5.料理をしろと言われても(おでん編)
さて、おでんである。
かくかくしかじかの事情があって、私は大根を持て余していた。
となれば、おでんだ。いや、他にもぶり大根であるとか、ハリハリ漬けといった選択肢もありえたはずだったが、その時の私には思いつかなかったし、何より私は、新妻が冬におでんを作るというシチュエーションに、非常な憧れがあったのである。
なぜならば――あなたもきっと見たことがあるだろう。某酒類メーカーが手掛ける、青いパッケージと金色の麦のイラストが印象的な発泡酒のコマーシャルを。
私はあれの大ファンだからである。
たとえばそれは、暖色の壁が印象的な、小ぢんまりとしたダイニング。
仕事帰り、冬風に肩を縮こませて帰ってきたあなたは、家に踏み入った途端こぼれる彼女の姿に、ほっとその力を緩める。
おかえり、と悪戯っぽく笑う彼女。
目尻のほんの小さな笑い皺は、年齢よりも色気と愛嬌を感じさせる。
弾むように部屋を横切る彼女。
おでんでんでん、と楽し気に呟く彼女。
熱々のおでん鍋、きゅっと頬に押し当てられる青い缶。
ひとくち煽り、目を細めてぷはーっと満足げに笑う彼女。
ふわふわと温かな部屋の空気が、冷え切っていたはずの窓を優しく曇らせている――。
いい。
私はそのコマーシャルを見るたびに思った。
いい。
すごくいい。
季節に応じてメニューは多彩に変化したが、中でもおでんをはふはふ言って口に入れる姿の破壊力は、他とは段違いだった。
そんなオトナ可愛い女性に憧れる女心と、そんなオトナ可愛い女性を嫁にしたいと願う男心が――なにせ私は体内に小さなおっさんを飼っている――、同時にぐっと親指を立てた。
おでん。
おでんだ。
新婚の居宅にはおでんが必要なのだ。
私は檀れいになるのだ。
なに、檀れいと私は、せいぜい顔とスタイルと可愛げの有無と声と歳くらいしか違わない。
それはつまり、なにもかも檀れいではないということだったが、私の脳は、その残酷な現実を無視した。
私にはおでんが必要だった。
よって私はその日の帰り道、いそいそとスーパーに寄った。
みんな大好きはんぺん。
ごぼう天。こんにゃく。糸こんにゃく。つみれ。
野菜天と玉ねぎ天で三分ほど悩んだあげく、玉ねぎ天を採用。
あと卵。
それから、私はあるものを棚から取り上げて、にへらと笑った。
餅巾着。
何を隠そう、私はこの餅巾着というのが大好きなのである。
餅が好きだ。
油揚げが好きだ。
ただでさえ好きな者同士の掛け合わせなのに、さらにフォルムが可愛い。
歯で噛み破ると中身がとろりと出てくる仕様も、冒険心をくすぐって実によい。
にこにこしたまま、持ちしげりのする籠を引きずって数歩進み、しかし私はそこではたと歩みを止めた。
既にそれらの具が網羅的にアソートされたパックがあった。
「…………」
値札を見る。
籠に詰めた具材の数々を見る。
彼らの合計金額はもはや計算もできなかったが、明らかにアソートパックのほうが安上がりだった。
私は神妙な顔で、餅巾着とはんぺんを除いたすべてを棚に戻した。
軽くなった籠に、アソートパックを一つ――では足りないので、二つ放り込む。
ポップには、一つだと398円、二つ買うと700円とあったのだ。
何円得をしたことになるのか瞬時にはわからなかったが、訴求しているということは得なのだろうとあっさり思考を停止させた。
だが――籠はそれでもなお軽かった。
棚に置き去りにしてきたごぼう天やつみれ、その他もろもろの練りものたちの不在、そして悲哀を、その軽さは訴えているかのようだった。
結局私は、熟考の末、三パック目を籠に入れた。
合計でいくらになるのかはわからなかったが、得になるのだろうと信じた。
私の算数脳は、小学二年生くらいで時を止めていた。
さて、寒さに首を竦めて帰宅し、流しに戦利品を広げる。
買ったばかりの圧力鍋を取り出し、私は流れるように具材を投入した。
注意書きは特に読まなかった――だいたい、料理音痴に限ってレシピを読み込まず、機械音痴に限って説明書を読まない。
ただし、三パック目を投入しようとしたとき、ふと私は違和感を抱いた。
――なんか、多すぎる気がする。
二パックを入れ終えた時点で、鍋は既に半量が埋まっていた。
もう一パック加えたら、八分目くらいにはなるだろうか。
はんぺんを見つめる。
ビニールに入った三角形のそれは、コンビニで見掛けるものより半分くらい小さかった。
はんぺんだけでなく、ごぼう天も、ちくわも、つみれも、すべて小さかった。
これは、スーパーのおでんはコンビニおでんよりも小さめサイズということなのか。
それとも……調理すると、膨らむということなのか。
私はパックを掴んだまま考え始めた。
パックに収まった具材は、今は若干しわしわとしているようにも見える。
ということはつまり、煮られて水分を吸収すると、ある程度の膨張が見込まれるだろう。
問題は、何倍ほどに膨らむか、ということだ。
それはまるで、算数の問題に似ていた。
Nさんはおでんを作ろうとして、それぞれ9㎤のはんぺんを3個、12㎤のごぼう天を3個、その他もろもろを加えました。
最初に加えた水を600mlとしたとき、調理後の鍋全体の体積はどうなっていますか?
その他もろもろという変数を得た体積は、みるみる膨れ上がって、圧力鍋の蓋を押し上げるのかもしれない。
中でははんぺんが伸び、その横でつみれが拉げ、暴力的な膨張に巻き込まれた餅巾着が油揚げの皮を破って、中身を撒き散らす。
ちぎれた練り物。
溶けた餅。
濁ったスープ。
それはさながら地獄絵図。
私は唇に手を当てて、しばしその図に思いをはせていたが、やがて、天啓に打たれた巫女のように透徹した瞳で、静かに頷いた。
大丈夫。
おでんメーカーと圧力鍋メーカーの底力を、私は信じる。
三パック目をざっと流し込んだ。
なに、入れ物と中身の容量を見誤ることなど、しょっちゅうだ。
それでも私は、この人生を無事に渡ってきた。だから今度も大丈夫だ。
ただ、地獄絵図に怯えた私の脳の一部が、餅巾着の避難を強く訴えてきた。
お願い。
餅巾着。餅巾着だけは。
そうね、ハニー。
あたしたちのかわいいベイビーをスプラッタになんて、絶対させない。
彼らは、なべ底の最奥から、てっぺんにお引越しよ。
私は無言で菜箸を操り、他の具材に押し潰されてしまわぬよう、餅巾着を鍋の一番上に移動させた。
火をかけ、強火に。
沸騰しはじめたら、弱火に切り替える。
そうしてしばし待てば、圧力鍋の煙突のような部位からしゅしゅしゅ……と家庭的で温かな音が響き渡る――はずだった。
だが実際、私の耳を打ったのは、もっと水っぽく、もっと不吉な音だった。
――じゅ……っ、ごぼ……っ、ごぼぼぼぼ……っ
異様な音に気付いて、私は眉を顰めた。
ひどく嫌な予感を抱き、恐る恐る鍋を見つめた。
一歩一歩距離を詰め、静かに蒸気を吐き出しているべき煙突のような部位を覗き込み――そこで私は、誇張でなく息を呑んだ。
蓋から煙突のように突き出る、鍋内と外界を唯一結ぶ蒸気口。
圧力がかかり、黒いプラスティックの蓋でしっかり塞がれているはずのそこからは、しかしその黒い蓋を押し上げるようにして、白い何かが溢れようとしていた。
なに。
なんだこれは。
この、白い、どろどろとした、まるでお雑煮の中で煮溶けた餅のような――
――餅。
雷に打たれたような衝撃が走り、脳内に一気に言葉が溢れだした。
餅だ。
餅巾着だ。
中の餅が、おそらくは膨張して蒸気口に刺さり、そのまま穴を塞いでしまったのだ。
ジーザス。
脳内のアメリカンが青褪めた。
いったいどこのファッキンビッチが、餅巾着を蒸気口付近に移動させたわけ?
私だ。
よーしいい子だ、落ち着くんだ。未来について考えよう。
なに、単純なクイズさ。
蒸気口を塞がれた圧力鍋はどうなる?
「…………」
どっと鼓動が速まった。
――爆発?
私は鍋から数歩離れたまま、さっと栓をひねって火を消した。
が、依然黒い蓋からは、ごぼぼぼぼという音と餅マグマが溢れ続けていた。
当然だ。
だってこれは圧力鍋。
すでに高まってしまった圧力と熱は、ぐるぐると鍋の中に留まって具材を煮溶かしているのだ。
餅によって逃げ場を失ってしまった熱は、鍋の中で巨大な化け物のように膨張する。
やがてそれは、鉄製の蓋をも勢いよく吹き飛ばし――
――爆発? ねえ、ビッグ・ボムなの?
私は半泣きで圧力鍋を流しに引きずり落とし、水をかけた。
熱と圧力と真空の関係をよく理解していなかったが、とりあえず冷まさねばと思った。
この猛る怪物を鎮めねばならない。
冷やさねば。
そうすれば、鍋蓋を突き上げんとしていた熱はきっと収縮し――いや待て、そうすると、内側から蓋を押し上げる力が弱まるから、蓋が開かなくなってしまうのではないか?
私は、恐る恐るロックを解除した蓋が、一向に持ち上がらないことに恐慌をきたした。
こう、少し蓋をずらして、蒸気を逃してやれば爆発は防げるかと思ったが、蓋はぴったりと鍋に張り付いて一向に剥がれない。
これは、爆発の危機を既に逃れたという意味なのか、それとも私の行動は鍋になんの影響を与えることもできておらず、爆発は回避できないという意味なのか。
とにかく冷まさねば。
ああ、でも、開かない。
この鍋の中では、今なにが起こっているのだろう。
冷え切って、ぐうっと蓋を閉じに掛かっているのか、それとも、未だビッグ・ボムに備えて熱を抱え込んでいるのか。
開かない。
開かない。
なんて強情なやつなんだ、あんたイカれてるよ、大統領。
十分ほど経ったろうか、果たして帰宅した夫が見たのは、青褪めながら、流しに突っ込んだ圧力鍋の蓋を引っ張る妻の姿だった。
「……なにしてんの?」
「蓋が……、餅が、詰まって……、おでんが……!」
檀れいは蓋を詰まらせたりしない。
あまつさえ、夫にそれを目撃されたりしない。
おでん計画の完全な破綻を感じ取り、私はいよいよ恐慌状態に陥っていた。
たどたどしく事態を説明すると、「圧力鍋・爆発」のワードに顔を引き攣らせた彼は、しばしの沈黙の後、切り出した。
「――そこ、代わって」
「え」
「いいから代わって」
毅然とした態度。
彼の顔には、妻をなんとしても守るという気概――ではなく、「この阿呆に任せたままでは家が爆発する」とでもいった表情が浮かんでいた。
私は悄然として場所を譲った。
夫はネクタイを外し、シャツの袖をまくり上げ、爪楊枝を取り出して蒸気口を地道に攻撃しては、他方で強い膂力を発揮して蓋を引っ張った。
どれほどの時間がたったことだろう。
――ぼ……っ
妙に籠もった、低く優しげな音を立てて、蓋は外れた。
その中には、煮溶けた餅が広がっているのだろうか。
野菜が、練り物が、どろどろに濁ったスープの中で、崩れきった哀れな姿を晒しているのだろうか。
夫の横から、地獄絵図を覚悟して鍋を覗き込んだ私は、
「…………!」
衝撃のあまり静かに息を呑んだ。
スープは、美しく澄み渡っていた。
練り物は予想以上に膨らんでいたが、外気に触れるや、調伏された魔物のように、みるみる大人しく縮んでいった。
その、縮みゆく練り物たちの、その上に、ぷかりと浮かぶなにかがあった。
茶色く、薄っぺらい、袋状をした
――油揚げ。
「これは……」
「――中の餅が、全部バキュームされたんだな」
そう。
突き刺さされた餅巾着は、その中身をすべて、蒸気口に吸い取られていたのだった。
煮溶けた餅は、一片たりともスープの中に広がることはなく、結果、やけに美しい鍋の中に、ぷかぷかと、外皮たる油揚げが浮かんでいたのだ。
膨大な量のテキストが、私の脳内を通過した。
その奔流のあまりの激しさに、私が硬直して立ち尽くしていると、夫は「とりあえず」と呟いた。
「おでん、先に食べてて」
「え……『先に』?」
「餅が固まる前に、蒸気口から全部掻き出さなきゃだから」
「いや、それは私が……」
「うん、食べてて」
断固たる口調だった。
その声には、妻をなんとしても守るという気概ではなく、「この阿呆に任せていたら」――以下略。
さらに二往復ほどのやり取りののち、結局私は、皿にいくつかの具をよそって、一人テーブルに着いた。
末っ子は、基本的に長男長女に逆らわない。
「……いただきまーす……」
食べちゃうよ、本当に食べちゃうよと訴えるべく、小声で呟いてみせたが、夫は黙々と、流しで蒸気口を磨き続けていた。
私は無言でおでんに向き直り、ぎこちない所作で箸を動かした。
ほくほくに煮えた大根。
熱々のごぼう天。
夫は、仕事帰りでややくたびれたシャツ姿のまま、しゅしゅしゅしゅしゅしゅ……と、爪楊枝で蒸気口の小さな穴を穿ち続けていた。
みんな大好きはんぺん。
それから――からっぽの、油揚げの袋。
私はもそもそとおでんを食んだ。
なにもかも、檀れいなんかではなかった。
実話ですすみません。
本年もお世話になりました。
こんな作者ですが、来年以降もよろしくお付き合いくださいませ。
よいお年を!