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名なしの告白  作者: 奥田 繭
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とらわれたモノたちにささぐ

1. 囚われた男の告白


まだ見ぬ私の古い友人に向けて


拝啓  なまえの分からない誰かさん


 これから私が書くことを君は信じないかもしれない。それも仕方のない事だ。私も私ではない何者かも責めはしない。でもこの世の誰もが私の頭と精神の均衡を疑い、脳みそから細やかなとげとげしい氷の粒をいくつも取り出そうと画策したとしても、誰ひとりとしてこの話になんら変化を与えられないとお約束する。事実、私の部屋には「小さなおじさん」が暮らしていた。


 その小さなおじさんはいつも細身の黒いスーツを着用し、どんなにモノを知らない人間であろうとも「最高級のホンモノ」とすぐに判断できる、上品なつやを放つ黒地のシルクのタイを締めていた。


 よく磨かれた革靴には指紋ひとつない銀のプレートが甲部分で威圧的に光り、そこには某高級ブランド名と共にMADE IN ITALYの文字が誇り高く刻まれていた。おじさんは私と話をしている最中、おそらくあまり興味のない話題に不運にも(そしてもちろん、不注意にも)私が触れた時だと思うが、まっすぐに揃えた形のよい両足をぴしっと伸ばしては、その甲のプレートをじっと見つめ、汚れやくもりがあろうものならいそいそと私のメガネ拭きの端っこで、その汚れなりくもりなりシミなり塵なりを拭い落すのであった。


 そしてまた体操選手の器用さで、完璧に両足をまっすぐに伸ばすと、(決まって向かって時計回りに)膝を回転させてまんべんなく光(窓からそそぐ太陽光から安物の電球の明かりまで)を反射させ、自らの仕事の出来ばえを――孤高の鷹が地上の小さき獲物の生命をとらえた瞬間のごとく――眼光鋭く検分するのであった。


 残念ながら凡人の私には、彼が拭く前と後との違いがほとんど全く分からなかったし、その根本的な問題にさえ考えが至らなかったのだが。


 おじさんの存在を知ったのはちょうど五十年前、幼気な老人相手のおろかで効率的な詐欺事件が横行し、尋常じゃない大雪に街中が埋もれ、心身ともに極寒地獄と化していた二月のことだった。


 天井を通して上階(おそらく小さな子供のいる一家が居住しているのだろう)から時折響く駆け足が静まった深夜、私は自室でひとりペンを走らせ詩作にふけっていた。私が誰に見せるでもない言葉の羅列をつむぐ時、私の脳内には一文字一文字が愛らしいクリオネのように――残念ながら実物は見たことのない憧れの「海の妖精」――自由気ままに手足を動かし泳ぎまくっているのだ。


 意識を集中させなくてもそいつらがいることを私は感じる。私の思考の陰でそいつらは出番を待って姿をちらつかせる。


 そんな夜、私はつつましい座敷牢のような貸し部屋でペンにインクを浸し、その表面張力と毛管現象に感謝することもなく、無意味な文字列を書きつけるのが当時の習慣であった。


 その夜、書き出してから二十分も経っていない頃であろうか。突如、私のいる部屋の中から誰かの忍び笑いが聞こえたのだった。

 

 断わっておくが私は当時独り暮らしの身であった。錆びついて元々開かない窓は、カビとヤニの絶妙な臭いで織られた分厚い遮光カーテンで覆われている。


 私はあらゆる種類の音楽をかけることもなく、ただひたすら静謐な――当然外界の喧騒から遮断されている――自分だけの世界を満喫しているはずであった。そこで私は空耳かと思い、また目の前の紙に視線を落とすと――今度ははっきり「ヴヴン」という年配の男性らしき咳払いが聞こえた。続いて、


「そっちじゃない。お前はもっと目の前の影に注意して生きんとな」


 まるで往年のギャング映画に出てくる葉巻をくわえた一家の大ボスさながらの、渋く威厳のある男の声がこの私を(元々私しかいないはずの部屋なのだから、対象は私のはずだ)諭すのである。


 君は実際に、驚きで息が詰まったことがあるだろうか。粗悪な紙に刷られた漫画のように、心臓が口から飛び出しそうになったことがあるだろうか。私はある。机の脇で乱雑に散らかった紙の一枚に、小粋なスーツ姿の知らないおじさんが腕組みをしながら立っている姿を見たら、誰だってまさに言葉を失う。さらにその人が、私自身の書いた〈幻影〉という文字の上におさまる程度の大きさだったら、なおさら魂消てしまうものなのだ。


「なにをじろじろ見ているのだ。お前には年配者への礼儀というものがないのかね」

「……こんばんは」

「はい、こんばんは。セバスチャン」


 彼は私に謎の呼び名をつけ、なぜか私はそのことについて訂正する気にならなかった。だからここから先は、セバスチャンと言えば私のことを指していると考えてほしい。

 

 その夜から、小さいおじさんはこの世の理のように私の部屋の棚のひとつを、自身の寝室兼居間として使いだしたのだった。


 君も知ってのとおり(ちょっと不躾な言い方だったかな。これから知ってくれても不都合はないよ)、私はいわゆる会社にも学校にもカフェにもバーにも親の家にも、どこにも行くことがなかった。行く所がないのではなく、どこにも行く必然性がなかっただけだ。


 私はこの狭いながらに安心安全な自室できちんと生活の糧を稼いでいたのだから。単純明快、誰の干渉にもあわず、誰の尻拭いもしなくていい独り身天国。しかしそんな私の自由な生活習慣が皮肉にも別の事態を招いてしまった――幸か不幸か、私は小さなおじさんの五感から一日中逃れられなかったのである。


「紳士淑女たるもの、たとえ無人島に居ようとも時と場合に合わせてお着替えをし、ナイフとフォークはエレガントにさばくものである」


 U首になってしまったかつての丸首シャツに、ついていること自体目に入っていなかったドス茶色い血しぶき、ではなくコーヒーのシミが散らばるスウェット・パンツ――次の日の朝、そんな私の定番服を一目見るなり、おじさんはもじゃもじゃとした(「それはどこか異国の森にいる長老フクロウを想わせた」という一行を加えたくなった)神秘的な眉毛をつりあげて、「セバスチャン、正気なのか」と呟いたのちに先ほどの説教を始めたのだった。


 確かにおじさんはその後も毎日、どんなに朝が早くとも、あの『古今東西紳士列伝』の表紙になってもおかしくない、いや、なるべき唯一の人だろうと思わせる、ピシリとしたスーツ姿と一マイクロミリメートルの狂いもない立派なカイゼル髭で、私の机の上に登場したのであった。


 ところで君は、私がなぜ小さなおじさんとの共同生活をこんなに素直に受け入れたのか、不思議に思っているだろう。もし私が君の立場なら「そんな無益でわずらわしい奴のことなんか気にすることない。ただのちっぽけな赤の他人じゃないか。ひょいと極寒地獄につまみ出し、君は温かい室内でホット・チョコレートでも飲んで忘れちまえばいいんじゃないの」とアドバイスするだろうからね。


 しかし現実的に、私にはできなかった。それどころか彼の言葉を聞くたびに私は自身の身を、生活態度を初めて客観的に見つめ、それを初めて恥ずかしいモノなのだと実感し、彼の言うとおりに、初めて正していこうと努力したのだ。


 いや、今嘘をついてしまった。思い切って真実を言えば……示されるままに行うほうが疲労も遺恨も自己嫌悪も感じなくて時が進む……つまり私はそういう人間なのだ。


 もちろん本心を言えば最初の半年間は、なんてやっかいなおじさんを迎えてしまったのだろうと後悔しなかったこともない。あまりにおじさんの躾が厳しくて、私は家でもそれなりの恰好をしたし(シミのない適度にノリの利いた襟つきシャツを何枚も揃え、伸び放題だった髪を切るために散髪屋に行き、初対面かほぼ初対面のよく知らない人間に無防備に頭を何度も触らせた!)、おじさんの口に合う食事を用意し(各地の名産品を片っ端からお取り寄せ)、彼を専用の移動箱に入れて彼が指定するレストランに行ったりするようになったからだ。


 当然貯金だってあっという間にわずかになっていた。しかし半年が過ぎたころ、私は気づいてしまったのだ――もう周囲の視線が以前ほど怖くなくなっていることに。


 お友達の多い君には理解できないかもしれないが、私はずっと周囲の視線が怖かった。悪意のある人間が発する負の赤外線にじわじわと内臓から炙られるような感覚、とでも説明すれば少しは私の恐怖が伝わるだろうか。


 だがおじさんの言いつけに従い怯えながらも外出の機会を増やしていくと、いつの間にか他人の私への視線が刺々しくなくなり、そのため私自身が彼らを怖く感じないという、ある種の怪奇現象が起こっていたのだ。つまりこれは「私自身が他人の視線を刺々しいと意識しなくなったがために、誰かを怖いと思う感情そのものが起きなくなった」という意味でもある。


 これは私のそれなりに長い人生において革新的な出来事だった。


 そうこうするうちにゆっくりとだが仕事の依頼が増え出した(理由はさっぱり分からない)。比例して一時は減少していた貯金が増えた。収入が増えれば外出する機会が増え、外出するたびになにか(もちろんおじさんが指示するあらゆるモノ)を購入し、購入すれば外の人と触れ合い、いつしか私は他人の視線が怖かった時代を忘れてしまった。


 ここまで読むと、私は素晴らしい時間をおじさんと過ごしたようだ。いや、もちろんそのことを否定したりはしない。彼のおかげで私は窒息寸前の仮死状態から息を吹き返し、今世紀に生きる確固たる現代人として、同じ時を生きる他者の記憶に残る人間となったのだから。


そうだ。おじさんは時に私を勇気づけ、時に私の後悔を後押ししてくれたのだ。


 そういえばこんなことがあった。小さなおじさんと暮らし始めた三日目、まだ私が彼の存在にすっかりとはなじめていなかったころ、おじさんはマッチ箱の上に自分の小さなシルクのハンカチーフを敷いて座り、向かい合う鼻たれ小僧の私に天高く響くバリトン・ヴォイスでこう告げた。


――人と人は合わせ鏡。お前が私になるのなら、私はお前になってやろう。


 突然の啓示に無知な私は混乱し、「もう一度おっしゃってもらえますか」と聞き返すしかできなかった。おじさんは透明感ある黒い瞳――それは鋭い断面をもつ太古の黒曜石に似ていた――に慈悲と憐れみの光を宿して、ダイジョウブダ、セバスチャン。オマエハエイエンニヒトリデハナイ、とこたえてくれた。


 他者と会話することのほとんどなかった私は、その深く優しい言葉だけでおじさんに全幅の信頼を置き、おじさんの一言一句に耳を傾け、彼の持てる全てを得ようと願うようになってしまった。


 小さなおじさんの言葉は私の思想となり、私の人格となり、私という存在そのものになるべきなのだ。ひとりで生きた時代はもはや無く、私はいつも正しい声に導かれて正しい道を歩んでいたのだ。


 私はおじさんと暮らすことで自分の人生を取り戻し、すべては順調でわが道の先はバラ色の光に包まれているかのようだった。


 だがその喜びの半面、恩知らずな私の心にはコールタールの不穏な渦がいつもグオングオンと誰にも届かない轟きを発しながら存在していた。


 おじさんは本当に小さく優美で、私の愚鈍な視界から簡単に姿を隠すことができたが、彼の視線から巨大で醜い私は隠れることができなかったのだ。これがどれほどの苦しみと悲しみを私に与えたか、君に想像できるだろうか。そしてまた同時に、誰にも会わない寂しさよりも、誰かの視線に痛みを感じる人間に戻るほうがもっと恐ろしく絶望的で、時おり私は訳もなく小さなおじさんの守護天使のような微笑みにいらだちを覚えたのだった。


 おじさんと暮らして三年が過ぎ、私はそれなりの界隈で「セバスチャン」としてそれなりに名の通った人間になった。


 レストランの予約をすれば、私とおじさんのためにその店おすすめの高価なワインと厳選素材の最先端料理がシックかつ豪華なしつらえの個室に運ばれた。オーダーメイドの洋装店に行けば、店主自らがいそいそと選りすぐりの高級生地を並べ、私を瞬く間に立派な紳士へと変えてくれた。会員制のバーでは著名人たちが談笑し、まるで気心知れた旧友のように私と移動箱の中のおじさんを迎え入れた。


 私を見つめる紳士淑女の眼はきらきらと好奇心にあふれ、私の他愛ないジョークにも拍手喝さいで大喜びしたものだ――セバスチャン、なんて君は知性にあふれアイデア豊富な人なんだ。君みたいに才能のある人はもっと色んな事業に挑戦するべきだ。セバスチャン、セバスチャン、セバスチャン……


 そんなある日、彼女が私の部屋にやってきた。世界中の鳥や牛たちが奇病にかかり、なぜ世界のすべてが無音で溶け落ちないのか不思議なくらい灼熱地獄の八月だった。

 

 その訪問の約半年前、私は質素で賑やかな小部屋から、誰の足音にも悩まされない堅牢そのものの高層マンションへと移っていた。知人の親族だという新進気鋭の若手インテリア・デザイナーと小さなおじさんの指示の元、その家は(「部屋」ではなく「家」と呼んでいいだろう)過去の私の生活なぞアリゾナのアリの巣の一穴だったのだと実感するほど、誠に「これぞ文化的かつ人間的である」というカルチャフルな空気そのものを構成していた。

 

 引っ越ししてからというもの連日連夜、私の家には数多くの知り合いや知り合いかもしれない人たちがお祝いに駆けつけ、ついでに彼ら自身交流を深めて「お友達」になっていった。


 所在ない私はくだらない回文をもったいぶって呟き、意味のない線と円を描いては、彼らの称賛を浴びて笑った。そんな有意義なパーティーの間、小さなおじさんの姿はなかったが、彼の視線を感じない時は0.一秒たりともなかった。そして皆が帰った朝方に、おじさんはその日の反省会(もちろん反省するのは私のみ)を開くのだった。当然件の日もおじさんの反省会が開催されていた。


「セバスチャン、お前の笑い声は腰痛持ちのロバの鳴き声にそっくりだ」と、小さなおじさんは大天使ミカエルのごとくありがたい訓示を垂れ始めた。


「この調子では、私のような大物になるには当初の予定のウン十倍もの時間が必要だな。お前には生来の威厳と気品が欠けているのだから」


 私は心の底から申し訳なく感じ、遠い地に住む両親にちらりと意識を飛ばした。するとすかさずおじさんは「ご両親は関係ない。諸悪の根源はお前にある」と一喝し、立派なカイゼル髭の片端をエレガントな所作でねじり上げた。


 その瞬間、私の背後でカタリと物音がした。反射的に振り向くと、見知らぬ若い女性がようやっと戸口にもたれかかっていた。


 闇に溶け出しそうな乳白色の肌が非現実の光を放ち、奇妙に交差した両足の際限ない長さを強調していた。ぴったりとしたストラップ・ドレスからのぞく胸元は、成熟と未成熟のどっちつかずなぎこちない印象を与え、性別を超えたもろさとずうずうしさをあけすけにアピールしていた。


 そのやせっぽっちの迷い子が、まだ酔いから醒めきっていないのは、片目の子猫を庇護せずにはいられないほどに明白であった。


 彼女はそばかすが浮き出た青い顔をもつれた髪からのぞかせて、ここはどこだろうと訊いてきた。そして「あなたは誰?」とあどけなく続けた。


「ここは私の家で、私は……」セバスチャンというべきか、本名を名乗るべきか、私は迷った。だが答える前に彼女はどうだっていいという風に片手を振ると「私の水はどこ? アスピリンを飲まないと。ビタミン剤もね」とかすれた声で言い、近くにある長ソファに身を横たえた。まるで安物の舞台を見ているようだった。俗っぽいが現実に自分の身の上に起こってほしい類のフィクション。私が女性なら、彼女はさしずめ白タイツを穿いた金髪の「白馬の王子様」にでも変身していたことだろう。


「君の名前は?」彼女が起き上がるのを待ち、私は尋ねた。

「……レイ。多分今はそうだと思う」レイは波打つ黒髪を――それはこれまでに見たことがないほど、本当にカラスの濡れ羽色をしていた――両耳にかけて、そのまま骨ばった両手で化粧の流れた顔を蔽い隠した。その姿は敬虔な隠者が何か熱心に祈っているようにも見えたが、彼女はただ頭の痛みをやり過ごそうとしていたのだった。


「レイ、君は誰の紹介で私の家に来てくれたのかな」

「そんなこといちいち覚えてない。昨日は色んな人に会って、なんとなく賑やかな方について行ったんだもの。誰の知り合いでもないかもしれないし、そこんところはあなたが好きに考えて」


 私はレイを再びソファに寝かせ、新しいタオルケットをかけてやった。しばらくすると彼女はアルコールの残った息をリズミカルに吐き出しながら、混沌の世界に旅立っていった。こうして彼女は私の家に暮らし始めた。


 レイはどこにでもいる普通の女の子だった。傲慢で自我が強く虚栄心に満ち溢れ、そのくせ時に謙虚で劣等感が見え隠れした。容姿の美しさを自覚しているが、いずれ衰えることに怯えてもいた。自由を好むと同時に他人に縛られることにあこがれ、無軌道に見せながらも彼女なりの規則性に従い行動していた。彼女は世界中の都市で石を投げれば当たる正真正銘の「普通の女の子」だった。

 

 彼女がなんとなく居座りを決めた一週間、おじさんは姿を隠した。しかし彼の視線の熱は常に私の首筋を焦がし、私を通してレイの存在を認めるか否か検分しているようだった。頭から同居人など否定されるであろうと思っていた私は、おじさんの大いなる寛容さに感謝した。私は一目見たときからレイを受け入れていたのだから。


 私とレイはお互いの自由意思で連れ立ったり別々の場所に出かけたりした(どんなに雨が降っていようとも、彼女は必ず朝には我が家に戻ってきた)。


 各々の部屋を持ち、その部屋には勝手に出入りできない暗黙のルールがあった。私が小さなおじさんと話をするのは自室か二人きりで外食をする時のみであり、おじさんは彼女に決して姿を見せなかった。


 今思い出したのだが、彼女が出現した数日後、つまりまだおじさんの審査がひそかに行われていたある朝(実際には昼下がりだったかもしれない)にこんなやり取りがあった。


「ねえ、あなたってとっても有名な人なんですってね。昨日家に来ていた悪趣味なピンクの髪のおばさんがそう言ってたわ」


 その日のレイは朝から機嫌が良かった。ダイニング・テーブルについた彼女は、珍しく自分と私のグラスに彼女のお気に入りのオレンジ・ジュースを均等に注いでくれ、その流れで歪んだつけまつ毛を指で持ち上げ、言葉を続けた。「ところで、一体あなたの何が有名なの? その不恰好なカギ鼻のおかげ?」


 私はあれはウィッグで、あのレディはそこそこのミュージシャンだよと教えてあげてから、ジュースを一口飲んだ。そして、ぼくの何が有名かなんて、色々ありすぎて自分でも分からないと答えてから、「少なくとも本業についてではないな」と付け加えてみた。これは謙遜ではなく率直な意見だった。


「じゃあ、明日は私の方が有名になって、あなたよりも上手くスカイ・ブルーの髪の男と踊るかもね。」

レイは顔のバランスを整えるようにウィンクすると、もうその話題には飽きたという風に唇をとがらせて片手を振り、テーブルの下で私の膝に片足を乗せた。そのとても親密な重みが私の心をくすぐり、不覚にも私はかつてないほど心からの笑い声を出してしまった。


 まるで嘘臭くて月並みすぎて、君は信じないだろう――だが君との友情に誓って言う――レイは私の世界に投げ入れられた、実体のある温かな命そのものだった。


 三か月が過ぎ、私の親友と自称していた「某ファッション誌が選ぶ『その年最もホットなアーティスト』」から贈られたポップな私の肖像画に、誰のいたずらか真っ赤なペンキがぶちまけられ、私が血の涙を流しているベタな演出が加えられたころ(同時に彼女との共同生活になじんできたころ)、私たち――私とレイと、もちろん小さなおじさん――は一泊だけの小旅行をすることになった。私は仕事が立て込んでいたのだが、その仕事を紹介してくれた張本人の「なにかを祝うパーティー」が郊外の別荘で行われるため、どうしても顔を出さなくてはいけなかったのだ。


 旅行当日の朝、私たちが玄関前でなじみのハイヤーに乗りこもうとした時レイが、それもトランクにいれればいいのにと、私の腕を引っ張った。


 「それ」とは私の腕に抱えられた「移動箱」を指しているのは一目瞭然であったが、私はあえてキョトンと両目を丸くし、口の端に薄霧のほほ笑みさえ浮かべて彼女よりも先に座席に滑りこんだ。仕方なさそうに彼女も乗りこむと、閉じられたドアの窓から外を眺めるふりをした。彼女が何を考えているのか、私は考えないように音程の難しい鼻歌を歌った。


 レイが、いや、彼女に限らず第三者が移動箱について言及したのは、その時が初めてだった。


 おそらくずっと以前から、彼女は私が外出する際に必ず携帯する小箱に興味があったのだろう。光によって茶色にも緑色にも灰色にも変わる彼女の瞳が箱を見つめ、触れたい欲求に抗おうと苦悶する表情が、まるで荒野の稲妻のような激しい光を帯びて彼女の眉間に浮かぶのを、私は数度目撃していた。そしてまた、私が自室で独り(実際には二人なのだが)何事かを話しているのを、彼女は耳にしたことがあるのではないかと思うことがあった。もしかするとあの出会いの朝に彼女はすべてを見聞きし、酔いによる錯覚か現実に起こっていたことなのか、私といる三ヶ月間判断がつかなかったのかもしれない。そしてその謎を解くカギのひとつが「移動箱」であると気づいたのかもしれない。


 今となっては推測にすぎず、何も確かめる術はないのであるが。


 ハイヤーでの移動の間、私と彼女は共通の知人や共通ではない知人のプライベートな失態や事業に関する主に良くない噂話をし、頭を使っているフリができるカード・ゲームをし、たまにワニのような大あくびをし、ちょっとだけ眠るふりをして過ごした。また、流行の当たり障りのない音楽を流しながら、老舗になりたい注目店の巧妙に作られた高級菓子を食べ、噛んでいる間は口を開かなくてもよい生物学的習性を利用した。私たちは移動箱を視界からはずし、意識からも意識的にはずした。


 一般社会の縮図のように、私たち三人は気持ちの良い距離感を保ちつつ、穏便に旅行を楽しむことにしたのだった。


 ハイヤーは渋滞に巻き込まれることもなく順調に目的地へと進んだ。やがて美しく輝く海の一部が見え隠れしたかと思うと、それまで見慣れていたビルディング群とは生命力の全く異なる、本物の巨大な岸壁と本物の強靭な波が、ひ弱で愚かな人間たちを何の感情もなく迎え入れた。


 その日の夕刻からパーティーは始まった。古典的な正装や奇抜な最新ブランド・ファッションを着こなした人々が数百人、誰かれなく知り合いを見つけては新しい連れを紹介しあい、ホスト夫妻に慇懃な挨拶と小粋なプレゼントを贈っていた。私もまた、事前に受けたおじさんのありがたいご指南どおりに、ホスト夫妻に感謝の意と深く長い友情の誓いを言葉と形で表した。


 いつものように私の周りにはたくさんの男女が輪を作り、うるんだ瞳で何事かをがなり立て、私の一挙一動を見逃すまいとしがみついていた。まるで今世紀最高の魔術師を崇める無邪気な子どもたちのように。


 今でも時々、彼らのニオイを感じることがある。その気配を、その熱気を。もしかしたら、寝入りそうになるたびに頭の中で鳴る、訳のわからない叫び声の記憶も彼らの歓喜の声援なのかもしれない。だが顔はどうだろうか。誰か一人の顔でも、まともに似顔絵が描けるだろうか。私のタイを直してくれたあの年配の女性の目は、何色だったのか。私にグラスを差し出した、あの左利きの大男には、ひげが生えていただろうか。私の肩を抱き、さも親しげに顔を寄せてきた下着モデルだと言う若い女は、誰の目にも本当に美しかったのだろうか。


 ぬらぬらと毒虫のように動く青紫のきらめく唇、あれの持ち主はいったい誰の奥さんだったのだろう。


「んねえ、わたし、なんだか疲れちゃったから部屋に戻りたいの」

レイが声をかけてきたのは、私がどこかのなにかの評論家夫婦と最新のAI技術のすばらしさについて、尤もらしい専門用語を並べ立てて笑いあっている時だった。

「大丈夫かい? 一緒に部屋までついていくよ。知らない場所で君を一人にはできないからね」


 私は紳士らしくそう言うと、彼女の薄い三日月のような肩を抱き、エレベーターの扉の前まで同行した。見知らぬ数人とすれ違ったが、誰も私たちを見なかったし、当然声もかけてこなかったかと記憶する。


 エレベーターがやってくるまで、レイは私に寄りかかりながら、耳元で「私は一人で大丈夫。一人の方が気分が落ち着くから、あなたは早くみんなの輪に戻って。全然気にしなくていいから」と、何度もささやき、私は部屋までついていくと言い張ったものの、エレベーターの扉が開いた時には根負けして、微笑みながら彼女の姿が目の前から消えるのを待って、騒がしく華やかなパーティー会場に戻った。


 そうこうするうちに夜も更け、徐々に参加者たちは、会場に隣接する古風で豪奢なホテル(もちろんホスト夫妻の持ち物)へと消えていった。ほとんどの人間が酔いに任せ、日ごろの疲れと肌寒い夜風を薬に柔らかなシーツに包まれて夢の国へと運ばれた。数十人の若者たちと、老いを止めるために悪戦苦闘している中年たちは男女を問わず、夜明けまで歌い踊ることを責務とし、ホスト夫妻が退いた後もパーティーの成功を保証した。


 おそらく多くの人々にとって、いつまでも記憶に留めておきたい素晴らしい一夜となった。


 だがその夜は、私にとっては「試練の夜」だった。なぜなら小さなおじさんとの約三年間の生活で、初めて彼の視線なく他者の前に自分ひとりだけで立たなくてはいけなかったのだから。


 綱渡り――そうだ、まさに命綱なしの綱渡りの出し物だったのだ。


 パーティー会場に向かう前、私とレイとおじさんは荷物と共に一度ホテルの部屋に立ち寄っていた。ハイヤー用のカジュアル(と言っても、昔のような汚れたスウェットでは断じてないが)な服装からお洒落で高価で見栄えの良いパーティー仕様へと着替えるためである。


 私とレイは別々の部屋(別々の部屋にしてもらうよう、事前に主催者に申し入れていた)に行き、私はおじさんの見立てに従い正装した。そしていつもの通り移動箱を抱えようと待機したが、予想に反しおじさんは箱の前で腕組みをして、いつにも増して情け深くほほ笑みかけた。そうしてこう言った。


――お前は私に重なり、私はお前に重なった。今晩はお前ひとりで行くがよい。


 思いもかけない宣告に動揺し、私の頭の中の配線はめちゃくちゃに絡まりあってショートした。だが同時に心の中では、何とも言えない解放感と認められたという充実感がじんわりと熱を帯びて広がった。これでやっと息がつける……それが正直な気持ちだった。


 しかしパーティーの間中、私はどうしても彼のことばかり考えてしまった。孤独だった。息がつけるどころか、今の自分が正解なのか無知なままのハナタレ小僧なのか、いまいち判断がつかず、予想通りあせればあせるほど馬鹿なことばかり口走った。幸いその馬鹿なことが「さすがセバスチャン。斬新だ」と受け入れられてしまうのだから皮肉なものだ。


 そんな状況だったからなのか、私はレイが会場から去った後は彼女のことを脳裏から消し、ただただ安全圏内でその場の雰囲気になじもうと必死だった。


 そうこうするうちに時間が過ぎ、私も何人かの退席者と談笑(とりあえず酔ったふりをしてヘラヘラと頷くのだ)しながらホテルへ向かった。なだれのようにエレベーターに乗り、それぞれの部屋の階で出会ったばかりの酔っ払いたちがよろよろとみっともなく降り、最後には私ひとりがエレベーター内に残った。


 私は無意識に深いため息をつくと、背面の鏡に映る自分の顔にちらりと目をやった。まぶたのけいれんが止まらない。その夜だけで十歳も老けこんだように私には思えた。

 

 部屋のドアを閉めると、さっそく私はかすれた声でおじさんを呼んだ。単純に、ひとりで大勢の人間相手に「やり切った」ことを褒めてもらいたかった。そしてあの地表から湧き出る恵みの水のごときバリトン・ヴォイスで、私の妙な興奮と倦怠を洗い清めてほしかったのだ。しかしいくら呼んでもおじさんは姿を現さなかった。

 

 私は居間から寝室へとざわざわしたしびれを足裏に感じながら移動し、胸の鼓動に押されるままビューローに駆け寄った。


 出かける前にはあったはずの移動箱が、そこにはなかった。


 まるで元々そんなモノなぞなかったかのように、ただの透明な空間が居座っていたのだ。夢なのか、と陳腐なセリフが口から出ていた。本当に人は混乱すると、こんなくだらない言葉を発するのだな、と今になって笑えてくる。


 話をもどそう。


 その時私の脳裏にはある疑問が湧いた――私は部屋の電気をすべて点けて会場に向かった(あのおじさんが部屋に残るのだから、当然であろう)。だが今部屋に戻ってきた時はどうであったろうか。私は電気を点けてから、おじさんを探したのではないか。つまり私が出て行った後、誰かがこの部屋を出入りしたのだ。そして、おじさんが入っているのを知ってか知らずか、そいつは移動箱を盗んでいった……。

 

 私は半狂乱になりながら部屋を飛び出し、ホテルのコンシェルジュに泥棒が入った旨を説明した。ホテルの従業員たちは「箱」を探し、ホテルに泊まっている友人知人たちはみんなぐっすりと眠っていた。

これは夢だと(どこまでもしつこいと、我ながら呆れる)繰り返し自分に言い聞かせ、私はレイにも手伝ってもらいたくて彼女の部屋をノックした。何の反応もなく、ドアに耳をつけても物音ひとつしなかった。ドアノブを回すといとも簡単に暗闇の部屋が部外者の侵入を受け入れた――部屋は無人だった。


 レイの死体が見つかったのは、これまで見たなかで一番神々しい朝日が昇って間もなくのことだった。

 

 崖から岩盤に叩きつけられた彼女の頭蓋骨は見事に二等分され、自慢のカラスの濡れ羽色の髪に醜い粘液がからみついていた。清々しい日の光とまるで蝋人形のような肌の白さが、黒のスパンコールで彩られた「上等、最高級」そのもののパーティー・ドレス(世界中で大人気のデザイナーに直接オーダーし、私が数日前に贈ったものだ)を値段以上に引き立てていた。


 横たわる彼女の手の先には、世界最難の立体パズルのようになってしまった「箱」の残骸が散らばっていた。これまでのすべてがお遊びだったかのように。これまでの世界がまったくの空っぽだったかのように。

 

 小さなおじさんはそれきり姿を現さない。この手紙を書いている今の今の瞬間までも。


 彼女が移動箱を盗り何をしたかったのか知る術はない。彼女とおじさんは対面し話をしたのか、それとも彼女は「小さなおじさん」のことを最期まで知らずにいたのか、おじさんは移動箱に入っていたのか、入っていなかったのか、彼女の死は事故なのか故意なのか……この世にはどんなに心を砕いても永久に解けない謎があるのだと、私はレイの塊を見ながらぼんやりと思った。そもそも彼女の本当の名前さえ私は知らなかったのだ。そして彼女も私の本名を知りはしなかった。


 小さなおじさんを失った後、私は感知できないほどゆっくりとした速度で他のすべても失っていった。私よりもうまく線と円を描く、ギリシャ彫刻のような美青年に皆の関心が集まり、同時期に死に数歩近づいた私のつまらない回文はつまらないことが判明した。


 私とレイがパーティー会場で言い争っていたという証言が何人かから発せられ、いつの間にか私がレイを強い勢いで引っ張りながら、会場から追い出したという噂が、本当のことのように言われるようになった。私はレイに脅しの言葉をささやき、レイは真っ青になって震えていたとのことーーパーティー会場にいたみんなが、傷ついた小鳥のようなレイのことを心底心配していたらしい。

 

 私はまったく気づかなかったのだが、日ごろから私がレイを虐待しているのではないかと、そんな風に感じている人たちが大勢いたらしいのだ。目が見える人ならだれでも分かるほどに、レイは私に怯えていたらしい。私は自分よりも立場が弱い者には暴君であり、絶対君主であり、鼻持ちならない成金野郎であったらしいのだ。セバスチャンがそんな人間に成り下がっていたなんて、私はまったく知らなかった。私はなんて盲目だったのだろうか。


 レイが亡くなってから間もなく、私は社会的な正義の裁きを受けることになった。ただの男になった私の声は誰にも届かず、誰も私の姿をまともに見ることもなくなり、あっという間に忘れられた透明人間が一人、完成した。


 とはいえ幸か不幸か、不思議なことにこの数年、時おり私のことをセバスチャンと呼ぶ女が現れ、すぐに別のセバスチャンを求めて去っていった。だが私も彼女たちを――どんな髪の色をしていても――「レイ」と呼んでいたのだから、それはお互いさまなのだろう。こうして時をやり過ごすうちに、気がつけば私の髪はなくなり、つつましい牢獄には看守たちの気の利いたジョークが響き渡る。


 君がこの手紙から何かしらの教訓を得る必要はない。私は最期の瞬間を迎える時に、ただひとりの他者に小さなおじさんについての手紙を送ったという事実を胸に秘めていたいと願って、これを書いたのだから。しかし一言だけ言わせてもらえるのならば、君に別の名前を授ける人間には注意したほうがいい。耳をすましてそいつの真意を聞きとり、誰が一番得をしているのか見極めるのだ。そして一番得をしている人間の足元をすくうには、虚飾と嫉妬と猜疑のかがり火をじわりじわりと燻らせるのが得策なのである。


敬具



2. 囚われた女の告白


 生まれる前から、視線の先にはあの子がいた。


 あの子は私とおなじ顔をして、おなじ髪の色をして、おなじ声音で話し、おなじ長さと形をした手足でポーズを決めて立ったり歩いたりしていた。


 私たちはいつもお揃いの服を着ていたから、親しい人も親しくない人もみんな必ず私たちの名前を呼び間違えた。適当に呼んだとしても二分の一の確立で当たるはずなのに、不思議なぐらい必ずみんなはずす。示し合わせたように。神の呪いのように。だから私たちは物心ついた頃には、違う名前を呼ばれてもあえて否定せず、イエスともノーとも取れる純真無垢な表情で、もうひとりの自分の役を引き受けていた。


 とりあえず私の名前はアピス、あの子の名前はヴェスパとする。本当の名前はずいぶん長い間使われなかったから、もう私のなかからは抜け落ちている。だから、かりそめの名前を私自身が私たち二人に与えようと思う。


 私とヴェスパは母親のお腹のなかでひとつの生命体として誕生した時から、いつか別れる覚悟をしていた。案の定、ぷっくりぷっくりと分裂し続け、やがて別々の小さな生き物の形を取り始め、異なる心臓を各々が所有するようになった。


 母親ともうひとつの他人の心音を感じながら、私たちはいずれおとずれる外界へのデビューを待ちわび、たとえどんなに苦しくとも、きっと暗闇の道を抜け出てやるのだと、言葉を知る前から励まし合った。そして私たちはこの世にようやく生まれた。


 先に光を見たのはヴェスパだった。私が礼儀正しく順番をゆずってやった結果だ。あの子はなんでも先にやりたがり、自分のほうが勇気と才能があることを私に見せつけたがっていた。生まれる前も生まれた後も。だから母親のお腹のなかにいた時から、私はいわゆる「空気を読んで」あげていたのだ。あの子の考えることなんて、羊水のうずき一つですぐに伝わる。そうか、あの頃は空気じゃなくて水の波紋を読んであげていたのだ、この優しいアピスちゃんは……。


 幸い、私たちの両親はそこそこ裕福で子ども好きなひとたちだった。だから一度にふたりの幼子への養育義務がのしかかろうと、彼らにとってはそれもまた喜びの一部だった。


 両親は私たちに高価な衣装をとっかえひっかえ着せては写真を撮り、それらを他人の子どもの醜聞に興味津々な知り合いたちに見せつけてやるのが趣味だった。出会いがしらに謙遜と自慢の応酬と愛想笑いを浪費しなくちゃいけない身になれば、哀れとしか言いようがない。でもたまには、ほんのたまには、私たちの一種のコスチューム・プレイを心から可愛いと思ってくれる人たちもいた、と今となっては願う。


「素敵。まるでお人形さんみたい」「この写真なんて、映画のワンシーンかと思ったわ」「ひとりでも美少女なのに、こんなにそっくりだと神秘性が倍増するなあ」「双子モデルにすれば、きっとひっぱりだこになるね」「将来が楽しみ。どこかの国のお妃さまにでもなるんじゃないかしら」――おそらく私たちがいない場所でも(いる場合は「実物の方がもっともっと可愛い」「もっともっとそっくり」という感嘆の声がプラスされる)、大人たちは口ぐちにこんなセリフを吐いては、彼らと同じ世界に属す友人夫婦のご機嫌を取り合っていたのだろう。


 なんの話をしていたのだっけ……そうそう、とにかく私たちは「黒髪のヘレンとクリュネス」なんて呼ばれて(この呼び名には心底うんざり。だからそんな名前は絶対ここでは採用しない)、二人そろってにっこりほほ笑むだけで大人たちから色々なものを与えられてきたのだった。


 ああ、幸せなうつくしい子どもたちよ。お前たちふたりには輝かしい未来が待っているのだ。どんな才能が発揮されるのかはまだ分からないが、そんなこと全部OK! これから経験することは二人の人生の糧になり、何不自由なく愛し愛されて身も心も経済的にも満たされた一生を送るのだ!


 でも私はいつだって分かっていた。両親はヴェスパの方が純粋で素直で賢くて見た目も性格も可愛いと思っていたし、ヴェスパの方が将来何かしらの秀でた才能を開花させ、自分自身の力で豊かに生きる糧をみつけられる有能さを持っていると信じていたのだ。


 だからこそ、あの子のお気に入りの本や映画は母親の新しい趣味となり、あの子のお気に入りの人間は父親のつきあいにも反映された。


――アピスはヴェスパほど物事を要領よくできないんだから、無理して難しいことをする必要はないのよ。

――アピスはヴェスパみたいに用心深くないんだから、親の目の届かないところに行く必要はない。どうせ無駄に危ない目にあうに決まっている。

――アピスは優しい素敵な人と結婚して、あなたたちに似た可愛い子どもを産めばいいの。そのためには良いお嬢様だと思われなくちゃいけないんだから、余計な経験はしなくていいのよ。あら、ヴェスパはお姉ちゃんだから、もっと広く世間を知ってもいいでしょうね。

――アピスもあれを読んだのか。普通の子はみんなやっぱり読んでいるみたいだぞ、ヴェスパ。たまには普通の子の趣向も知っといた方がいいかもしれないな。一般人の思考を掴んでこそ、人を操る側の人間になれるってものだ。


 私たちが大きくなり、外界と接するようになると、両親は私たちの差異をあえて声に出して言うようになった。歌詞にすれば白けてしまう「写真には映らない『能力の』美しさ」、先天的な「神様からのギフト」ってやつ。そういうのをことあるごとに言葉にして、あの人たちはヴェスパの心を優先してきた。


 唐突なのは承知の上だけど、ここであるひとつの童話を読み上げようと思う。


 この本は正式に出版されたものではなくて、私たちが十三歳になったお祝いに父方の叔母(自由奔放なように振る舞っている、とても真面目なアーティスト志望の「正しい人」)が自分で創作し、ピンクや水色といった淡い色の愛らしいマーブル模様の表紙まで付けて一冊ずつ私たちにくれたものだ。私のには「わたしのかわいいアピスへ」、あの子のには「わたしのかわいいヴェスパへ」と、きっちり平等に背表紙に手書きされている。


 ではお話のはじまりはじまり。


【ここでページは破り取られている】


 最初に叔母からこの本を読み聞かせしてもらった時、私たちはその終わったのか終わっていないのか分からない、中途半端な終わり方に顔を見合わせた。


「で、そのみつばちさんはどこいっちゃったの?」


 私は口をとがらせて、無邪気な女の子っぽく首を傾けた。これは叔母さんの想定内の反応だったらしく、やっぱりねって顔でニヤニヤしていた。私がこの世で最も吐き気がするのは大人のしたり顔だけど、叔母さんのこの時の表情はおもしろいことを楽しんでる子供っぽいニヤニヤだから、全然嫌いじゃなかった。


――みつばちさんはどこにいったんだろうねえ。メリーさんもどこにいっちゃったんだろうねえ。みんなどこにいっちゃうんだろうねえ。


 叔母さんは歌うようにそう言って、私たちがこの話を気に入ったかどうか顔色をじっと探っていた。


 ヴェスパは自分の本の最後のページを開いて、そこに書かれた長いセリフを何度もぶつぶつと読み返していた。そして私の方を向いておおげさに愛らしく肩をすくめた。私もいつもの習慣で、鏡みたいに同時に同じ動きをしてみせた。観客は叔母さんだけじゃないことを私たちは知っていたから、いつだって手抜きはしない。大人たちは私たちの様子をほほえましく見ているのだ、いつだって。


――死んだんだよ、そのみつばち。


 唐突に、世界中の量販店で売っているブタのぬいぐるみのお腹でも押したような、間の抜けた低能そのものな男の子の声がした。


「死ぬ前にいいことしようと思って、人間になって来たんだ。だからもう死んでんだよ、そのみつばち」とその子は得意げに放言し、その場の空気を台無しにしたのも気づかずに部屋の中央で仁王立ちしていた。半ズボンからむき出しの膝が、まるで捨てられたパグ犬の顔のように哀れで、でも思わず抱きしめたくなるような愛嬌はまるでない。そいつは外国に住んでいるため数えるほどしか会ったことのない従兄で、私たちのひとつ上のわりに馬鹿の極みだった。


 私とヴェスパは目配せし、子宮時代から会得している私だけの会話術で話した――こんな脳みそ空っぽ男、早くみじめに禿げて孤独に野垂れ死にすればいいのに。

どうでもいいことだけど、その従兄は現在、本当に中途半端なうすらはげになってしまっているのは、私たち双子の呪いかもしれない。

 

 とにかく私はこの本が大好きになって、何度も何度も読み返した。ヴェスパはこういうのは子どもっぽくて趣味じゃないから、本棚の一番下の右端にしまったままだった。よく誤解されるのだが、双子だからって何から何まで好きなものがかぶるって訳じゃない。私たちに関して言えば、服の好みはほとんど全く同じだったけれど、人間については少し違う部分があった。もちろん馬鹿な従兄みたいな人種は二人とも大っきらいだけど、なんていうか、ヴェスパは私よりも「嘘」の匂いのする人に関わることをいとわないところがあった。嘘のなかに自分の身を置いて、いっしょに嘘の匂いをまとい、いっしょに嘘の現実をその時々で心から楽しめる――そんな才能が生まれる前からあの子にはあった。


 私は作り話の世界はそれなりに好きだけど、嘘だらけの現実のなかではめまいがする。足場が不安定で怖い。これはもう生来の気質ってやつ。


 でも私はそんな生来の気質を隠して、あの子と同じようにたくさんのパーティーに行って周囲の称賛を浴びるのに頑張った。同じ顔をしたあの子だけが世間にまで持ち上げられて、有力なお友達がたくさんいるなんて許されないから。私はあの子よりも美しくて魅惑的で才能にあふれた唯一無二の存在なんだと、せめて外界の人たちにだけでも認めさせたかったから。そのためなら価値のない恐怖心なんて、厚い塗り壁にはめ込んで動けなくしてやる。

 

 私たちはあえて別の学校に行き、別の世界の友達を積極的に作り、別のパーティーの華やぎリーダーとなった。私たちは同時に二つの世界を行き来し、同時に二倍の人間と交わり、同時に誰にも覚えられていないことを(ヴェスパは)楽しみ、(私は)憎んだ――われらが「親しい友達たち」は気づきもしなかったのだ。私とあの子が時々入れ替わっていることにさえ。


 たまに「今日は皮肉が過ぎすんじゃないか。ヴェスパ」「今日は何を言ってもからんでくる日なのね。なんか嫌なことでもあった? ヴェスパ」と指摘されることはあったけど、そんな時は片眉をあげて完璧な美しい笑みを返す。そうすればみんな一様になにかを納得して状況を受け入れる。そうして私はアピスでもヴェスパでもなくなり、ひとりの名もなきイット・ガールになって狂乱騒ぎの深い海にあおむけで沈んでいくのだ。

 

 そんな風にして陽気で傲慢で気さくさを装うイケている人たちの集まる特別な場所で「この顔」を広く売っていたある真夏の夜、私はあの男――視線をはずすとどんな顔だったのか思い出せない類の冴えないヤツ――と出会った。


 どうやって彼の家までたどり着いたのかは全く覚えていないけれど、彼との最初の会話は覚えている。


「君の名前は?」

「……レイ。多分今の私はそうだと思う」


 彼と出会う数ヶ月前から、私とヴェスパはもうひとりの同じ顔をした少女を創造し、共通の偽名を名乗っていた。「レイ」と決めたのはヴェスパで、この名前なら最終的には全てをなかったことにしてくれるのだと言っていた。哲学的でアカデミックな子なのだ、あの子は。

 

 私はひどい頭痛で唸り声を上げそうになったが、なんとかいつか映画で観た「ミステリアスな女」風のセリフを絞り出し(なんでも最初が肝心なのだから。最初の5秒ででどちらが支配者か決定される)、薬と水を飲ませてもらった。


 まだ頭の奥でなにかが絶えずノックしていて、私は顔を覆った両掌の下で唇をかみしめた。こんな最先端なセンスの塊みたいな洒落た空間から逃げたいのか居座りたいのか、自分自身に問いかけたが堂々巡りでラチがあかない。部屋にそぐわない中肉中背の平凡な男が、なぜか自分の家のように自然な動きでぐったりとした私をソファに横たえ、風邪引き子グマの世話をする母クマのように優しく薄手のヴェールで包んでくれた。今風のカジュアルな執事なのかもしれない、と一瞬脳裏をよぎったことは覚えている。


 しばらくすると頭痛は薄れ、私は両手でその男の温かな手を握りながら何年ぶりかの深い眠りに落ちていった。ようやく「ちょうどいい温度の人」が見つかったと、安堵したのだった。

 

その日から私とヴェスパは彼の家(驚いたのだけど、その家は正真正銘その冴えない男の家だった!)を「レイ」の拠点とし、天涯孤独なみなしごのふりをして、面倒なしがらみからの逃避を刹那的に味わった。


「あの人、ちょっと抜けてるよね」


 彼の家から戻ってきたヴェスパは、私の部屋に入ってくるなりこう言って、ピンクのとがった舌の先をいたずらっ子っぽくペロリと出した。


 足元がふらついていたが、完全に酔っ払ってはいない。ちょっとふざけているだけだ。「それに言う事がいちいち芝居がかっているし、話が長いとめんどくさくなるわ。でも物分かりはいいかも。だってあいつ、レイの部屋には絶対入ってこないもの。ドア全開でも中を見ないように全力で視線を避けるんじゃない? あれでも自分の家なのにね。あんなに優秀な執事、誰も手放さないかもよ」


「確かにね。あそこはあの人の家であって居候みたいなもんなのよ。どの部屋にいたって一ミリもなじんでないわ、あの男」


 ベッドの上で気の早いサンタ・クロースばりの真っ赤なペディキュアを塗っていた私は、すぐに視線を足元に戻した。「ちょっと、揺らさないで」


 ヴェスパはいつもの癖でけだるげに髪をかきあげながらベッドに座ると、わざと両足をばたばたさせて子どものような笑い声をあげていた。かなり機嫌が良いのは双子じゃなくても一目瞭然だった。


 すべての指を塗り終えた私の肩に、あの子は無理やり首を曲げて頭をもたせかけてきた。ぐしゃぐしゃで湿り気のある髪が私の鼻と頬をくすぐり、私は邪険に彼女の身体を押しのけた。


「ねえアピス」ヴェスパは私の力を使ってそのままベッドの反対側に倒れ落ち、「あの人って結局何者なのか知ってる? なんであんなに毎日偉そうで薄っぺらい取り巻きたちがいるんだろう? そんなに世界に影響力があるとは思えないんだけど」と訊ねた。


「さあ。知らない。あの人の生活に興味もないし。それよりこの色どう思う? テカテカしてて人工的でしょ」と私も質問を返す。


「うん、安っぽいビニールのおもちゃみたいで可愛い。……私たちもある意味アーティストよね、ある意味では。それにしてもあの人たちみんな馬鹿。噂話のまた聞きのまた聞きばっかり。しかも話した直後には全部忘れているんだもの。それって時間の無駄じゃない? でも彼のジョークはそんなに悪くないかも。少なくとも鼻につくタイプではないね。あの人って……ああ、もう今日はもう疲れちゃった。バトン・タッチ」


 ヴェスパはそう言うと、本当にそのまますやすやと寝息をたてて、私を現実の世界においてけぼりにした。


 すでにヴェスパはあの男に特別な何か「つながり」のようなモノを感じていたのだろうと思う。なぜなら私もまた同じ感情を持ち出していたから。他人の秘密を共有したいという欲求――私の秘密を共有してもらいたいという欲求――こういう感情は生まれて初めてで、ヴェスパも私も互いに身体の外へ放出する術を持たなかったけれど、彼女の言葉のひとつひとつにあの男の匂いがして、私は少し前からなんとなくおもしろくなかった。


 私はヴェスパのわずかに上下する小さな後頭部を数分眺めてから、わざとバウンドさせるように勢いよく床に降りた。青白い足に浮かぶ十本の爪が濃いブルーの絨毯に埋まって、悪魔の実みたいにうごめきながらなにかを訴えていたが、完全に無視してやった。誰が主人なのか分からせるために。物事にはケジメが必要なんだからね。

 

 文字通りその足で、レイになった私はあの男の家に戻った。顔パスでなじみになったドアマン(彼のちょっと左側に偏った微笑みは好き)の前を通り、当たり前にいつもの部屋に到着した。誰もいないリビングの壁には見知らぬバカでかいキャンバスが掛かっていて、画面いっぱいに彼の似顔絵(まったく似ていないが、たぶんそうなのだろう)が極彩色で描かれていた。実物よりも、と私はそいつに語りかける。少なくともおびえてはいないのね。


 彼はキッチンで水を飲んでいる私を見つけて、おかえりと家族にかける当然の挨拶のように言った。そして私が目だけでうなずくと、うっすら口元をゆがめて笑って、そのまま自分の部屋に戻って行った。

それまで感じたことはなかったのだけど、なんとなく彼が私たちの「入れ替わり」をお見通しのような気がして気味が悪くなったが、それはありえないと思いなおしてとりあえず「レイの部屋」で眠ることにした。だってつまらないことを考えたくなかったから。


 しばらくベッドに横になっていたが、イヤになるほど眠くならなかった。だから私は彼の部屋まで勝手に遊びに行くことにした。いつもは彼と一緒の時にしか彼の部屋には入らないのだけれど、その日は彼なしでも入ってやろうとさえ思っていた。


 自分は自由気ままな野良猫(もちろん黒猫)なのだと空想しながら部屋の前まで行ったとき、中から彼の低い話し声が聞こえた。電話だろうか。それとも誰か他にいるのだろうかと思ったが、干渉し合わないのがこの遊びのルールだと思いだし、猫の気分のまま素通りした。


 要領の良いヴェスパならこういう時どうするだろう。多分あの子も詮索しない。だってこれがレイとあの男との暗黙のルールなのだから。でもこんなことが何回も何日も何カ月も何年も続いたら? それでもルールは破られないのだろうか。レイもあの男も実際はなんの約束もしていないというのに。目に見えるものは何も二人を縛ってはいないのに。いや、ルールを作ったのがレイならば、私たちは自分自身で作った嘘によって縛られているということなのか。それじゃあ一体いつまで? この遊びの終わりは誰が決める? 誰が終わりの笛を高らかに吹くというのだろう。


 彼もレイも彼の取り巻きたちも、月が昇ればランチキ騒ぎ、日が昇れば倦怠感を呑みこんで夢の中で涙を流し、ただ季節だけが舞台の書き割りをマネして街の色彩に変化を与えていると(おそらく本気で)思っていた。みんな毎秒笑って抱き合っていたが、抱き合う相手の本名を知る者はいなかった。隣にいても互いの顔を思い出せない真っ白な群衆だった。もちろん私も……。


 彼と出会って数週間、レイと彼はほとんど毎日一緒に誰かのなんかのパーティーに出かけたり、予約の取れないはずのレストランに気まぐれでふらりと行ったり、有識者たちに評判の舞台を特等席で観たり(残念ながら私はその日、両親と会食していたけれど)した。私たちの共同生活はほどよいヌルさでずるずると続き、私は文字通り夢のようなふわふわした感覚の中を歩いていたけれど、ただひとつだけ気になることがあった。あの男はどこに行くにも例の小さな硬い物体を欠かさなかったのだ。まるで自分の手足のように、眼球のように、耳たぶのように、肉体の一部であることが世界中の全員にとって当然であるように。

 

 なぜそんな些細なことが気にかかるのか、外からみれば不思議に思われるかもしれない。でも私もヴェスパも、彼の病的とも言えるその物体への「依存」を何度も目の当たりにしていて、とても無視できるレベルではなかった。残酷な支配者が彼の心の核に爪を立て、どちらのレイも流れ落ちる血一滴掬い取れない――あの物体を見るたびに私の心臓には、細い針が血管を流れて突っつくピリっとした痛みが走ったものだ。


 今なら正直に言える。私はあの物体がうらやましくてうらやましくて仕方がなかった。夢の中でもあの物体が奇妙な光を発して、私の顔にあざけりの痣を広げる。なにかを、誰かを、うらやましいと思う自分の感情に浅ましさと罪悪感と平凡さをイヤというほど感じて、私は夢を夢と分かりながら血の涙を流すしかなかった。その血は床にしたたり落ちると、影となって私のシルエットそっくりの形に変形するのだ。ズルズルズルズルズルズル……。


 私がきっかけさえ与えれば、彼だけは私とヴェスパを区別でき、私だけを認めてくれる人になれたのに。彼と秘密を分かつのはこの私のはずだったのに。彼と心が通じるのは私だけで十分なのに――彼はあの物体に忠誠を捧げ、血肉を分け与え、彼らだけの共通言語で「人生の秘密」を共有していた。


ガランドウな箱のなかに

なにがあるのか知りたくないか

ふたを開けるのはかんたんだ

ただカギをさがせばいい

カギがみつからなければ

カギのありかを知っているものをさがせばいい

カギのありかを知っているものがみつからなければ

ふたをトンカチでこわせばいい

トンカチがみつからなければ

その足でふみつければいい

足がみつからなければ

その頭でたたきわればいい

頭がみつからなければ

頭のありかを知っているものをさがせばいい

頭のありかを知っているものがみつからなければ

ガランドウの箱をふって耳をすませばいい

本当の闇はそのなかにはないのだと想像すればいい


 ヴェスパは私が日記帳に書きなぐったこの詩を気に入り、背中一面にタトゥーで入れたいと冗談で言うぐらいだった。背中に入れたら自分では見えないよと指摘すると、「あんたが見れば同じでしょ」とあの子はうまくかわした。確かにあの子の背中はすべらかで生っ白くて純真無垢な輝きがあったから、呪術のように長々と文字を刻むのにちょうど良かった。でもどちらか一方が異なることをすれば、私たちは誰にでも見分けがつくからつまらなくなる。つまらないのは嫌い。


 そう、ゲームの終わりは劇的でなければいけないのだ。


 それから数日間ヴェスパは毎日、物憂げではかなく美しいレイとなった。私はいつもの感じで「同じゲームをするのに飽きてきた」風を装い、その役割をすんなりと彼女に譲ってあげたからだ。本当はあの子が「唯一のレイ」になりたくてうずうずしているのを察してあげただけなんだけど。そしてあの子の背中には、私にしか見えない文字がぎっしりと刻まれているのも知っていたのだけれど、あえて教えてやりはしなかった。あの子はあんなに賢かったのに、生まれる時から私に背中を預け過ぎたのだ。


 そうしてあの日が訪れた。あの男とレイの物語の、クライマックスの日だった。私はあの日の朝、なにかが起こることだけは予感していたけれど、誰にも言うことなくじっと生きていた。


 レイと彼との間でなにが起こったのか、実際のところ私は知らない。だって私は「アピス」であって「レイ」ではなかったし、もちろん「ヴェスパ」でもなかったのだから。ただなんとなく感じるのは、ヴェスパがガランドウの箱の中身を知りたくて、よく回ると過信していたおつむを使ったということだ。ちゃんと警告してやっていたにも関わらず、あの子は案外抜けていたから途中までしか覚えられなかったのだろう。


 いつものように想像だけしていれば、今でも彼女は私といっしょにこの世にいて、別の男とレイの物語を作っていたかもしれないのに、本当に愚かでかわいそうな愛らしい女の子。


 そうそう、あの男のことも忘れてはいけない。あの日を境にあの男の生活は劇的に変わっていった。群衆は別の甘いキャンディーの味を覚え、靴の裏に張りついた年老いた犬の口臭い古いチューイング・ガムはマットで無造作にこすり落とされた。掃除夫以外、誰が一体そんなやっかいものの存在を最後まで気にするというのか。それが人生、それが世界。こうして日々情報はアップデートされ、しわのない顔としわくちゃの顔が入れ替わって限られた空気を死に物狂いで吸い合う。


 男はレイをこの世から抹殺した罪で、牢獄という素敵なカゴのなかに生涯閉じ込められることになった。正確には、「男の知り合いに対して『レイ』という偽名を名乗らされていた一般女学生」をだまして連れまわし、最終的に抵抗されて虐待し殺した、と世間ではまことしやかに言われていた。とはいえ、この事件をみんなの噂話にしてもらったのは、まだ事件がタイムリーなゴシップだった短い期間だけだけど……。


 私は時々――ほんのちょっと気が向いた時だけ――薄れていく記憶のなかの彼の顔を思い出すためだけに、陰鬱さとため息と公共の視線を売りにした張りぼてのような建物まで「面会」にいった。毎回彼は私がどんな髪の色をしていても、律儀に「レイ」と呼んだけれど、結局最後までみんなと同じく「どちらのレイ」なのか分かってはいなかった。いや、それどころか「あのレイ」だとも認識してはいなかったのだろう。


 名前も顔もない半分欠けた寂しい女――それが詰まるところ「私」という平凡でつまらない、どこにでもいるからっぽの人間なのだ。


 さあ、大好きな糖蜜パイを食べて、素晴らしい明日が迎えられるように新しい詩を創造しよう。そして誰もいなくなった部屋のベッドで丸まり、私はあの手のぬくもりをなんとか思いだすふりをしながら、泣くこともできずに両目をぎゅっとつむるのだ。いつか明日を迎えられない日がくるまで、私は寡黙な石となり無作法な靴先であてもなく転がされるのを待ち続けよう。 〈了〉



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