場所から流れ込んできて、暖かかった。


「千尋の手、小さいね」

「女だからな」

「小さくて、かわいい」

「……ありがとう」


 かわいいと言われて素直に喜べるようになったのはいつからだろう。


「あれ、かなたの家はあっちじゃないのか?」

「もちろん送るよ。女の子なんだからね」


 女の子扱いされても腹を立てなくなったのはいつからだろう。

 どっちもかなただ。かなたのおかげだ。あの時かなたがお弁当を作ることを提案してくれたから、俺は今の俺のままでもいいと思えるようになったのだ。

 横目でかなたを見上げる。街灯に薄明るく照らし出される彼は、女の子にしか見えないのに、傍に居ると自然と安心できた。

 外は冷たいのに、握った手と心はとても暖かかった。


「おっと」


 突然かなたが俺を抱きしめた。不意打ち過ぎて声も出ず、一度だけ体を震わせた。


「まったく危ないなあ。自転車で無灯火だとホント見えないっていうのに。千尋、大丈夫?」

「う、うん。大丈夫」


 うるさいぐらいに鼓動する心臓を胸の上から押さえつける。なんで抱きしめられただけで緊張してるんだ俺は。

 自転車が通り過ぎたあとも、かなたは動こうとしなかった。早鐘を打っていた心臓も次第に元に戻り、落ち着きを取り戻した。冷静になればかなたの体はとても暖かくて、居心地が良かった。


「ねえ、千尋」


 俺を抱きしめたまま、かなたが名前を呼ぶ。


「千尋は誰か好きな人はいる?」

「突然何を――」


『僕が千尋のことを好きだからだよ』


 またあの時の言葉を思い出す。告白と言ってもいい、かなたの言葉。顔が一瞬にして熱を持つ。


「……いない」

「じゃあ、僕のことはどう思ってる?」

「どうって……」


 視線を上げて、かなたの顔を見る。その表情に笑みはなかった。


「嫌いじゃないよ。好きか嫌いかだったら、好き、だと思う」


 今の精一杯の言葉で正直な気持ちを伝える。自分自身、人を好きになったことがないのでよく分からなかった。


「一ヶ月前のこと、覚えてる?」


 無言で頷く。


「あの時の言葉。今もそれは変わらないよ。僕は千尋が好きだ」


 静かになっていた心臓が再び早鐘を打つ。かなたの顔が見ていられなくて視線を下ろした。


「な、なんで俺なんか……」

「一目惚れだった。あの時、待ち合わせした時、千尋を見た瞬間に好きになったんだ。だから一緒に居たくて、なんとか学校にきてもらおうとあんな約束をしたんだ」


 一目惚れって、あの時の俺を見て? まさかそんな。あの時の俺は上下ジャージで髪ボサボサの酷い格好をしていたじゃないか。


「あの時の千尋も可愛かったよ」

「……また心を読んだのか」

「千尋の考えていることは分かりやすいから」


 かなたが笑う。


「単純で悪かったな」

「あはは。ごめんごめん」


 俺の頭に手が乗せられ、優しく髪を撫でつける。しばしの沈黙。それからゆっくりとかなたは言った。


「別に今すぐ答えを求めてるわけじゃないんだ。僕は待つよ。千尋は答えを見つけたら、いつでも僕に言って」


 かなたが体を離し、俺の目を見て微笑む。


「ただ、僕は今でも千尋のことが好きだと言うことを知っておいてほしかったんだ」


 ……男だ。やっぱりかなたは男なのだ。

 見た目がどれだけ女の子でも、その目に宿った強い意志は男だった。

 俺はどうなんだろう。女として、かなたをどう思っているのだろう。好きなのか、そうではないのか。友達としてなのか。そうではないのか。まだ分からない。どれも確実とは言えない。

 いつか俺はちゃんとした形でかなたに伝えることができるのだろうか。


「遅いし、早く帰ろうか」

「……うん」


 かなたのためにも、その日が早く来れば良いなと思った。

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