プロローグ
風が涼しくなり、半袖で出歩くことが難しくなってきた十月のとある日曜日。俺は駅前にある公園で人を待っていた。
「……気持ち悪い」
背の高い花壇に背中を預けて座り込み、誰ともなく呟いた。こんなに気分が悪くなったのはいつ振りだ? まさか人の波を見ただけで酔うとは思わなかった。S字カーブの連続する山道を車で下った時に匹敵する嘔吐感。俺の顔はさぞ青ざめていることだろう。久しぶりに外出した結果がこれだ。社会不適合者のレッテルを張られたようで、さらに気分が悪くなる。
「うっ」
こみ上げてくる嘔吐感に慌てて下を向き、口元を押さえる。眼鏡がずれて地面に落ちた。
待て、早まるな、俺の胃。ここでリバースするのはさすがにヤバイ。名も知らないその他大勢にお食事時にはとてもとてもお見せできない物体を披露することになるんだぞ。一生分のトラウマを心に刻み込んでもいいのか?
そう自分を鼓舞し、今まさに喉元までせり上がってきた異物をゴクリと飲み込み、元あった場所へと押し返した。ギリギリセーフ。
座り込んだ拍子に落ちてしまった眼鏡を拾ってかけ直し、胃酸の苦さに顔をしかめる。口の中がイガイガする。ゆすぎたい。水でも買ってこようか。いや、この人混みの中を縫って、無事自販機までたどり着く自信がない。ここまで来るのだってかなり苦労したんだ。諦めよう。
顔をしかめたまま、携帯で時刻を確認する。待ち合わせの十五時まであと二十分。少し早く来すぎてしまった。いくら頭にきていたからって、勢いのまま外出するとは。自分の事ながら、よくこんなところまで来られたもんだ。おかげで今は激しく後悔しているわけだけど。
「あの、大丈夫ですか?」
ふいに頭上から声が降ってきて、ビクッと体を揺らす。
俯き、フードを深く被っているせいで視界が狭い。見えるのは細い脚と靴だけ。誰かが前にいた。
……い、今のは俺に言ったのだろうか。俺は声をかけられてしまうような外見なのだろうか。公園の隅で座り込んで嗚咽する人。あぁ、うん。お人好しであれば声をかけそうな気がしないでも。いやしかし今時他人に来やすく声をかけるなんて、ましてや俺みたいな不審者に。自分の命を危険に晒すようなものじゃないか。……それはさすがに考えすぎか。
「えっと……」
俯いたまま逡巡していると、再度同じ人のものと思われる声が降ってきた。それは困惑の色を滲ませていた。
おそるおそる顔を上げる。そこには心配そうに俺を見つめる一人の少女がいた。
髪は肩にかかるくらいの長さで、色はライトブラウン。左側だけ結んで後ろに流している。くりっとした大きな目は愛らしく、笑えばさぞかわいいだろう。パーカーにスカートという出で立ちの彼女は、街を歩けば誰もが振り返るであろう可愛らしい女の子だった。ぶっちゃけると、俺の好みだった。
「苦しそうですが、大丈夫ですか?」
彼女が僕の瞳をまっすぐに見つめて、言う。
「へ、平気です」
視線を逸らしつつ応える。知らない人と面と向かって話すなんて久しぶりだったからどもってしまった。フードをぐいっと引っ張って、こっそり少女を見上げる。彼女は安心したようにほっと息をつき、「良かった」と薄く微笑んだ。
想像通り、笑う彼女はとても可愛らしかった。
「待ち合わせですか?」
「その、えと、は、はい」
「実は僕もなんですよ」
クスッと笑う。何が可笑しかったのだろうか。いやそれより、『僕』か。少し意外だったが、それはそれで彼女に合っているような気がした。
少女は俺の隣で人を待つようだった。隣に移動すると花壇にもたれかかり、鞄から取り出した携帯を弄り始めた。
ジロジロ見るのも失礼だと、彼女から目を離し、俯いて視線を前に向ける。見えるのは二ヶ月前に整備されて綺麗になったという公園と、大勢の人々の脚。彼らは早足に俺の視界を横切っていく。ずれたメガネを直して、もう少しだけ顔を上げる。鮮明になった視界で道行く人々の顔を覗き見る。休日だから家族連れや友達数人の集まり、そしてカップルらしき男女のペアが多い気がする。みんな楽しそうだ。リア充爆発しろ。
黒い感情をぶつけつつ、再び携帯を取り出す。あれから結構経った気がするのに、時計は十分しか進んでいなかった。憂鬱だ。こんなところ早く離れたいのに。離れて、家に帰ってゲームがしたいのに。
ここへ来た理由なんて、吐きそうになったあたりからどうでも良くなっていた。すでに頭の中では家に帰ってからの俺の行動がシミュレートされている。まずはアイテムを整理して、鞄の中をからに。それから街の依頼所でクエストを受けて……。
あーもう早く帰りたい。人を待つなんて時間の無駄だ。もったいない。こうなったのも全部アイツのせいだっていうのに、どうして来ないんだよ。普通待ち合わせの数分前には来るものだろ。なにしてるんだよアイツは。
苛立ちが募る。周囲を見回してもそれらしい人はいない。これだったら何か目印でも決めとくんだった。今更ながら後悔する。
一時間前を思い出す。
いつものように自室に引きこもっていた俺は日課となっているネットゲームをやっていた。ジャンルはMMORPG、訳せば大規模多人数同時参加型オンラインRPGと呼ばれるものだ。簡単に言えば、一つの仮想空間に世界中のプレイヤーがネット経由で参加するロールプレイングゲームだ。
MMORPGは多くのゲーム会社から発売、運営されているが、その中で俺がプレイしているのは、先月サービスが始まったばかりで、今話題のリフレインオンラインというゲームだ。
美麗なグラフィック、壮大なストーリー、バランスの取れたシステム、実際に自分がそこにいるようなリアルさ。サービス前に行われたベータテストの段階で既に世界中のユーザーから高評価を受けたそれは僅か一ヶ月という早さで国産オンラインゲーム中、過去最大の会員数を誇る超人気タイトルとなった。
ベータテストから参加している俺は日がな一日このゲームに没頭している。生活の中心がリフレインオンラインと言っても過言ではないくらいに。そんな俺がゲームを放り出してまで人混みの真っ只中へ来たのは、もちろんゲーム絡みでのことだ。
それは些細なことだった。同じギルドに所属するプレイヤーと口論になったのだ。
『これからの盾役は敵の攻撃を回避する侍だよな』
雑談の最中。俺が何気なく発言したところ、すかさずアイツが反論した。
『そんなことはない。盾役としては騎士の方が良いに決まっている。安定感が違う』
騎士のアリエスが異議を唱えてきたのだ。
アリエスとは、リフレインオンラインをプレイする前にやっていた別のネットゲームからの知り合いであり、現実世界で家族以外と接点のない俺にとっては唯一無二の友人だ。
何気ない一言だったけど、カチンとくるものがあったらしい。自分がプレイする職業だからなおさらだったのかもしれない。
しかし、俺だって何も根拠なく言ったわけじゃない。実際騎士よりも侍の方が盾役をした方が楽に倒せるボスがいるのだから。
そんなわけで俺の方からもアリエスに言い返した。アリエスもさらに異論を唱え、次第にヒートアップ。元々仲が良かった者同士ということもあり、遠慮なく口論を続けた結果。
『直接会って話し合おう』
そう提案してきたアリエスに、俺は勢いのままに了承してしまった。以前、みんながどのあたりに住んでいるかという話になり、その時にお互いが同じ街に住んでいるということを知っていたからだ。
前々からアリエスは俺と一度会ってみたいと言っていたから、そのついでにと思ったのだろう。冷静になった今ならそう思う。俺はこの通り引きこもりだったから毎度その申し出を断わっていた。しかし今回はダメだった。頭に血が登ったり切羽詰まってしまうと、後先考えずに突っ走ってしまう俺の悪い癖が出てしまったのだ。あの時の俺の馬鹿。
早いほうが良いだろうと、ちょうど日曜日ということもあり、一時間後に駅前で待ち合わせをすることになった。
そして現在に至る。
「遅い……」
十五時を過ぎてもアリエスは来なかった。ゲーム内での待ち合わせはいつも時間通りにきていた彼だけに意外だった。
周りを見回してもそれらしき男はいない。とは言え、彼とはネット上の交流があるだけで、実際に会ったことはない。だから彼がどんな外見かなんて、会ってみるまでは分からない。実はもう近くに来ていて、俺を探しているのかもしれない。
「遅いなあ……」
隣の少女も待ち人が来ないらしい。携帯に目を落とし、ため息をついている。
俺はともかく、こんなにかわいらしい女の子を待たせるとはどこのどいつだ。来たら一言……は無理か。チラッと一瞬だけ気付かれないように睨んでやろうそうしよう。
なんてことを考えていたら彼女と目が合った。彼女が苦笑を漏らす。
「お互い来ませんね」
「そ、そうですね」
たったの一言で頭がこんがらがる。引きこもり生活が長引いたせいだ。
しかし時間を過ぎても来ないというのは、もしかして彼に何かあったのだろうか。まさかすっぽかされた? いや、彼はそんなことするような人じゃないし……。
「あれ、それは……」
少女が俺の手元を覗き込む。そこにあるのは俺の携帯。一年前に買ったスマートフォンだ。発売当初は多機能さが評価され人気を博したが、のちに発熱量の凄まじさがネットを通じて広まり、結果それほど販売台数を伸ばせなかったかわいそうな携帯だ。
少女が食い入るように見つめる。時間を見ていただけなのでアプリは起動していない。アプリのアイコンが並ぶ、どこにでもあるホーム画面だ。違うと言えばその壁紙に、リフレインオンラインのギルドメンバーが並んだスクリーンショットを使っていること。見た感じ彼女はこの壁紙に反応したようだ。プレイヤーだろうか。
「まさか君……シンシア?」
ドクンと心臓が跳ね、すぐさま彼女に目を向ける。
シンシアとはリフレインオンラインでの俺の名前。俺が操作するキャラクターの名前だ。
驚愕し、人見知りなことも忘れて彼女を凝視する。
俺と同じようにここで待ち合わせをして、このスクリーンショットを見て俺のことをシンシアと言うのなら、彼女は……
「……アリエス?」
驚きに見開かれる目。俺もこんな顔をしているのだろうか。
ゆっくりと立ち上がり、彼女と目線を合わせる。いや、俺の方が少しばかり身長が低いので、見上げる形になる。
と、立ち上がった拍子にフードが脱げてしまった。無理矢理詰め込んでいた髪がはらりと落ち、背中を流れた。ボサボサな髪と、あまり好きではない顔が周囲に晒されることに一瞬嫌悪感を覚えたが、今はそれどころじゃなかった。
「えっ。お、女の子?」
アリエスが俺を見て、呟くように言った。女だと言われたことにカチンときて、反射的に睨む。
……っと、今はそれよりも、だ。
「お前こそ、まさか女だったとは、ね」
俺としてはアリエスが女だった方が驚きだ。いつもの会話とネットを介して伝わってくる雰囲気から、彼を男だと決めつけていた。
誰にでも優しい好青年。ギルドマスターであり、ギルドの中心的存在。それが彼のイメージだった。
「ん。僕が女の子?」
アリエスが自分を指差す。どことなく嬉しそうなのは何故だろう。
「な、なんだよ。女の子って言われるのが嫌なのか?」
「んーん。そうじゃないよ」
アリエスはクスクスと笑いながら、ポケットからカードから取り出し、俺に見せた。
それは生徒証だった。見たことのあるデザイン。しかし、それよりも目を疑う記述を見つけた。
『私立一之宮高等学校 二年三組 立仙かなた』
学校が同じだ。学年も同じだ。もしかするとクラスも同じかもしれない。自分がどのクラスに所属していたかなんて覚えていない。
立仙かなた、か。名前はひらがなで漢字はなし、と……。
いやいやいや。そうじゃない。そこじゃない。重要なのはその下だ。
『性別:男』
そう、そこだ。性別の欄だ。俺の見立てならそこに書かれているはずの文字は女。それなのに生徒証にはしっかりと男と書かれていたのだ。
間違いだろうか? いや、公的機関でも身分証明書として使用できる生徒証が間違えるわけがない。もし間違えていたとしても、四月に生徒証をもらった時点ですぐに修正依頼を出すはずだ。今は十月。つまり――
一つの答えが導き出される。しかしそれはどうしても信じがたいことで、ありえないことだった。
悪いとは思いつつも、生徒証とアリエスを何度も見比べてしまう。
「お、お、お……」
導き出された答え。もちろんそれは言うまでもなく……
「おとこぉぉ!?」
素っ頓狂な声を上げて目を丸くする俺に、アリエスは微笑んだまま、コクリと頷いた。