この手の届かない場所へ
山に住むもの、村に住むもの。
二種の間の壁と、思いと、夢と未来が詰まった、小さな物語。
初の短編です。
ぜひ楽しんでください。
今日も、夢を見たんだ。
最近はよく夢を見る。山林の木陰から、村の人たちを眺める夢。
「…羨ましいな」
私は、彼らには近づけない。近づきたくても近づけない理由が確かにあるから。
「どこに行くの?」
山を降りようとすると、母さんが私に声をかけた。優しい声だ。聞いていて安心する。これが家族の声なんだと思うと私はきっと幸せに違いない、と感じさえする。
「少し山を降りてくるよ」
「そう…気をつけてね」
これは、私の趣味とも言うし、日課とも言う。夢の通り、私はあの村の人々に憧れているんだ。山の中でずっと暮らしていた私にとって、そこは一種の桃源郷とも言うべき場所だった。
「みんな楽しそう」
長閑な夕暮れに見かけた子供たちが、私のお気に入りだった。
私も仲間に入りたい、そんな淡い願望を胸に秘めて、今日も明日も村を眺める。
村の子供たちが、山に入ってくることがある。
私は、彼らに接触してはいけないから、足音を聞いたらすぐに逃げるように、慎重に走り出す。それは母さんも一緒だった。
ただ、私はできることなら顔を合わせたい。「やあ」なんて挨拶だってしてみたいもの。だけど、きっと仲良くはなれない。父さんと兄さんがそうだったから。
「山のものと村のものは、仲良くなれない」というのは母さんが悲しそうにしながら私にずっと言い聞かせてきた言葉だ。それは父さんと兄さんのことからもわかっている。
「…でも」
それでも、私はあの輪に混ざりたいと思ってしまう。ずっとその板挟みの思考と感情の中にいて、それが私の夢の原因なんだろうな、って思う。
昔からの言い伝えらしいけど、私たちの家系は呪われてるとか、私たちは村の人をとって食べるとか、そんな風にあの村には伝わっているらしい。昔のことだから、今の子供たちがそれを信じているか、そもそも知っているかはわからないけど。でも父さんと兄さんが仲良くできなかったのは、きっとそういう言い伝えが今も生きているからなのかもしれないな。
しばらく獣道を歩くと、田んぼが見えるくらい開けたところに出る。木々を背景にして、私は下の様子を見る。今日も人々は道を歩き、自転車を漕ぎ、私に気づかないまま。
確かに、出会わないことがお互いにとって幸せなのかもしれない。私は呪いと称され、彼らはそれに怯えるだろうし。
そんな風に果てのない思考の渦に飲み込まれていたところで、我に返る。パキッ、と枝を踏む音。ああ、嫌だな。こんな時に。
「人…かな」
気配で、何となくわかっちゃうんだ。今一番来て欲しくないお客さんだよ。
「…帰ろ」
そうだ、帰ろう。母さんとお話しよう。父さんと兄さんがいなくなって母さんも悲しかったはずなのに、私を大切にしてくれている。母さんと。
私は素早く、その足音から遠ざかるように逃げ去った。まるでそれが掟として決められたことのように、私を母さんの元へと駆り立てた。
翌日。目を覚ました私は母さんに尋ねたんだ。
「ねえ、どうして私たちは村の人と仲良くなれないの?何か昔に悪いことをしたの?」
母さんは少し難しい顔をして答えた。
「私たちは、昔は神様の使いとか、呪いをもたらすもの、とか言われたの。それで棲み分けができていたし、供物を寄越すくらいだったのよ。あなたは本当にまだ若いから…人と仲良くしよう、って考えるのね。時代の流れかしら」
そう話す母さんは、昔の自分を私に重ねてみようとして、その食い違いに少し苦そうに、笑っているように見えた。
「でもあなたと同じように、村の人々も年月をかけて変わったわ。忌避感が薄れて簡単に触れようとするもの、度胸試しに私たちを脅かすもの、信仰心が薄れ私たちを山の奥へと追い立てるもの…本当はね、人々は昨日みたいに簡単にこの山へ入っては来なかったのよ。昔は特別な行事とか、必要な時だけ許可を取るようにしてこの山に干渉していたの」
知ってたよ。父さんも兄さんも村の人たちに殺されちゃったんだってことは。いなくなった時から知ってた。だって、それ以外考えられないもん。でも私はあんな風に生きてみたいって思った。そうなれなくてもあの人たちと一緒に暮らしてみたいと思ってしまった。
「あなたがいなくなったら、私は悲しむ。だけど、あなたが自分の願い通りに生きてみたいと、希望をかけられるなら、私はそれを尊重するわ。ずっと憧れてたんでしょう?」
やっぱり母さんは私のことをわかってる。父さんも、兄さんも、家族だからかな、理解してかわいがってくれた。死んでしまえば一族の、種のために私はがんばりきれないけど、私が村と山との架け橋になれたらいいな、なんて思ったりする。
村の人のことはいっぱい観察したし、山や村の地理もだいたい分かる。たぶん地図を持たない人よりは詳しく知ってる。ふふん、山生まれ山育ちだけど、勤勉だし物知りなんだよ。
「…そっか。ありがと、母さん。私、みんなと仲良くしたいから」
「うん」
「…もしひとりにしちゃったら、ごめん」
「いいのよ。娘が時代を切り拓いていくと思うと私は誇らしいもの」
そんな会話をして、ご飯を食べて今日が始まった。そして、これから私の好奇心と、願望と、欲求が、板挟みの状態からついに解き放たれるんだ。
「それじゃ、行ってくるよ」
「気をつけてね。夜には帰ってくるのよ」
「うん!」
母さんは引き止めることもなく、私を送り出してくれた。優しい母さんのことだから、心配していることを私に悟られまいとしているんだろうな。
「…わかってるのに」
ワクワクと不安で心が逸るんだ。母さんのことは気がかりだけど、私は子供として、今自由を謳歌しようとしてる。
慣れた足捌きで枝の間を、根っこの上を、葉っぱの隙間を、そして急な斜面を、難なく駆け抜ける。いつもよりかけっこが速いような気分になる。いや、実際に速いのかも?
「…誰かいる!」
足音と話し声が、近くからする。きっと高鳴る胸のせいで、何を言っているのかがわからない。聞いた感じだと三人くらい、男の人だと思うな。
そして次の瞬間、無防備にも程があるけど、私は彼らの前に躍り出た。もう何も私を止めるものはない。
「ねえ、私と友達になってよ!」
その瞬間、彼らは驚いた顔になり、近くにあった得物を私に向けた。
──どうして?
「近寄るな!バケモノ!」
バケモノ?私が?
「そんなことない!私は村の人と仲良くしたくて…」
「だから言ったんだよ!山にはまだバケモノが住んでるって!」
「に、逃げようよ!!」
パニックになった彼らは私を罵り、撤退か攻撃かを決めあぐねているみたいだった。バケモノ。そうか、私はバケモノ──
そう理解した瞬間に、ああ、もう私は彼らとは相容れないんだとわかってしまった。私がどんなに彼らに恋焦がれても、彼らは私のことを蔑み続けるから。きっともう、この山を降りたら私の居場所なんてなくて、この山さえも彼らは侵し続けて、いつかは母さんも私も住処を失くしてしまうんだ。
そこまで思い至って、悲しくなった。村の人たちへの失望よりも、私の願いが叶わなかったことへの悲しみの方が大きかった。
そして、私は力なく引き返そうとした。後ろを向いて数歩歩いたところで、草木の揺れる音がした。一瞬の音が、何年間も聞いていたかのような錯覚に陥る。そして、首元に鋭い痛みを覚えた後で──どうして、とその人の顔を見ながら──私は、絶命した。
「はぁ、はぁ…やったの?アキラ」
「…たぶん。死んだよ、こいつ」
「アキラ呪われたりしない?」
「知るかよ。ノコノコ人の前に出てくるのが悪い」
本当にその通りだ。たかがキツネ一匹殺しただけだし、バケモノっていっても簡単に死んだじゃねえか。
よく見れば、毛色が珍しい。白い毛皮に覆われているが、一部に黒い毛が生えている。言い方を変えればパンダみたい、と言った感じか。
「呪いなんてあるわけねーよ。こんな雑魚キツネ一匹にそんな力があってたまるか」
動かなくなったモノクロのキツネを見下ろしながら、呟いた。
「毛皮とか高く売れるんじゃねえの?親父に報告してくるわ、シュン、カズマ、お前ら見張りしとけ。何かあったらそこの武器で何とかしろ」
「う、嘘だろ!?アキラが残れよ!」
臆病なカズマは俺の発言に食ってかかるが、近くに置いてある金属製のバットやスコップ、ナイフを見て少し自信がついたのか、これを了承した。
そして俺は親父に報告するために、急いで山を降りようとした。しかし、いつの間にか辺りには霧が立ち込め、走って降りることは困難を極めた。
「マジかよ…仕方ねえ」
木々に捕まりながら慎重に、出来るだけ早く斜面を下っていく。この霧では道らしき道をゆっくり歩いたら遠回りだからな。
しかし明らかにおかしい。斜面を下っている感覚では既に平地部分にたどり着いててもいい頃合なのに、まだ斜面は続いているようだ。少し先はもう霧で真っ白、その手前にも平地は見えない。
「何かマズそうだな…」
そう言った矢先、雷が鳴り始めた。雨の音もし始め、どんどん強くなっている。そう、強くなっているのだ。
「おい!!なんで雨が降ってこねえんだよ!!!」
木々が雨を防いでるとしても、そんなに密度は高くない。葉も雨を防ぎきれるほど茂ってはいないのだ。にもかかわらず、雨音だけが頭に響き、身体が濡れる気配はまったくない。
「ふざけんな…呪いなんてあってたまるか」
霧なんて忘れて無我夢中で斜面を下る。目の前に現れる木を必死で避けながら、最速を維持して走り続ける。
それなのに、斜面は無限に続いてるように感じられた。もう一生この霧に閉じ込められてしまうのだろうか。
「誰だよ!!出てこい!!!」
叫ぶやいなや、先程俺が殺したキツネが、一回り大きなキツネを連れてやってきた。両親のどちらかだろうか。いや、子キツネの方も別のやつかもしれない。
俺はナイフを構えて刺しかかろうとしたが、身体が動かない。金縛り、なのか。それとも、身体がビビって動かないのか。考えたが、そんなのはどうでもよくなった。
「もう、終わりよ。あなたは一生山の呪いに生きる…死んだら、何もなくなる。喜びも、苦しみも、何もなくなって、身体も魂も、この山から離れられない。村の人間も、あなたを見つけられない。文字通り、人間の世界から消えるんだ」
キツネが、人の言葉をしゃべった。いや、脳内に直接…まるでテレパシーだ。そしてそんな現象を前にして、俺は呪いにかかった、と。そうこのキツネは言った。それを聞いて俺の身体は動くことを忘れたんだ。
「この子は…いい子だったわ。この子が望まなくても、これは私の復讐であって、私なりのけじめなの。悪く思わないでね」
そう言って、大キツネは子キツネを憐れむような、慈しむような、どちらともつかない目で見つめた。そして、俺を独り霧の中に残して消えていった。
雨はすでに止んでいた。いや、物音が何一つしなくなった。これからは真っ白な世界で、何に触れることもできなくなって、俺は寿命を迎えなければいけないらしい。──とんだ地獄に堕ちたもんだ。
俺は、バケモノ退治に出たことを酷く後悔した。
「私は、娘を好きにさせたことを後悔しています。娘は後悔なんて微塵もしていないようだけれど」
「今日山に入り、キツネを一匹殺めた者達は二度と戻ってくることはありません」
「そして、人間はこれから山に立ち入らないことを約束しなさい。もし立ち入るのならば、彼らと同じ運命をたどってもらいます」
「私たちは私たちで栄えます。境界線をしっかり引きましょう」
「しかしもし本当に山の生き物と友好関係を築ける人間がいるならば」
「その者と私たちとの境界線を取り払うことにします。そうでない人間は山に入ったが最後、出ることはできませんのでそのおつもりで。これはあなたがた人間への罰です。努々お忘れなきよう」
「そう言って、母キツネは霧の深い山へと去っていったのです…と。どう?」
「と〜〜ってもおもしろかった!ありがとね、お母さん!」
「いいえ。だからみんなあの山には不用意に近づいちゃダメって言うの。実際に行方不明になる人もいたけど…心優しい人なら大丈夫なのよ」
「じゃあ、お母さんは?」
「私?私も山に入ったわよ。かわいいキツネさんと仲良くなれたわ」
「あ!じゃあもしかしてそのキツネさんが!?」
「そうよ」
「わ〜〜〜!!コンちゃん、よかったね!!私も山に入れるといいなぁ!!」
部屋には本を片付けて台所に向かう母親と、自分を抱きしめるまだ幼い女の子。その少女に、白と黒のキツネは「あなたなら大丈夫」と目を閉じ、小さく優しい腕に自らを委ねた。
それはまるで、遠い日の夢の果てにたどり着いたように──前世の記憶の霧を振り払ったかのように──光にあふれた、あたたかな瞬間だった。
読んで下さりありがとうございます。
途中で(タグで)動物主人公ってわかったと思います笑
ふとごんぎつねを思い出して、絶命ネタまで考えて、できるだけハッピーエンドにしたいと思いこんな結末になりました。開拓のような人間の生産活動についてなど、考察や背景も明言はせず、想像できるようにしてあります(浅すぎてすみません)。
ぜひぜひ!!感想お待ちしてます!!色々聞かせてください!!
これからも短編は稀に投下するつもりです。