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流木ーー松丸謙吾・最後の関八州

作者: マサリン

 その日の夜、梅雨始めを思わせる小糠雨が、あたり一帯に降り注いでいた。

 男は空を仰ぐ。

 月も星も見えず、妙に薄明るい灰色の夜空が、頭上を覆う木々の隙間から見える。明るければ、微風にゆらゆら揺られ、雨粒が落ちる様が見えているだろう。

 盛夏に到る前の鬱蒼と茂った枝葉に隠されて、夜よりも深い闇に男はたたずんでいる。身なりは粗末であまり身分の高い感じはしない。ただ着流しではなく、きちんと灰色の袴も着けている。木の枝が隠して雨が粗末な着物を直接濡らすことはないが、葉を滴ってくる雫は防ぎようがない。長い時間待ちわびて、袴には大きな染みができていた。月代は剃っていない。痩身である。が、日々の鍛錬を欠かしていないのか、無駄のない硬質の体躯をしているのが服の上からも分かる。

 精悍な顔と鋭い視線を何度も上げる。視線の先には六十余段の石段がある。男は何かを待っているようだった。

 階段の上には大きな山門がぼんやり浮かんでいる。門の周囲に明かりでもあるのだろう。山門の方からは男の姿は視認できない。こんなところにやってくるのだろうか、男は訝しく思う。

「山門の先の寺では句会が行われているはずだ。階段の下には参道があって、真間川を越え大門通りを抜ければ、街道沿いに商家や宿屋が建ち並ぶ所に出る。位置から言えば、この階段を通るのが一番近道だ。それに、やつのことだから妾の一人や二人いるだろうぜ。妾の家に行くなら、この道しかねえ」男はそう言われてここに立っていた。

 目当ての男は「益屋」という大店の主で、今晩の句会を仕切っていた。階段の上にある「弘法寺」への寄進額も他を抜きん出て多い。弘法寺は台地の上にあり、この辺りで一番の眺望である。浮世絵の舞台にもなっている。

 当代の益屋嘉右衛門には奇妙な噂があった。「嘉右衛門はまつりごとにご執心だ」というものだった。この頃の「まつりごと」とは攘夷のことである。

 男の目の前の六十余段の階段には途中三カ所の踊り場がある。階段の上半分の両脇には青や赤、額紫陽花の白、色とりどりの紫陽花が咲いている。ちょうど二つ目の踊り場まで紫陽花が続く。紫陽花は低木なので、屈まなければ身を隠せない。

 男の立っているのは三つ目の踊り場の脇だった。そこには一抱えの紅葉の木が立っている。それほど太くはないが、闇のなかで身を隠すには十分だ。

 男がそうして一刻が過ぎようとしていた。一刻ほど前に一応、遠目に益屋嘉右衛門らしきものが寺に入るのを確認していた。そのまま、寺内で夜を明かすことも考えられた。また街道沿いの商家の並ぶ街場に出るには、他にも通り道があった。そちらへ益屋が行った場合、お手上げだ。

 この道を通ると絶対の自信があるわけもなし。他へ行かれたら、それはそれで潔く諦めようと決めていた。というより、諦めざるを得ない。前金の二十両はそっくり返すしかない。

 木々のどこかで鳥が奇声を上げて、羽ばたいていくのが聞こえた。男の身体にわずかに緊張が走った。

 見上げると山門の方に光源が近づいてくる気配がした。

「旦那様、大丈夫でございますか」

 若い男の声が聞こえ、続いて光源がはっきり近くなってきた。白い提灯が見えた。

 男は改めて身を紅葉の木に隠した。そしてゆっくりと極力音を立てないように鯉口を切った。

「うるさい、手を離せ」

 提灯の薄明かりに照らされているのは、大店の主人とおぼしき、身なりの上等な男と手代とおぼしき若い男であった。手代は左手に提灯を持ち、右手で主人を支える。

「なんだあれは、あれを照らせ」

 階段の脇にある紫陽花を指さして、そちらへ歩いて行こうとする。その足取りは酒に絡め取られているらしくおぼつかない。まるで立ち始めの赤子がヨチヨチ歩くようだった。

 紅葉の木の脇から様子をうかがっていた男は頭上の二人に気取られないように深くため息をついた。

 ――来てしまったか。

 それが男の本音だった。

 ――それにしても、用心棒もなしか。

 酒が気を大きくしているのだろうが、なんとも不用心だった。まつりごとに興味があって、なおかつこのご時世、夜道をほぼ独りで歩くなど考えられぬ。そんなことはできようはずがない。

 ため息の後にはふつふつと怒りが湧いてきた。

「なんだ、紫陽花か。もう入梅もまもなくか」

 誰に聞かせようというものでもないだろうが大声でそうごちた。手代は主の問に応じないわけにもいかず、「左様で」といいながら、主人の脇から手を入れる。

 階段の上で仁王立ちしながら叫ぶ。

「もうこの国も安泰じゃ。水戸様が出てくれりゃ、もう大丈夫じゃ」

 なんだか分からないが、満足げにそう叫んで、太鼓腹を打っている。

「分かりましたから、旦那様、お声が大きゅうございます」

「何を言う。いつもと同じ・・・・・・あっ!!」

 主人は足を踏み外した。手代は転がり落ちる主人を止めようと両方の腕と全身で抱え込もうとする。手代のもっていた提灯が落ちた。提灯の紙がメラメラと燃え落ちたが、水溜まりに落ちたのですぐに消えた。恰幅の良い益屋は転げ落ち、支えきれず後から手代が転がり落ちる。

 踊り場でもその勢いは止まらない。

 そのまま、一つ目の踊り場、二つ目の踊り場でも止まりきれず、肉塊は落ち続けた。三つ目の踊り場にさしかかるタイミングで、男は紅葉の木から踊り場に出た。そして転がってくる益屋嘉右衛門を受け止めた。手代は後ろから、階段の下まで落ちていった。

 男は益屋を立たせて、益屋の奥襟を左手で掴んだ。もう片方の手は刀の柄を握っている。

 益屋は襟首をもたれながら、顔は恐怖で引きつり、肩で大きく息をしている。顔を見る限り目立った外傷はないようだが、明るいところで見ればアザの一つもあるかもしれない。

「申し訳ござりませぬ。助かり申した」

 と言って、益屋は男の顔を見た。

「益屋嘉右衛門だな」

 物言いの堅さから、武家のものと判じたのだろう。手代に対するのとは対照的に態度が慇懃になった。

「左様で」

 まるで頸の皮をつまみ上げられたネズミのように、身体を丸めている。恐縮しているのだろう。

「どちらさまで・・・・・・、お、お離ししください」

 男は襟首を離そうとしない。

 階段の下で転がっていた手代の身体がゆっくりと起き上がるのを視線の端で見た。全身をしたたかに打ったのであろう。手代は腰をさすりながらうめいた。

 男は益屋の襟首を不意に離した。益屋は酒のせいか、階段を転げたせいかはわからないが、ゆっくりとよろめいた。その刹那、男の腕が高く上がった。後に手代が語った証言によると、

「まるでずり落ちてきた袖を直そうと腕を上げたようだった」そうだ。

 山門の薄明かりしかなかったが、手代には益屋の首が胴から離れるのが分かった。気の抜けるような音、血しぶきが上がるのも見えた。胴の方は、そのまま踊り場に仰向けに倒れた。そして、首らしき塊が階段を転げてきた。塊は階段の下で膝立ちになっている手代の足にぶつかって止まった。衝動的に、手代は塊を掴んだ。血か、酒のせいで顔に浮かんだ脂のせいか、ヌルリとした感触と毛の感触がした。その感触にそれがなんなのかを理解して、へたり込んでしまった。

 男は刀を振って、刀身に付着しているだろう血と脂を払った。そうして刀を鞘に収めた。

 殺してしまえば、もう用はない。本来なら手代も切った方が良いのだろうが、もうどうでもよくなってしまった。階段をゆっくり降りて、手代に近づくと、手代は気配を察して、身を固くして顔を上げた。白い歯が闇に浮かんだ。白い歯は歯の根が合わず、カタカタと音がしていた。その姿を見て興醒めしたのも、手代を逃した理由だった。

 手代の膝には益屋嘉右衛門の首が乗っていた。

「大事に持ち帰れよ」

 と余計なことを言った。言われなくともそうするか、非が自分に及ぶなら、捨てて逃げるだろうよ。ただ、その言葉で自分が助かるのだということを知った手代は、放心した。呆けたまま、男が去っても、階段をずっと見続けていた。

 男はそのまま大門通りを街道に向かって走って行った。大門通りの両脇は真間川であった。梅雨どきで真間川は増水していて、まるで浜辺のようであった。

 闇が男を包んだ。

 男の後ろでカラスが二羽飛び立ち、大きな黒い羽が舞い落ちた。


「またですね・・・・・・」

 目明かしの熊八はため息まじりにそう言った。向かいには同心の松丸が座る。二人は弘法寺の階段下であった惨殺事件の現場に行って、現状を見た。その後に大門通りを通り、街道筋に出て、そば屋に入った。この後は益屋へ行って事情を聞く。

 熊八はそばを食べようという気になんぞなれるわけもない。

 向かいの同心も同じで、だんまりを決め込んで、まだ昼前だってのに酒をあおっている。空になったぐい飲みにすかさず熊八が酒を注ぎ込む。注ぎながら、

「なんだか物騒な世の中になってきましたな。こんな田舎で人斬りなんて。しかも近々に三件も。京や大阪じゃないんですぜ。あっちは荒れ放題だっていうじゃないですか。攘夷ですか。それにしたってここいらは将軍様直々に治める場所ですぜ。そんなところで、まったく。切られたのも商人だってんでしょ。それに懐のものにはいっさい手をつけず。なにか恨みでも買ってるんしょうかね」

 熊八は外に眼を向ける。往来を行き来する人々はいつもにも増して平静を装っているように見える。

 あんな現場を見てきたからだろうか。

 首を切り離された胴からは多量の血液が宙を舞ったらしい。階段の三つある踊り場の三つ目より下は、まるで緋毛氈を敷いたように血に染まっていた。益屋嘉右衛門が切られてまもなく、梅雨の雨は止んだらしく、水に混じって広がった血を押し流しはしなかったようだ。

 凶行の一部始終を見ていた手代の亀吉は身振り手振りを交えながら様子を語るのだが、歯の根は合わず、思わず手にとって支えたくなるほど指先が震えていた。

「おまえ唇が震えているぞ」

 松丸に指摘されて、自分の声が震えているのに気づいた。

「亀吉も震えていたな。かわいそうに・・・・・・。ありゃ、一生頭に焼き付くだろうぜ」

 一杯飲めというように呑んでいたぐい飲みを差し出され、熊八はそれを押し頂いた。松丸が徳利を傾け注いでくれた。それを熊八はぐいと飲み干して、右手で顔をつるりと撫でた。

「おまえが言うとおり。こことて徳川様の御領地よ。だから信じられないけれども、水戸様の脱藩浪士が近頃この辺りに出没していると聞く。そいつらの仕業かもしれぬな」

「そんな輩がどうして商人を切ったんで。関所の番人やら、役人やらを切ったってんなら話が通りますがね」

「そうなのだ。それが分からぬのよ。三件とも、切られたのはいずれも大店の主なのだが殺された以外に実害がない。まさか、そんな浪士を探し出したとはいえ、正直に話すはずもなし。手繰れる糸がない」

 ところがだ。

 新しく運ばれてきた徳利とぐい吞みで、松丸は手酌で飲んだ。顔色は少し紅潮している。

「今回は、亀吉が生きている」

「最低限、男と女のいざこざという筋はなくなったということですな」

「そうだな」

 もっとも亀吉が言うには、あるじを斬り殺した男については、暗くてその容貌がはっきり分からず、また暗がりに浮かんだ黒い影は会ったことがあるような体躯をしていたわけでもないらしい。

「どうせなら、そういう艶っぽい話のほうが好きなんですがね」

 何かに触れていないと指先まで震えそうで、二の腕を強くこすった。

 松丸はなにも反応しなかった。

 店の戸は開け放たれている。外から梅雨の湿り気が容赦なく入ってくる。着物も身体もすべて湿ってしまうような勢いだ。

「少なくとも、三件の人斬りのうち、最後だけは別の人間のしわざかもしれぬということだろう」

 前の二件は一緒にいた手代まで容赦なく殺されていた。

 片方の手代はまだ少年であった。

「それに、この田舎だ。もともと住んでいるものが怪しげな動きを見せれば、すぐに周囲のものにばれてしまいましょう。街の外からやって来たものかもしれませんな」

「そうであろうのう」

 とにかく、人の出入りについて、もう少し周囲で聞き込んでくるということで、二人は店を後にした。


 熊八が松丸と組むのは初めてであった。

 実はよからぬ噂を聞いていた。

 決まったときには他の目明かしから、「大変な御仁と組んだものだ」と同情された。

 そいつが語るところによると、松丸は「出世欲の塊らしく、人使いが荒い」らしかった。

「前に組んでたやつ知ってるだろう、とみさんだよ。働き過ぎで殺されたらしいぜ」

 熊八が知っているその「とみ」は齢六〇を過ぎたじいさんで、殺されたのか、勝手に死んだのか、怪しいものだった。ただ、そんなことが言われているのだから、同心松丸があまり周囲に好まれていないのは確かだろう。ただ、死ぬほど働かせる御仁の割に、厳しい発破をかけられたり、煽られたり、縛り付けるような言動はあまりないようだった。なんなら、熊八に関心すらないようにも感じた。

 だいたい、出世っていっても、出世しがいのあるご時世とも思えない。

 黒船がやって来て以来、幕府も大わらわ、右往左往で、ついに自分の手に負えなくなったのか、京の帝に御意思を伺うことになったらしい。世情に詳しい方でもない熊八でもそれくらいのことは知っていた。

 出世してよいのは太平楽な時代の話で、嵐が吹き荒れるときに、凡百が出世してもろくな事はない。それでも出世したがるのは、勘違いしているか、頭になにか湧いてるかどちらかだろう。

 熊八の目には松丸はそのどちらにも見えなかった。


 翌日、街道沿いにある飴屋に熊八はいた。その店の名物は大根飴で、喉を痛めたときに重宝すると評判だった。

 そこの女主人お園は福々しい老婆だ。小さい頃から熊八や近所の子どものことをかわいがっていた。だが、お園は亭主と若くして死に別れ、子どもがいない。

「なんだい、あんた、何しに来た。金ならないよ」

「なんだよ、そりゃ」

 引き戸を開けた途端、熊八はそんな叱責を浴びた。思わず肩をすくめる。

 表面的には疎んでいるようで、そうではなかった。

「いやさ、これになっちまったろ」

 と懐から十手をチラリと見せる。女主人は顔をしかめる。

「目明かしなんかにならなきゃ良かったよ」

 様々な種類の飴が入っている陳列棚の奥を通って、上がりかまちに腰掛ける。色とりどりの飴は艶やかだった。

「だからお止しって言ったろ」

 横に腰掛けながら、お園は言った。顔をしかめているのだろうが、しわが多いのか、しかめているのか判断に迷う。髪は確実に白髪の量が増えた。

「今更言ったって、後の祭りってやつよ」

「しょうのない子だね。ちょっと待ってな」

 と言って再び立ち上がった。いい年して「子」か、と熊八は苦笑するがお園の言葉は夏の夕立のようで体にあたる感触が痛くて気持ちが良い。お茶を用意するのだと思って、「いいよ、話が先よ」と言った。お園はかまわずお茶の用意をして戻ってきた。昔から世話好きなのだ。

「で、今日はどうした。おばさんを捕まえるかい」

 急須を傾け、お茶を朱色の湯飲みに出しながら言った。

「まさか。あの、知ってんだろ、この参道の先の弘法寺で人斬りがあったの」

「ああ、聞いてるよ。益屋のご主人がやられたんだろ」

「そうなんだよ。でさ、いろいろ聞き込んでるんだけど、はかばかしくなくてさ。みんなオイラの顔を見ると、『知らねえ、知らねえ』って何も教えてくれねえのさ」

 湯飲みからお茶をすする。情の濃いおばちゃんらしい濃いお茶だ、と熊八は思った。

「そりゃそうだろうね」

「というと」

 お園は、少しだけ逡巡した。

 それから、お園は「アタシがしゃべったって言わないでおくれよ」と念押しして、話し始めた。

 三件の人斬りはいずれも大店の主人が被害に遭っているが、それぞれ寄り合いの帰りに凶行に遭っている。

「その後に必ず盗人が入ってるんだって」

 通夜や葬儀が行われるが、その後も跡取りをどうするのかとかなんのかんの様々な雑務が発生する。そんな日々で疲弊しているところに盗人が入るらしい。

「そんな届けはあったかな」

 熊八は小首を傾げる。

「そりゃお上に言えないこともあるだろうよ。いろいろ探られたくない腹もあるんだろうね」

「探られたくない腹・・・・・・」

 現代でも会計の知識がなければ企業の金の動きが理解できないように、当時の商家の帳簿もかなり複雑になっていたらしい。

「で、益屋の探られたくない腹ってのは」

「アタシが知るもんかい。アタシはしがない飴屋だよ。益屋とつきあいでもあれば別だけど。そういやなんだか噂は聞いたことあったね」

「主人がまつりごとに夢中ってやつかい」

 熊八は顎をさすりながら聞いた。

「――にしても、探られたくない腹ってのが、金だったとして、そんな金を何に使ってたんだろうな」

「あきれたね、アンタ目明かしなのになぁんにも知らないんだねぇ」

「なんか知ってるのか」

「だから知るわけないだろう。みんな言わないのかい」

 熊八は店頭に並ぶ陳列棚から大根飴を失敬した。口に放り込む。口のなかに、大根の苦みと甘味が広がる。

 子どもの頃ならこんな不躾なことをすればお園に叱り飛ばされたが、今ではなにも言われない。

 熊八が昔なじみのお園に顔を見せただけで、お園は嬉しそうな表情を浮かべた。お園の心情を知っていて、熊八はその気持ちに甘えるようなところがあった。自分で分かっていたし、大人として、子どものころと同じ甘えは良くないのかもしれないが、それをなんとも変える気になれなかった。

 大きな迷惑をかけなければ良いじゃないか。

「いや、なんとなく見当は付くんだけどね。付くっていうより、聞いたことあるしね」

 皆が言いたがらないその真相をお園から聞き出せば、お園にその大迷惑が及ぶかもしれない。その自覚はあった。しかし、職責上やらねばならぬ。

「聞いたら、おばちゃんに迷惑がかかるんだよな・・・・・・」

「でも、アンタもそれを知らないと立つ瀬がないんだろ」

「うん。

 聞いてまわっても何も答えちゃくれねえ。こんな田舎でも裏で何かが蠢いているのはひしひし伝わるのさ。

 けれどもそれがなんだかわからねえ」

「そうかい」

 お園は明らかに逡巡していた。

「いや・・・・・・」言えないのなら良い、と言いかけると、お園の方から熊八の二の腕のあたりを引っ張って、それ以上言えないように制した。

「いや、いいんだよ。でも、本当にこのことは内緒にしておくれな」

「わかっているとも」

「水戸様のね、浪人を匿っている、って聞いたことがある」

 あまりの内容に熊八は驚いた。お園の目を凝視する。

「なに言ってんだおばちゃん。水戸様の浪人が切ったんだろ」

「逆だよ、逆。どうして匿ってやってんのに斬られるのさ」

「だって、ここは将軍様直々に治めてる土地だし、旗本衆の御領地だってあるんだぜ」

「そうさ、アタシだって分かってるよ。ただね、みんなが言うには、後々のことを考えて何か見返りを得るためにやってんだって」

「見返りね。誰から。水戸様から」

 さあ、と言って、お園は小首を傾げる。

 店の入り口から近所の悪がきどもが入ってきた。みんな泥だらけになっている。きっと真間川の近くで遊んでいたのだろう。みんなで塊になって店に突っ込んできて、なにやら叫び棒きれを振り回す。着物の尻をからげ、泥だらけの尻を丸出しにしている。

「ほら、そんなに泥だらけになって。店に入るんじゃないよ」

 お園は子どもの泥を洗い流すのだろう。いったん店の奥に引っ込んで水桶を持って出てきた。

「ほら全員並びな」

 と店の前で全員の足と尻を洗わせた。みんな、「しゃっけー、しゃっけー」とギャーギャー騒いでいるが嬉しそうだった。

「うるさいねアンタたちは」と言いながらも、お園おばさんも嬉しそうだ。

 熊八は自分の子どものころを思い出していた。やはり自分たちも同じようにお園おばさんの厄介になっていた。おばあさんになっても同じことをしていて嬉しくなった。子どもたちが自分たちと同じように育つのなら、なにも心配がない。お園のような人間がまつりごとに夢中になるような時代が来たら、それこそこの世の終わりなのだろう、と熊八は思った。

 お園のような存在は思想にもまつりごとにも無縁で、ただただ世の中の底を支えている。こういう存在がいなくなったら、世の中は終わるのだ。

 子どもたちはお園おばさんが揚げたかりんとうにかぶりついていた。

「じゃ、またくるよ」

「あんたはかりんとうは要らないのかい」

 というお園の声と子どもたちの囃し立てる声に背中を押され、飴屋大黒屋を後にした。いつものように店を出るときに、さっき失敬した大根飴の代金に少し足したお代を置いていった。


 翌日、例のそば屋に熊八は呼び出された。

 お園の名は伏せて、昨日聞いたことを報告した。

 松丸は呑みながら熊八と相対していた。熊八が話す間は、腕組みをしたまま、酒に手をつけずに話を聞いていた。

「水戸というと、今は藩の中がごたついててな。どうにもまとまれないらしい。黒船が来て以来どうもな」

 十四代将軍家茂の時世、黒船が米国からやってきて以来、いわゆる開国路線を取らざるを得ないと考える堀田正睦、井伊直弼らによって、日米間の通商条約が次々に締結された。

 今日の天皇の意向を顧みず行われたその交渉に、攘夷派は不満を持った。

 大老井伊直弼はその動きを弾圧した。それは「安政の大獄」と呼ばれる。吉田松陰などが処刑されたが、江戸から追放された水戸藩士もいた。その一人が儒学者藤森天山であった。藤森は今の市川市行徳の辺りに逃げ込んだ。そして篤志家の間を転々として機をうかがった。

 藤森は行徳で「有隣堂」という私塾を開いた。門下には後に小学校教師となる近藤吉左右衛門や、明治に入り衆議院に建白書を提出する、中山の開業医中根玄益がいる。それだけ、行徳という土地は栄えていたということになる。その栄華の源は塩だった。

 江戸幕府を開いた徳川家康は鷹狩りが好きだった。主に現在埼玉県の忍や川越、千葉県の東金、そして行徳を含む葛西でも鷹狩りを行った。

 船で行徳にやって来たときに塩田があるのを発見して、整備を命じる。

 歴代将軍が行徳の塩田を保護した。塩の質としては、瀬戸内の塩などと比べ、良くなかったらしい。

 そうして作られた塩を運ぶ船を行徳船と呼んだ。行徳船は塩だけでなく、年貢米や野菜を運ぶようになった。物流の交差する場所であった市川行徳地域に集まった物産も運び、銚子の魚までも運ぶようになった。帰りは江戸の文物を運んできた。そうして文化度も上がっていった。

 幕府の保護によって栄えた豪商が御政道の考えと反する者を匿うというのはいただけない。先に挙げた藤森のようなものならまだしも、そうでない場合も多々あるだろう。

 松丸たちは、幕領と呼ばれる各地にある幕府直轄地のうち、関東の幕領の治安維持のために働いている。

 その役目は「関八州取締役」といった。

「ただな、水戸は手を出しにくいのよ」

 御三家には手を出せない決まりだった。

「八州様でもね」

 熊八はごちた。

「どこからともなく、水戸の誰彼が幕領に入ってきたという情報が入ってきてはいるのだがな」

 蚊がいるわけでもないが、松丸はおのれの頬をピシャリピシャリとぶつ。

「へえ。そうなんですかい」

「蛇の道は蛇というやつだな。水戸の話は水戸のあたりから漏れ伝わる。揉めてる藩の結束は弱い。特に敵の話はどこまでも漏れる。相当な跳ねっ返りもいるらしいよ。だが、今回は水戸の跳ねっ返りの仕業ではないのだな」

「へい、そのようで。じゃあ誰なんでしょう。まさか御大老様か、幕閣の誰かのご命令なんでしょうか」

 市川の近くには堀田正睦の領地が佐倉にある。

「わざわざ商人を斬って、大衆の反感を買う必要もあるまい。気に入らなきゃ、召し捕ればよい。やつらの動きなんぞ、かなり知れてるのだからな。商人を斬って恐怖を与えれば、協力する者がいなくなり、金脈を断てば日干しにはできるがな」

「どういたしましょう」

 と熊八が今後をうかがう。

「厄介なのはこの辺りの町衆が合力したがらないことだよ。どうしてなのだろうか。少し思案の時間をくれ」

 二人は店を後にした。

 梅雨空は相変わらずだが、かろうじて雨は上がっていた。ただし、寸時のことであり、すぐに再び砂を蒔いたような梅雨の細かな雨が降り注ぐだろう。

 ぬかるんだ往来を二人は歩く。

「それにしてもここは幕領なのだよな」

 正面を見て歩きながら、松丸は独り言のように言った。

「はあ」

 と熊八はため息のような返事をした。癖のある御仁というのがどうも引っかかっていた。

「お前さんも、この土地で生まれ育っただろ。やっぱり益屋の気分がよく分かるのか」

 嫌なことを言われるような気がして、身が少し強ばる。

「いやな、神君が幕府を開かれて、数百年が経つ。神君自ら塩田を保護され、それが源泉となり、富を蓄えてきたというのがここの商人どもだろう。少しばかりお上が揺れたからといって、お上が江戸払いをしたやつらを匿うなど、オレからすれば信じられぬのだよ。あまりにも不義理じゃないか。

 もちろんな、江戸から文物が入って新しいものにかぶれるというのも分かるよ。今は攘夷が優勢だよ。だがな、こればっかりは、攘夷と開国のどちらが正解かなんて、後にならねば分からぬさ。では攘夷から開国が優勢になれば、ここいらの連中はこぞって宗旨替えするのか。そりゃあんまりだろう。そうなったら、そうなったで、水戸の連中も放逐か」

「世の中そんなもんだろ」

 と言いそうになって、急いで飲み込んだ。

 おそらく松丸はそんなことは百も承知でそんなことを言っているんだろう、熊八はそう思った。熊八は松丸の奥底にある、熱のようなものに触れた気がした。それは松丸自身の職務に対する熱以上のものがそこにあった。自分の故郷である江戸を愛しているようだった。それが松丸の根底にあって、それが松丸を支えていた。自己愛の源泉なのだろう。

 熊八にはそこまで言語化できるわけもない。ただただ、熱を感じ、熱にほだされた。

 そしてその熱を「一本気な御仁」として理解した。そう考えてしまうと、熊八にとっては幼稚な男になってしまった。稚拙な理屈を臆面もなく発露する男の熱に皆ほだされて、死ぬことを厭わないで働いてしまうのだ。それが松丸という男の厄介さだ。

 松丸の大柄な体格は、そんな行動力や言動を、涼やかにしてしまう。出会ったときには暑苦しいと感じていた松丸の風貌に対する印象が変わった。

 ただ、それは松丸のような男ならではのことだ。関八州になるくらい家柄にも恵まれ、恵まれた環境に育ち、恵まれた生業についているから、屈折しようがないのである。食うや食わずやで、生活に追われている連中や、金にしかよりどころがない連中は、そんな「正しさ」より、目先のことが第一だ。

 幕領にもかかわらず、水戸の連中を匿っているバカどもも、本音を言えば、攘夷にも開国にも興味がない。松丸は教養がありすぎるのだ。

 そう自分に言い聞かせて、岡惚れしてしまう自分の感情を押し殺した。

「あんまりいじめねえでくだせえ」

 そうやりすごしたが、案外その「本音」の部分を突けば、簡単に落ちるのではないのだろうか。いや、立っている土俵が違う。分かりあえないだろう。

 熊八は心ここに在らずの状態で歩いていて、ぬかるみにはまった。


「話が違うではないか」

 大野村の外れ、一見すると百姓家のうちには、その家のものとは思えぬ風貌の者が五、六人たむろしていた。梅雨で蒸すのか、全員がほぼ半裸である。薄手の袢纏を引っかける者もいる。袢纏の色は派手である。

 伊織はその中心にいる者に詰め寄っている。詰め寄られた相手は勘蔵と言った。日盛りの内にはほとんど外出しないくせに、肌が異様に黒い。勘蔵は片膝を立てて座って、ぐい吞みを傾けた。

「大和久のダンナ、勘弁して下せえよ。後金の三十両だってお支払いしたはずですぜ」

「おぬしが申していたのは、世直しのみであった。世直しのために殺してくれ、ということだった。これでは盗みの片棒を担いでいるようではないか」

「冗談言っちゃいけませんぜ、ダンナ。食い扶持に困っているようだから、お誘いしただけですぜ。ご自分だって分かってたんでしょ。だから、コソコソ殺しに行ったんでしょ。良いことしてるんなら、どうしてコソコソ辻斬りみたいなことをするんで。堂々と益屋に乗り込んでいって、全員皆殺しにすれば良い」

 他の者が、「へへへ」と低く笑う。

「要は肚の虫に負けたんでしょうよ。

 人間、肚の虫と泣く子には勝てませんて。

 こだわりすぎですぜ。肚がくちくなりゃ、何でもいいでしょ。良い米も悪い米もねえ。まさか懐の五十両もの大金、薄汚え金子だとかぬかすわけじゃねえでしょ。金は金、光り方も重さも変わらねえですぜ」

 伊織は膝の上で袴を強く握っていた。

 大和久伊織がどこの出の者かはよく分からない。ただ、言葉の訛りから関東のものではないのかもしれない。それくらい訛りがきつかった。若い折りに父親を酒の席のいざこざで斬り殺された。理由などどうでもいい。いや、どうでもいいくだらない理由で斬られた。当然斬った後、相手は出奔、行方知れずである。

 藩の内で剣の腕前で人後に落ちぬ伊織は、気分があまり乗らなかったが、周囲の圧力に負け、敵討ちの旅に出た。

 剣術の腕も確かだったが、それも伊織が望んだことではなかった。競うことがあまり好きではなかった。

 父親のことも剣術同様、好きではなかった。伊織と真逆で父親は争いごとを好む質だった。父親は伊織にも同じように生きるように強いた。

 だから斬り殺されたときも、

「言わぬことではない」

 と思っただけで、ほとんど同情の念も湧かなかった。

 幼少期に地元の剣術道場に連れて行かれたときのことは覚えている。奥に長い掛け軸のかかった道場だった。板敷きに円座をあてがわれ、道場主、後に師匠になる者と対峙した。幼くて話の内容は覚えていないが、板敷きの下、地面から這い上がり、いつまで経ってもぬくまらない床の冷たさだけはよく覚えていた。

 気乗りのしない修練だったので、目立たぬよう振る舞っていたのだが、子どものころから目立って上達した。伊織に言わせれば、剣の筋が云々というより、他の同門は皆頭が悪かった。何事にもコツというか、筋というものがあって、それを掴もうとせずにむやみやたらに木刀を振り回しているようにしか見えなかった。

 ――天賦の才がある。

 と師匠にも言われたが、ありがた迷惑だとしか思わなかった。

 そんな師匠も大した男ではないと思うようになった。

 父が殺されたのは、十六の夏の日だった。

 そのころには、伊織は免許皆伝を与えられるのも近いと目されていた。

 父が殺されたと知って、伊織以上に道場の他の面々が色めきだった。皆、伊織が敵討ちに行くと思っていた。

 しかし、伊織は周囲のそんな気持ちも取り合わなかった。

 今のような情報が無駄に錯綜する社会とは違って、人一人の動向を探るのも一苦労だった。こんなときに雲を掴むような人捜しなどまっぴらごめんだった。父親に同情しているのならまだしも、そんな気持ちはまったく湧かないのだ。

 これからの母親や我々の苦労も知らずに、酒の上の喧嘩で命を落とす。まぬけだとしか思えなかった。

 それに出会ったとしても、そこから人を斬り殺すことを考えると、伊織にはまったく自信がなかった。剣術はあくまで道場での練習に過ぎない。本気で死にもの狂いになった人間と戦って、完全に自分が勝利を得るなんて思えない。どうしてそんな賭けをせねばならぬのか。そう考えて、行動を起こさなかった。

 父が殺されて、半年ほど経った夏の日であった。

 稽古帰りに仲の良い道場仲間に呼び止められて、忠言を受けた。

「どうしてお前は父の敵を討たない。お前、陰で腰抜け呼ばわりされておるぞ」

 言わなくともよいことをわざわざ伝える者というのは、いつの時代でもいるものである。陰口なのだから、陰にその悪口を吊しておけばいいものをわざわざ日向に持ち出すバカがいるのである。

 ――本当にありがた迷惑だ。

 顔をしかめて、忠言をしてくれた者を見てしまった。同僚は不思議そうな顔をしていた。

 友の忠言があっても、伊織は知らぬ振りを決め込んでいた。ところがある日、師匠に呼び出されてから、様相が変わった。

 例の板敷きの間に、師匠と相対して座った。初めてこの場所に座ったときのように。あの頃とは違って、円座など敷かれてはいない。それとしんしんと冷えていたあのときとは違って、晩夏の板の間は燃えるように熱かった。

「其処許はいつになったら行くのだ。お主が行かねば道場の沽券にも関わるのだぞ」

 腕を組んだまま、白髪で白髯の師匠は言った。

 あとで忠言をしてくれた友人に聞いたところによると、要するに道場で一、二を争う実力のある伊織が、臆したように父親の敵を討ちに行かぬ、伊織がそのような卑怯な行為をしていては、藩内で道場に通う者や師匠のメンツが立たぬ、ということらしい。

 師匠にそう言われたときは、どうしてこんなことを師匠が言うのかと訝しんだ。

 それだけでなく、師匠は伊織のことを藩の他の人間に吹聴していたらしい。自己保身のためにあることないことを言っていたのだろう。

「師匠には師匠の立場があるのだから、分かれよ」

 と先の友人に肩をたたかれ言われて、失笑してしまった。

 元々人間味のある師匠ではあった。だが、大空を飛翔していた鳳が、地に落下して、再び飛ぼうにも飛び方を忘れてしまった、そんなふうに師匠を見るようになった。

 実に下らぬ。

 自分が聖者気取りをするつもりはないが。あんまりと言えばあんまりであろう。

 それに。

 道場内でそういう論調に乗っかって踊る連中のメンツも頭に浮かんだ。

 つまるところは男の嫉妬だ。

 このところ、不安定な政情が反映しているのか、剣術を学ぶ者が増加していた。百姓の次男坊、三男坊も学ぶ者が多い。もちろん武家の者も熱心に学ぶ者が増えた。剣術を学んだとて、健全な武士道精神を持っていることなんてない。

 内情は妬み、嫉み、ひがみの充溢した世界だ。それこそ隙あらば斬り殺そうと手ぐすね引いている手合いもいるだろう。いや直接に手を下すならまだまし。こうして利用できるのであれば師匠ですら利用して、手を汚さずにつぶすのである。そういう手合いの理屈では、「つぶされるヤツが悪い」のである。

 こんな田舎の小さな道場で、一番になることの価値を伊織は見いだせなかった。が、他の頭の悪い連中にとっては、小さいとか田舎とかどうでもいいのである。競争心と無聊を慰められれば、それでよいのである。本気で斬り結ぶ戦場では尻込みするような、その程度の玉しかどうせ持ち合わせておらぬ。伊織にはそれが見えていた。そんな同輩の軽々しい策謀にどうして恩師は乗ったのかといぶかしく思った。いぶかしさと同時に答えは簡単に出た。

 そりゃ、いくら腕が立つったって、あまり覇気を感じない男が自分の弟子たちの頭に座ることを面白く思う人間もおるまい。ふがいないと思うにちがいない。

 伊織の立場からすれば、「そんなふがいない人間を抜けない程度の弟子しか育てられないお主が悪いだろうに」ということだ。

 つまり、くだらない同輩と凡夫の師匠の利害が一致したのだ。

 そんなことを考えていると、目の前に座っている老いた男が、まるで猿にしか思えなくなった。密かに失笑した。師を蔑む思いがふつふつと胸中に沸いてくる。それはまるで制御が効かなかった。

 ――ふつふつ、ふつふつ。

 泡が次々と液体のなかを浮かんでいくところを伊織は想像した。

 いや、この思いはこの十数年、密かに抑え込んでいたものなのだ。覆っていた砂が嵐に吹き飛ばされ、出てきたのだ。

「藩からのご許可はいただいておる」

 師が免状であろう紙束を懐から取り出し、伊織の目の前に置いた。その束を開き、中身を確認した。藩主の花押を見たとき、首筋をせり上がるような気配を感じた。殺意だ。

 目の前の男を殺し、出奔して、他の弟子が敵討ちに来たところを返り討ちにしてやろうか。

 いや、他の弟子たちが敵討ちなどしようはずもない。また誰かに責を押しつけ、だんまりを決め込むのは必定。馬鹿の被害は自分だけで良い。目の前の凡夫は殺されるだけのことをしているのである。

 凄惨な顔をしていたのだろう。

 師の老爺は驚いた顔になった。

 さすがに気づくか。

 師の表情に怯えを見た。

 そうか、己はとうに師を越えていたか。

 それはそうか、こちらは青年、師は老いている。

「これはお主を思ってやっておるのだぞ。武士にとって名誉ほど失ってはならぬものはない」

 師は焦った顔でそう言った。

「左様で」

 としか答えられなかった。そのまま慇懃に頭を垂れた。

 懐に免状をしまい、道場を後にしようと立ち上がった。道場の入り口まで進み、振り返って神棚と掛け軸のある床の間に向かって一礼をする。掛け軸の前には目を見開いたままこちらを凝視する老爺がいた。

 ――どうしてほしかったんだ。破り捨ててほしかったのか、嬉しくて涙を流してほしかったのか。嬉しかったら、敵討ちをせずにうだうだ過ごすはずなかろうに。

 道場を囲う生け垣に沿って、歩きながらそう思った。

 ――どうせこの後、あのじじいは己の体裁を繕うために、あることないことを吹聴するのだろうな。

 ――同輩はそれに乗っかるのだろうな。

 ――母上はどう思うか。

 ――煮え切らぬ。

 涙が滲んできて、必死にこらえた。自分が情けなかった。

 怒りにまかせて暴れればよいものを。全員斬り殺せばよいものを。

 快男児になれぬ男よ。

 無駄と分かっていても、流れに身を任せて、敵討ちでもなんでもすればよい。

 おのれの心情のまま、戦えばよい。

 ならば世情に訴えることくらいできるのに。

 冷めたまま、何もなさずに、ネズミのように追い立てられ情けなく逃げる。

 情けない。

「それで楽になれる」と思ってしまう己の脆弱さよ。

 こらえきれなかった涙が頬を伝った。


 そのまますべてを捨てたのである。

 幸い、伊織には弟がいた。

 弟に父の代からの少ない田畑を継がせた。母の世話も任せた。というよりも任せるよりほかなかった。

 家を出る前日の夜、母と弟を前に余さず事情を打ち明けた。

「なんてこと。わたくしはあの男のせいで苦労しきりだったのです。その上、お前にまで苦労をかけて。わたくしは反対したのです。太平の世に剣術などしても、さして役に立ちませぬ、と。あの男は聞き分けが悪くてね。二言目には『もののふ』などと言って。見栄なんかはっても仕方がないのに。これからどうするの」

「なにも決めておりませぬ。なにせ師の行動が急だった故に」

「そうでしょうね」

 弟はまだ十にもならない。細かなことは理解できないようで、呆けた顔をして聞いていた。だが、なにかが切迫しているということは感じていて、大人しくしている。

「あとは任せたぞ」

 と言うと、少しだけ笑顔になって、弟は頷いた。

 そんな息子の姿を見て、母は泣いた。

 始めのころは実家からの援助もあった。

 その金で諸国を回り、剣術道場を建てた。建てたのは下総の大野村であった。

 近くの江戸川の渡しには関所があった。

 そこを通れば御府内である。伊織は免状を持参しているので、通ることもできる。だが、あえてしなかった。敵に遭ってしまうのが怖かったのだ。どんなに自分に利があっても、相手だって死にたくない。窮した者の本気を馬鹿にはできない。

 大野村の近郷の者と親しくしているうちに、師弟に剣術を学ばせたいと、道場に入門する者も増えてきた。子どもには余技として、簡単な読み書きも教えた。

 これも江戸市中に入りたくない理由だ。

 たつきが立つと人間それを手放すような冒険を厭うようになる。

 しかし、しばらくすると不穏な噂が出回り始めた。

「あのご浪人は人斬りをなすって、逃げてきたらしい」

 真相は真逆だ。

 だが、酒の席でもあえて敵討ちの話はせず、濁していた。それがまずかった。誰かが無責任に、「あの剣術の腕だから、人のひとりも斬ったこともあるだろう」と言ったことから、尾ひれが付いていったのだろう。慌てて説明をしても、のうのうと道場で暮らしている浪人は、血眼になって敵を探す武士とはほど遠い。誰も信じてくれなかった。人は信じたい方を信じるのだと伊織は学んだ。

 それから道場と伊織から人足は遠のいていった。

 実家からの援助もやがて途絶えた。

 弟が長じて、費用を出し渋るようになったと伊織は想像していた。表向きは「兄上には敵討ちをする意思が見られん」というのが理由だ。母もずいぶん口添えをしてくれたらしい。が、押し切られた、と詫び状が届いた。

 もしかすると、若いころにいた道場の連中が弟に工作したのかも知れないとも考えが一瞬頭に点灯したが、それももうどうでもよかった。

 村の連中に吹き込んだのも・・・・・・。

 どうでも良いと思いながらも、嫌な妄想は次々と起こる。

 農家を居として、暇を持てあましその板間に寝転び、することもないのでそんな妄想をしていた。

 後悔だけが脳裡に浮かんでくる。

 あのときに暴れれば。

 あのときにすごすごと出奔せずに、藩主でもなんでも直談判してみれば良かった。

 誰かに相談すればよかった。

 母にどこか伝手でもあったのではなかったのか。

 妄想は果てなく続く。

 寝転んで、外の景色を見る。

 主がしないのだから、手入れなど行き届くはずもない、雑草が茫々と伸びた庭がそこにはある。物干し竿にはいつ干したのか覚えておらず、風雨にさらされ続けている手ぬぐいがひらひらと揺れていた。

 人間、うまくいかなくなるといつもの暮らしも疎ましくなる。自分の内面が腐っていくのを自覚した。世と関わるのが面倒になり、人間不信にもなっていく。

 庭先にある畑で最低限の野良仕事をしていて、なんとか糊口をしのいでいた。それも徐々に面倒になる。窮迫していくのがわかるのだが、なにもする気になれない。

 やがて家にいて寝続けているのにも嫌気がさし、外をさまよううち、博打を打つようになった。冷静になれば博打など打っても、勝てるわけがないのだ。それでも中毒のように賭場に通い続けた。やがて窮迫している伊織には返しようのない額の借財が募った。

「旦那、お暇なときで構いません。お手伝い願いませんか」

 胴元が話しかけてきたのは、ある日腐りながら歩いていた賭場からの家路の途中であった。賭場は盛り場や関所から少し離れた大野村にあった。

 別に盛り場や関所の近くに賭場があっても構わないのである。どうせ取り締まる側の関所の役人も賭場に通うのだから。

 ただ不意に関八州取締役が巡察することもあって、あわてふためくこともあるらしい。

 伊織が胴元である勘蔵から呼び止められたのは、大野村の外れ、畑道だった。例によって借財をした上に豪快にすって身も心も空洞のまま、家路につくところだった。

「手伝いとはなんだ」

「ここは村はずれ、人目を気にする必要はないのかもしれませんが。旦那はさすが豪胆でらっしゃる」

 これはまずい依頼なのだろうというのはその言葉でわかった。

 そのとき伊織の腹が鳴った。

「ヘッヘッへ。旦那。一杯やりながら話しましょうぜ」

 伊織は懐手で腹を撫でていたが、袖に手を通し直した。見られたかと気まずくなった。

「三日くらい水しか飲んでおらぬのでな」

「それはいけません。背に腹は代えられませぬ。」

 借財をしてそれで賭場に通い、勝ったらそれで返す。負ければ身の回りの物を質に入れる。その繰り返しで負けが込み、まだ実家の援助が得られるころに買った畑までも金に換えた。

「ささ、参りましょう」

 胴元にうながされ、二人連れで歩き始めた。

 伊織は自分でも不思議に思う。

 あれだけ青年期に唐変木として生きてきたオレが、悪所に通うようになったら、あれよあれよと酒も煙草も女も覚えてしまった。

 今も、酒を呑ませてくれると聞いただけで、口のなかの唾は止まらず、腹の虫も鳴き止まぬときた。

 空腹に抗しきれず、胴元に連れられて元の悪所に戻った。

 空腹を酒とアテで満たしたあと、勘蔵はこう切り出した

「旦那には世直しを手伝ってもらいてえんです」

 伊織はぐい呑みを口元に運ぶのを止め、目を丸くした。

「世を悪くしているのはおぬしらだろう」

「いえ、アッシらなんぞは、小銭を稼ぐ、小悪党にすぎませんぜ」

 伊織は苦笑しながら、止めたぐい吞みを再び口へ運んだ。

「オレには大悪党にしか見えんがな」

「へっへっ・・・・・・」といやらしい笑い方をしてから言った。

「ですがね。そんな小悪党が日銭を稼げるのも、世が泰平だからでしょ。それがどうもね。泰平の根太が緩んできているみたいなんで」

「黒船か」

「ええ。『泰平の眠りをさます上喜撰』ってやつですよ。あいつらが来てからのお上だって混乱してるみたいで」

 将軍様のお世継ぎに関して、幕府内が二手に分かれて争っていることは、人づきあいを厭う伊織でも聞き知っていた。

「難しいことはアッシにも分かりませんよ。でも揉めてるときに罪人になったやつらもいるんでしょ。

 行徳の商人のやつらがその罪人どもを匿っているらしいんで。

 旦那、ここいらはお上直々に治められたり、お旗本衆の御領地のある土地ですぜ。元々あいつらは塩作りでもうけて今があるんですよ。家康公以来、塩田はお上が守ってきたわけでしょう。それを忘れてお上に楯突いた野郎どもを匿うなんて長年の御恩に逆らう行為でしょ。アッシだけじゃなくて、腸煮えくり返って人間もいるんですよ。名前は言えませんがね」

 伊織は明らかに動揺していた。

 それを顔から覚えられまいと、ぐい吞みを飲み干した。

「旦那、そんな輩を斬ってくれませんか」

 勘蔵はじっと伊織を見た。

 反抗できないような鋭い眼で睨んだ。

 言語化したくないのに、内なる声が勝手に言語化する。

 ――過去を取り戻せる。

「旦那、故郷で人をお斬りなすって逃げてきたんでしょ。一人斬るも、二人斬るも一緒ですよ」

 ――お前の無為を産んだ過去を払拭せよ。お主が正しいと思うことのために戦うのだ。

 伊織は手酌でぐい吞みに酒を注いだ。

 ――また逃げるのか。だまされたっていいじゃないか。だまされたなら、死ねば良い。

 内なる声と、それを打ち消したいという意思がせめぎ合っていた。

 ぐい吞みを持つ手が止まった。視線はあらぬ方向にある。

 ――また後悔するぞ。なにもしなければ、また後悔するぞ。

 勘蔵を見ると、やつはギラギラしたいやらしい目をして見ていた。

 酒をぐっと呑み干して、ぐい吞みを膳に叩きつけた。

 ――気に入らないものはみな斬りつけろ。お前のことなんて誰も見ていない。誰も見ていないのが心地よいか。悔しくないのか。すべての視線をお前に向けろ。いじけるな。いじけていいことなんて何もないぞ。

 立ち上がろうという意思が湧くのだが、身体が動かない。

 伊織の気持ちを見透かしたように、勘蔵が伊織の肩を抱いた。見ると、肩に真っ黒に日に焼けた手の甲が見えた。爪先はヤニで真っ黒だった。

「まあまあ待ちなせえよ。話は最後まで聞くもんですよ。まさかタダでやってくれなんて言いませんよ。アッシに裏でね、こういうことをやってくれって頼む御仁というのがいるんですよ。名前は勘弁してくださいよ。その御仁が五十両出そうってんですよ。今のあなたには喉から手が出るくらいほしい物でしょ。逃げるのにも金が要る」

 逃げる必要はないのだが、どうせ信じぬものに真実を告げても意味がない。それはここに来てから嫌というほど思い知った。身に染みているのである。

 ただ生きていくには金が要る。借財を返すにも金が要る。勘蔵の言うとおり、逐電するにも金が要るのである。

 返事をどうするか思案するように腕を組んでいるようでいて、伊織は必死に思い出していた。故郷と袂を分かったあのときも今のように内なる声に従った結果が今のような気がしないでもないからだ。あのときは「逃げろ」と誰かが囁いた。

 考えていても、何もまとまらなかった

 物事はいつでもそうだ。飲み込めば確実にヤバいことになることは自明なのに、事態は向こうの方から飲み込みやすくなってケツかる。

「旦那負けが込んでるんでしょ。それだって帳消しにしますぜ」

 勘蔵の言葉はトコロテンのようでツルリと飲み込みやすい。

「その上に五十両乗せようってんだ。何が不満なんで」

 後悔は先に立たないが、もうやらないで後悔するのは嫌だ。動かないことに対して、恐怖があった。

「で、誰を斬ればいい」

 伊織は苦虫をかみつぶしたような顔で聞いた。腕組みはしたままだ。

「益屋嘉右衛門って、チンケな野郎で」

 旦那の腕なら造作もないですよ。

 そう言われて伊織は盛大に舌打ちした。


「世直しとは聞いていたが、そのあと益屋に盗みに入るとは聞いておらんぞ」

 勘蔵と初めて話したあの夜のように、また酒をあてがわれ、むかつきに任せて杯を重ね、すでに軽く酩酊の域に入っている。

「いや、水戸の馬鹿どもを匿ってるのは本当ですぜ。

 それをお上には届けられねえと踏んで、盗人に売ったんでさあ。よく考えてるでしょ」

 勘蔵の答えは質問と同じく、何度目かの答えだ。

 酔った二人は堂々巡りをし始めていた。

 目の前の勘蔵が「顔役」だと今日ここで初めて知った。顔役とは盗みのために必要な人材を繋ぐ役目だ。

「主人がやられててんやわんやしているところにつけ込んで盗人が入る。お上に届けりゃ、水戸のこともばれるかもしれない。当然、言えねえよなぁ。こんなうめぇ話はねえ。大和久様だってそのおこぼれをいただいてるんだから、文句ねえでしょ」

 言いたくとも言えないというのが本音だ。

 齢三十になって弱くなった自分というのとここのところ向き合ってきた。いや不遇のなせる業か。何にせよ、自分が修繕不可能なほどに弱り、破損しているのが分かった。

 ところが弘法寺で益屋を斬ったあと、自分の中で何かが変わった。

 かみ合わなかった破片が胸の奥でガチリとはまるのが分かった。

 殺しが性に合うのか。

 少し愕然としないでもなかった。

 いや能動的に動いたことが自分に変化をもたらしたと言って良い。

 過去のわだかまりもすっきりとした。

 目を閉じると、弘法寺の階段脇の赤い紫陽花の色と、首が切り離された胴から蕩々と吹き出す血潮が浮かぶ。階段下で放心している、手代の亀吉の顔、そんなものがありありと思い出される。思い出すと、なんとも言えない高揚感がある。あの、胸がふわりと浮く感触、それだけはもう一度・・・・・・。

 あの日から何かが変わったのだ。

 しかし。

「やるわけなかろう。そんな火事場泥棒の片棒を担ぐようなまねを」

「大和久の旦那、いいですかい。そんなことを言って。もう逃げられないんですぜ。どんなに言い繕ったって、アンタとオレたちは一蓮托生というやつだ。どうにもならねえ。

 アンタが若いころにやった不始末と一緒。結局誰も信じちゃくれませんぜ。素ッ破浪人の戯れ言なんざ」

「若いころにやった不始末と一緒」、「誰も信じない」という言葉が突き刺さる。

 伊織の目に殺意が浮かぶ。

「おっと、いけませんぜ。

 アッシに何かあれば仲間の一人が関所に駆け込むことになってるんだ。

 あそこの役人とアッシら地元の人間は、ズブズブの間柄。それに賭場で十分に遊んでもらってんだ。旦那一人、どうとでもなるんですぜ」

 と聞いて、酩酊状態の伊織にもさすがに事態が飲み込めた。

「そりゃ、要は水戸が出しゃばるのは困るってことか。そうか、隣の藩主は堀田正睦、ここは幕領。縄張りを荒らされちゃかなわんか」

 へっへっへ。

 勘蔵はあざ笑う。

 関所の役人たちが身の保全を図ろうと思えば、きちんと領内が治まっていることが大切だ。ところが御三家の連中が幅をきかせば手を出せない。それでは失態になってしまう。盗賊は盗賊で、自分たちの取り分が水戸の浪人に流れるのは面白くない。「ズブズブ」というのはそういうことだ。

「機を見てのし上がろうって奴はたくさんいるんですぜ、旦那」

 裏にいるのは侍か。

「人のことを人が慕うのはそこに利があるから。人を潰すのも自分がのし上がるため。すべては利なんですよ。利が人を動かすんです。ぜってえ、正義なんかじゃねえ。そんなことをうんぬんかんぬんして、己の行為を正当化しているだけなんですよ。上から正義を押しつけるのも押さえつけたいからだ」

 自分がやられてきたのも「利」があるからだ。

「悪人になることです。

 悪人になって気に入らぬ者を潰すんです。そうやって利を手に入れなきゃ。

 刺される方が馬鹿なんです。世の中そんなもんです。正義面して、刺された者をさらに横から滅多刺しにする。同じ穴の狢って奴です」

 酒がそうさせるのだろう。勘蔵が饒舌になっている。燭台の火に淡々と照らされた勘蔵は凄みがある。生き残ってきた者の凄みである。

「他の奴は言いますよ。

 『惜しい人をなくした』

 『下手人は許さねえ』。

 でもね、そう言ったすぐあとには飲んだくれて、女と乳繰りあってんです。その帰りには野良犬を蹴っ飛ばしてるかもしれない。人なんて分からないんですよ。

 ご託並べて批判していた奴に翌日殺されたりして」

 勘蔵はそうしてきたのだろうと伊織は思った。気に入らぬ奴は消す。そこに正義もなにもない。低い声音の奥底にそんな重さがあった。ハッタリではない。こいつにかかれば、伊織などただの甘ったれの坊やだろう。

 けなされ、罵られている気分になる。

 絶対的な強さがそこにあり、伊織は劣等感を抱く。胸が苦しくなる。

 それと同時に惹かれていく。

 こういう手合いは屈服して掌中に身を投げれば楽になるからだ。

「刺されたら終わり。刺さないと」

 伊織はもう一度、あの景色が見たくなった。

 勘蔵の言葉はそれを後押しした。


 その夜の弘法寺は梅雨明けを思わせる蒸し暑い夜だった。

 台地に沿って流れるような真間川の水辺には無数の蛙がいて盛大に鳴き声を上げていた。

 熊八は松丸の後ろから、急ぎ参道を走っていた。

 数日来、熊八は益屋を見張っていた。益屋に出入りする人間を監視し続けていた。浪人衆がチラホラと店を出入りしていた。それがどこの浪人なのかは定かではない。ただ用心棒として腕利きの者を抱えている可能性もあった。

 熊八が松丸にそのことを報告した。例の蕎麦屋であった。

 松丸は腕組みをして目を閉じて、話を聞いていた。関八州は数名の下役を雇い入れて活動する。他の者はやはり聞き込みをしているのだろう。熊八には知らされなかった。

 はっきりいって、調べは難航していた。情報が得られなかった。その裏には幕府の威の失墜があるのだが、松丸にそれは見えない。

「やるしかないか」

 松丸は腕組みを解いて、太刀を帯に差し込み立ち上がった。

「旦那、いったい何を」

 追っかけ熊八も立ち上がろうとした。

「いやお前はここに残れ」

 外で暮れ六つの鐘が鳴った。


 松丸は半刻もせずに蕎麦屋に立ち戻った。

 そして熊八を連れて、弘法寺へ走り出したのである。

「いかがなすったんで」

「例の句会が今晩行われるらしい。下手人は弘法寺に現れるやもしれぬ。急ぎ寺に参るのだ」

 いったいどこでそれを聞いたのだ、と熊八は訝しんだ。

 句会のことなんてそこに出席するような人間しか知らぬはず。

「益屋の番頭を盗みと水戸の件で脅したのだ。店のなかがゴタついているのだろう。これは話した感触だが、もう番頭は水戸とは切れたいようなのだ。はた迷惑なのだろう。主人が殺されたことで目立っちまったからな。これ以上の厄介ごとはご免蒙りたいのが本音だ。そしたら、今句会が行われてることだけは吐いた。他のことは一切認めなかったがな。もしかすれば、その場に下手人が現れるやも知れぬ」

 弘法寺の階段を登り、山門の前に出る。奥に本堂が見える。山門の前を左に曲がる。正面に茶屋が見える。

「あれが遍覧亭です」

 松丸と熊八は近くの茂みに身を隠す。

 乱れた呼吸を整えようとするが、なかなかできない。梅雨明け間近の密度の高い湿り気が顔など露出したところに張り付いている。鬢から流れた汗が顎先に貯まって地面にしたたる。

「確か水戸様の光圀公が命名したのだと思います」

 熊八が目の前の建物の講釈を垂れた。

「また水戸か。寺に寄進でもしているか」

 松丸は鼻で笑った。

「熊八、ここから逃げるとすれば、あの坂道だ」

 遍覧亭と相対して立ち、左手に急勾配の坂がある。坂を下ればあの階段の真下に繋がる。暮れ六つも過ぎ、寺域に入れば門が閉ざされ、行き詰まるかもしれない。前回の益屋の一件でも、下手人は階段下から台地に沿って逃げ去ったらしい。

「熊八、坂の下からこちらに登ってこい。逃げ道を塞ぐのだ。気取られない場所に控えていよ。そろそろ句会も終わる刻限だ。急げ」

 熊八はもと来た階段を駆け下りた。そして坂をゆっくりと静かに登った。坂は山肌を削って作ったもので、台地側の壁が垂直だった。遍覧亭が見える場所に来て、壁に張り付いて身を隠した。

 時を空けず、茶屋の引き戸が開いた。

 前の細道に町人風の男が手代とともに出てきた。

 その刹那、遍覧亭を囲うように植えられていた紫陽花の生け垣から男が飛び出してきた。男は古びた黒い紋付きを着ていた。頭は総髪で、身は痩せている。堅い筋肉質の身体だった。

「よう大将やってきたな」

 遍覧亭から町人と手代の間を割って武士が出てきた。

 夏前の日の長い時期だが、もう「逢魔が刻」にさしかかろうとしていた。

「下村様」

 町人と手代が武士に縋り付くようにした。

「茶屋に戻りなさい」

 と武士に促されて町人と手代が茶屋に戻った。

「やや、それは困るのだがなあ」

 と黒紋付きの男は言った。

「お主が困ろうが困らなかろうが関係ない。斬られたらオレが困る。さあ、名乗ってもらおう」

 腕組みして下村は言った。

 松丸はまだ様子を伺っているようだった。

「そこもとは」

「下村嗣次、水戸の出だ」

「ふはっ。名乗るかね。よっぽど腕に自信があると見える」

「あの世へ行ったときに、自分を斬り殺した男の名も分からねば不便だろうよ」

「ならば、わたしも名乗らなければならぬな。大和久伊織、出身はご容赦願いたい」

 二人が刀を抜こうと束に手をかけたとき、

「役者がそろったな」

 と松丸が茂みから出る。下村と伊織が松丸を見る。

 熊八も伊織の背後に立ち、坂道を下って逃げられないように牽制した。手には十手を握っている。

「そこもとは」

 下村が問う。

「拙者は関八州取締役、松丸謙吾だ」

「八州周りか。だが水戸の者に手を出せば・・・・・・」

「安心せよ。幕府においても、幕領におけるその方らの振る舞いは問題になりつつある。それに用があるのはそちらの御仁でな。大和久といったか」

「奇遇だな。我らが用があるのもそこの大和久殿でな。組むかね」

「冗談。死体にされても困るしな」

 伊織が抜刀した。

「人のことを無視して好き勝手言いやがって。全員斬る」

「食い詰め浪人が言ってくれるじゃないか」

 下村が刀を抜く。

「その方も、だろうが」

 松丸も刀を抜いた。

 熊八の目には刀を抜いて対峙する三人の違いがはっきり映っていた。

 旅続きでやつれているとはいえ、松丸は育ちの良さが表に現れていた。

 伊織は明らかに苦労してきたと思われた。やせぎすで、真っ黒な肌をしていた。あまり風呂にも入っていないと思われ、顔には脂も浮いていた。

 異様なのは下村だった。下村は市井にいるどの人間とも形が合わなかった。町人でも職人でもなく、侍とも違った。戦国の世ならばこんな剣客がたくさんいたのだろう。躊躇なく人を殺せる。凶相であった。

 三者は刀を抜いたまま動かなかった。

 緊張のせいか、熊八の耳にはやけに蛙の声が大きく聞こえた。

 斬撃は三人同時に起こった。

 松丸は伊織の胴を払った。伊織は松丸の胴打を伏せて避けつつ、下村の足を払った。下村は足を払う伊織の刀を器用に上から踏みつけながら、伊織の頭上にいる松丸を突いた。松丸は間一髪よけた。下村の刀は松丸の鬢を掠めていった。

「熊八来い」

 と松丸が叫ぶ。

「旦那、冗談言っちゃいけねえよ」

 熊八は振れるものをすべて振った。手も頭も尻までも振って、拒否した。

 松丸はちっと小さく舌打ちをして、「十手を投げろ」と叫ぶ。

 どこに投げれば良いかを迷った揚句、なぜか松丸の背中に投げた。松丸の正面には下村が、下には伊織がいた。

 松丸は飛んでくる十手をわざとすんでに避け、右手に飛びすさった。十手は伏せる伊織の頭の上を飛び、下村の胸元に向かって飛んでいく。

 下村はギリギリで体を躱し、十手をやり過ごした。飛びすさった松丸は着地してすぐに再攻撃に移った。大上段から下村の頭に斬撃を加える。伊織は下村が踏みつけていた足を刀から外す機を見て、下村の胴を下からすくい上げるように斬る。下村はきっと全身にヒリヒリとした殺気を感じたに違いない。攻撃を防御しようなどとは考えず、思い切り後ろに飛び退けた。

 伊織は立ち上がりながら態勢を整えた。

 松丸の刀も空を斬り、大きな破風が起きた。

 三人は再び膠着状態になる。

 熊八がそう見た刹那、伊織は踵を返した。

 つまり、熊八がいる方へ向き直り、突進してきた。

「嘘、やめて」

 伊織は熊八の眉間に刀を突き入れようとした。少なくともそのような鋭い気配が熊八の眉間に突き立った。

 ――やられる。

 十手もない無腰の熊八がそう思った瞬間、手のひらが大きく見え、鼻面に激痛が走った。熊八は仰向けに、どう、と倒れた。

 頭の上をむさい袴が通り過ぎた。伊織の草履の足音はそのまま坂を走り降りていった。

「待て」

 という松丸の声が聞こえ、後を追って坂を走り降りていくのを感じた。

 やっと熊八は自分が掌底を喰らったのだと気づいた。

 鼻に手をやるとヌルリとした感触があり、口のなかが金臭い臭気に満たされていた。

 そのあと、数人が茶屋から逃げ去るのがわかった。

 熊八は頭を打ったらしく、動けなかった。

 木々の間に星空を眺めながら、うめいているとのぞき込む顔が現れた。

 下村だった。

「おい、オレは行くぜ。松丸といったか、八州殿によろしくな」

 とそのまま去って行った。

 下村嗣次は後に名を変える。

 芹沢鴨――。

 後世、新撰組を創設し、局長になった後の名の方が有名になった。

 維新も終わったあと、熊八は下村のその後を知った。

 息を切らしながら、松丸が戻った。

「しくじったよ。逃した」

「すいやせん。自分がふがいないばっかりに」

「いや、名前が知れただけでも大きな前進だ。あとは何とかなるだろう。それよりお前大丈夫か」

 熊八は松丸の力を借り、ゆっくりと起き上がった。まだフラフラしていた。

「下村も逃げたか」

 松丸は熊八を支えたまま、遍覧亭の方を見た。

 大和久伊織はそのまま逐電したらしい。

 ただ数日後、大野村の外れ、近在の者が賭場として使っていた、なかば崩れかけたあばら屋のなかで、屍体が数体発見された。地場の者に聞くと、その者は勘蔵と言って、ここいらのならず者を仕切っているものだったらしい。なにがしかの原因で揉めたのだろうが、詳細は分からずじまいだった。

 松丸と熊八は、「大和久伊織の仕業だろう」と噂し合った。

 その後、幕末の動乱のなか、果たして大和久伊織がどこでどのように生きたのか、いつ死んだのかはようと知れなかった。

 その後熊八は地域の警察官となった。

 明治に入り学制が発布された。

 丁度、小学校に上がる息子を抱えた熊八は、息子の担任の教師として教壇に立つ男が、大和久伊織だと気づいたときには面食らってしまった。


今回は時代小説に挑戦しました。

テーマは平易な書き口にすること。

説明が必要な部分はきちんと説明すること。

かつ説明過多に陥らないこと。

場所は現代でいえば、千葉県の市川市です。江戸川を挟んですぐ近くが東京の小岩になります。知らない土地の人々に説明すると、大雑把にいえば、ディズニーランドのあたりです。

この時代の市川や船橋あたりは結構面白いです。作中にもありますが、江戸時代の市川あたりは幕府の直轄領です。最近は「幕領」と呼ぶそうです。

江戸川あたりには関所があって、「入り鉄砲、出女」を取り締まっています。実際にこれに反してしまって、罰せられたこともあるようです。しかし、抜け道はいくらでもあったでしょう。現に、関所の人間と地元の有力者は密接な関係にあったようですし。蛇の道は蛇というやつですね。

よく明治維新は「無血革命」といわれますが、結構各地で激戦が繰り広げられています。船橋でも激戦がありました。有名なのは五稜郭や会津での戦いですね。江戸開城は無血です。上野で戦いがありましたが。私たちが習っているのは、薩長政府の描いた正史に基づいた教科書ですからね。戊辰戦争の緒戦から圧倒的だったともいえないらしいですし。しかし、圧倒的だと思わせたいのでしょう。

そんな時代のなか市川はどうだったか。特に商人や百姓などの大衆の感覚はどうだったかというと、バラバラだったのだと思います。このお話にも出てきますが、商家のなかには水戸の藩士をかくまったものもいたみたいです。つまり、先行投資をしているのですね。逆をいえば、それに反対するものもいたでしょう。大野村という市川の山奥の人々は、そんな維新の志士を取り締まっています。

そんな時代の空気に便乗する有象無象を描くというのが一番やりたかったことですが、伝わりきれていないかもしれません。

大和久伊織という人物を描くことに腐心しすぎたかもしれませんね。

そして、昨今のネット上の空気も流れていると、読み返すと感じます。刺して、刺されての殺し合い。刺される方が間抜けなのだという、正義なき空気。こういうのを描くには、時代をずらした方がいいのでしょう。書きやすい。

そんな強く、したたかな人々が、ルールも倫理もなく、刺し刺されして、のし上がっていく。性をも利用する強さ、弱さを利用する狡知、ネットの猛者と通ずるこの感じを描くというのが創作の原点でした。もちろん、そこに単純な「良い、悪い」を持ち込む気はありません。自分の正しさのために戦う人々を描きたかったのです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最後に芹沢鴨が登場したのは驚きました。 [気になる点] 年代や舞台となった場所の大方の見当はつきますが、伊織の出身藩の名称や父の役名などが明記されていればより感情移入できたと思いますし…
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