4.料理をしろと言われても(大根おろし編)
食べることが好きだ。大好きだ。
しかし、映画好きが必ずしも映画を撮影しようとは思い立たぬように、食事が好きということは、必ずしも調理が好き、ないし得意ということを意味するのではない。
つまりなにが言いたいかと言えば、私は大の食事好きでありながら、自らは調理に手を染めることなく、大学を卒業するまでの間、母のおいしい料理を消費しつづけた。
社会に出て一人暮らしを始めてからは、早々にアパート近くに馴染みの居酒屋を開拓した。
そこの大将は私を実の娘のようにかわいがってくれて、翌日の朝食まで持たせてくれたので、生活になんら困ることはなかった。
私はうまく人生を渡っていると、調子をこいていた。
ところがやはり、いつか年貢の納め時というのは来るもので、私の場合、それは結婚だった。
告白しよう。
夫となる男性と付き合っていた時、手料理を振舞うという段になると、私は二週間ほど前から念入りにリハーサルを行っていた。
遠距離恋愛という環境がそれを許した。
献立などとうの昔にがっちがちに固めているくせに、当日一緒にスーパーに行って「あ、牛肉が安いから肉じゃがにしよっか」などとそれっぽい台詞を吐いていた。
牛肉が安くなかったときは体でさりげなく値札を隠した。
だが、結婚して共に暮らすようになると、もうその手の欺瞞は難しい。
私の料理下手はたちどころに明らかになり、食事を前にするたび夫がちょっと動揺するという一連の流れは、密かに私を追い詰めた。
これまで必死で保ってきた「できる女」のイメージもプライドも、もはや風前の灯火だった。
これはまずい。
あらゆる艱難辛苦を乗り越えて、調理技術改善を第一に取り組んでゆかねばならない。
私は決意に燃えた。
料理サイトを検索しまくる、料理本を読みまくる、タイムリープして人生をやり直すなど、様々な手段が取りえたはずだが、私は速やかに、料理上手な友人に相談することを選んだ。
末っ子はいつだって、安易に人に頼る。
料理が上手くなりたい、それも簡単に、努力は最小限で、今すぐに。
人間の浅ましさをこれでもかと詰め込んだリクエストに、心優しき友人は「うーん」と頭を悩ませてくれ、何周かのやり取りの後、こういった提案をしてくれた。
「ちょっと姑息だけど……。ぱっと見、料理上手に見えたいってことなら、あしらいにこだわるのがいいんじゃないかなあ」
彼女によれば、例えばそうめんにしても薬味を豊富にそろえたり、焼き魚を出すにもちょっと大根おろしを添えるだけで、ぐっとプロっぽい食卓になるのだという。
基礎を飛ばしてすぐに応用に走る私にとって、大根をおろすだけで料理上手になれるというその提案は、かなりぐっと来た。
よって私はその日の帰り道、即座に最寄りのスーパーへと走って、大根を買い求めた。
焼き鮭に紅葉を添えるというのもいいかも、などと考え、大葉の並んだ横で紅葉を探す私は、努力を忘れた一匹の浮かれぽんちだった。
紅葉は無かった。
帰宅し、さっそく調理に取り掛かる。
炊いただけの飯、焼いただけの魚、煮えすぎた味噌汁に冷ややっこというのがその日のメニューだったが、颯爽と大根をおろす私に怖いものなど無かった。
しょしょしょしょしょ……!
私は裂帛の気合いで大根を白い雪へと変えてゆく。
できあがったみぞれ状のそれを、とりあえず皿に移せばいいのかなと、スプーンでべしゃりと掬ったその瞬間、ふと「ひとまずさ、味見はしたほうがいいよ」という忠言を思い出し、ちょっと舐めてみた。
「――……ぉ」
変な声が出るほど辛かった。
私はスプーンを流しに置き、舌を痺れさせたまま考えた。
ハニー、嘘でしょ。大根がどうしてこんなに辛くなりえるの?
これはまずい(かけ言葉)。
料理上手アピールというよりむしろ、「そのひと手間がいつも余計」と評される私のイメージを完成させてしまう、とどめの一品、パズルの最後の一ピースだ。
私は無言で腕を組み、打開策を考えた。
辛い。
――辛い。
辛いと言えばたしか――玉ねぎの辛さは、ナントカという酵素によるもので、だから玉ねぎは熱すると辛みが抜け、甘くなるのだ。
酵素はおしなべて熱に弱いと、なにかの科学番組で言っていた(そう、文系脳は、科学番組でエセ理系知識を身に付けることを至上の歓びとするのだ)。
大根は玉ねぎと同じ白い野菜であるので、辛さの構造はきっと一緒のはずだ。
実際、某定食屋で大好物の、煮立った大根おろしの中にカツが沈む料理は、辛かったことなど一度もない。
熱だ。
加熱。
熱を加えることによって、私はこの大根の辛さという敵を打ち破る。
どこかで論理が飛躍したように思ったが、特に気にはならなかった。
この文系脳は、表現の誤謬には厳しい傾向にあるが、論理そのものの整合性には割と大らかだ。
ボウルにたゆたう白い大根おろしを、私は見つめた。
つまりこいつを煮れば、理論上、私は辛くない大根おろしを手に入れることができる。
私はじいっと、大根おろしを、それを納めた小ぶりな銀のボウルを見つめた。
煮る?
鍋やフライパンを取り出して?
たった小ボウル一杯分の大根おろしのために?
私は無言で大根おろしを皿に移し、ラップをかけてレンジに放り込んだ。
アルミホイルやボウル、そういった銀色のものをレンジに入れてはヤバイことが起きると、すでに学習していた。
片腕を腰に当てて、右手の指でレンジのパネルを操作する。
レンジ。
700W。
時間は……とりあえず、5分?
脳裏には某定食屋のおろし煮があったので、ぐつぐつと大根おろしが煮えるのには、そのくらいの時間が必要な気がした。
ごうん……とオレンジ色の光を灯しはじめたレンジを、私はときどき妄想に気を取られながら、腕を組んで見守った。
三分を過ぎた辺りで、
――ぼんっ!
割とすさまじい爆発音が響き、肩を揺らす。
とはいえ雄叫びは出てこなかったところに、自分の女性としての成長を実感した。
実感したが、脳内は既にパニック一歩手前だった。
なに。
なになになになに今の。
ジーザス、なんでレンジから不穏な音が聞こえるわけ。
答えは一つしかない。
ラップに閉じ込められた空気が膨張しすぎて破裂したのだ。
心臓がバクバク言っている。
私は唇に指を当て、動揺しながらも必死に考えた。
どうしよう。
どうすればいい。
止めればいいのか。
中の様子は……扉の表面に、黒い小さな斑点のような彩色が大量に施されていて、はっきりとは窺うことができない。
だが、レンジは爆発などなかったように、粛々とテーブルを回転させ続けている。
冷静そのもの、といった動きを凝視しているうちに、私の脳は徐々に、さっきの爆発音を無かったことにしはじめた。
なにかすごい音が聞こえたように思えたけど、あれって気のせいだったのかも。
少なくとも、音量はさほどではなかったかも。
そうだ、そうとも、きっと気のせい、実際にはラップの縁からぽんっと空気の泡がはみ出た、それくらいのことさ。
子猫ちゃんのオナラってやつ。そうだろダーリン?
今回想しながら気付いたが、どうも私は、理解を大幅に逸脱した事態に直面すると、目の前の現象ごと無かったことにしたがる思考傾向の持ち主らしい。
一度自宅で空き巣と遭遇したことがあったのだが(犯人は素早く窓から脱走)、その時も「今のは……黒猫だった、のかな。うん」と無理やり事態を飲み込んだことがあったものだ。いや実話です。
さて、そうやって事態を矮小化してみせると、私の精神には幾ばくかの余裕が生じた。
そう、今のは取るに足らない空気鉄砲。
主婦たるもの、台所では常に風林火山の構えで臨まねばならない。
敵は粉微塵におろされた大根、彼の者がどう足掻いたとて、我が台所を荒らしむるには及ばない。
だいたい、女が一度「5分」と決めたことをやすやすと翻すようではだめだ。
そんなことだから、現代日本には意志薄弱な人間が溢れ、向上心は失われ、企業の競争力もまた低迷し、給料は下がり、今月の給与明細は思ったよりしけていて、私は読みたい本を買うためにビール一杯を我慢することを余儀なくされるのだ。
唇に指を当てたままもう少しだけ考え、結局あと20秒ほどを残したところで、私はストップボタンを押した。
そして、レンジの扉を開け――絶句した。
える しっているか だいこんは ばくはつする
湯気を立てる皿の縁には、ちぎれたラップがくたりと張り付いていた。
レンジ内のありとあらゆる場所に、干からびた、そう、粉雪を乾燥させたような白い何かが飛び散っていた。
いや、雪って乾燥するんだろうか。
字面的にはしそうだ、粉雪だけに。
黒いレンジの壁面を細かに覆う粉雪。
まるで聖夜。アヴェマリア。
マリア様によろしく伝えてくれよ、ダーリン。
脳内のアメリカンが昇天を決めたのを感じながら、私はレンジの中に顔を近付けた。
たっぷり擦ったはずなのに、皿に残った大根おろしは、ちょん……と、ほんの一つまみほどしか残っていなかった。
震えそうになりながら皿に手を伸ばす。
焼石のように熱いことに驚いて飛び跳ねる。
布巾を装備して、今度こそ慎重に皿を取り出す。
皿は、レンジから出してもまだ、もうもうと湯気を立てていた。
私は、もったりとした白い小山の一部をスプーンで崩し、舐めてみた。
大根おろしは、ただただ熱かった。
辛さはなかったが、味を表現するとすれば、それは無だった。
だが――。
私はとっくりと、生き残った大根おろしを見つめた。
小さな山を成した大根おろしは、外見だけを評価すれば、特に目立った問題は見られなかった。
突き刺すような辛さは、もはやない。
ついでに味もないだけで、毒にも薬にもならないというか、「薬味」としては落第なのだろうけれども、まあ、悪さはしないやつのように思われた。
今度は、脳内でアメリカンが出てくることはなかった。
確固たる意志がすでに結晶されていたからだ。
私は生き残った大根おろしを小皿に移し、今度は冷蔵庫に放り込んだ。
およそ一時間後、帰宅した夫に、何食わぬ顔でそれを添えて魚を出す。
夫は邪気なく笑って大根おろしに醤油を掛け、特に満足とも不満ともつかぬ様子で、それを平らげた。
私は笑いながら、今日あった面白い出来事などを彼に話した。
頭の片隅では、冷蔵庫に眠る、残りの大根の処遇について検討していた。
――とりあえず、大根おろしだけは二度としない。
「神様の定食屋」を読んで、作者を料理上手だと思ってくださっていた方、ごめんなさい。
でも、あの作品に出てくる料理はめっちゃ練習して、作れるようになったので、ゆるしてください。
次回、おでん編に続きます(時期未定)