2.どう握ろうかと言われても
その日、私は回らない寿司屋に来ていた。パック寿司ではない方だ。
社畜として従順な羊のように働くこと数年。
私は、月に一回は贅沢なランチを楽しめるくらいの金銭的余裕と、「発散」の概念を抱くに至った。
美味しいものを食べるときは、やはり気の置けない友人と行くのに限る。
ということで、私は大学時代からの仲良し四人組で、その寿司屋に行くことを決めていた。
彼女たちは皆、(私を除き)お洒落で知的で情報強者で、かつ女性ホルモンよりも男性ホルモンが強そうな、大変魅力的な友人だ。
大学時代には、カシスオレンジをちびちび舐める女の子たちを尻目に、「やっぱ焼酎、ポンシュよねー」とたこわさを摘まみながら粋がり、そのうちに、粋がりだったはずのオッサン嗜好が、そのまま真の嗜好として定着してしまった経緯を持つ、残念な女子たちでもある。
ちなみに、この四人組においては、ポンコツ枠がすでに一人存在しているので、私は頼れる幹事役キャラで通っている。
というか、おおよそどのコミュニティにおいても、私はそうした役回りを引き受けている。
時折道に迷ったりするときは、そつなくごまかす。
私への視線が、生ごみへ向けるそれに傾きそうな気配を察知したら、素早く誰かをいじって風向きを変える。
そのくらいの社会性は身に付けているという認識だ。
半年ぶりの再会だというのに、案の定その一人が二日酔いで遅刻するというので、私たちはそれを肴に談笑しながら、和やかに寿司屋に向かっていた。
幸い、この四人組の中には、方向感覚に優れた真の幹事キャラがいる。
私は、話題の進行だけは声高らかに、道行きそれ自体は、さりげなく彼女の後に着いていった。
さっぱりわからない道を通り抜け、目的の寿司屋に到着する。
カウンター席だけがある小ぢんまりとした店で、古いのだけれども清潔な佇まいが、いかにも腕の良い老舗を思わせた。
扉を引いた途端に、つんと鼻腔をくすぐる酢の香り。
身を寄せ合って静かに寿司をつまむ客。
素早く無駄のない動きで寿司を握る職人の姿。
まさに大人の領域といった感じだ。
私たちは、いかにも「回らないお寿司」然としたその店に、大いに期待を高める。
並んでいるうちに合流した友人と「美味しそう」と囁き合い、「日本酒飲んじゃおっか」などと頷き合った。
回らない寿司屋で日本酒。
絵に描いたようなことを喜ぶ年頃だった。
果たして、二人と二人に分かれて席が空いたので、我々は神妙な顔でコートを丸め、少々の時間差で席に着いた。
壁には太い墨文字で、多種多様なネタの名前が並んでいる。
情報強者の友人によれば、ランチセットも内容は良いが、少々値が張るので、小食の女性なら単品で注文したほうがよいということだった。
私たちは真剣に品書きを見つめた。
そんな中、私の目にふと飛び込んできた文字があった。
ねぎとろ。
もう、「ね」の文字のくるんとした丸み部分といい、「ろ」の文字のふくよかなカーブ具合といい、ねっとりと豊かな味わいが約束されたかのような名前だった。
途端に、脂の乗ったとろが、口の中で柔らかく溶けてゆく感触が思い浮かぶ。
もうその瞬間には、私の舌はねぎとろになっていた。
これしかないと思った。
寿司屋に来たならまずは「こはだ」を、などというミーハー心は、カロリーを求める本能の前にあっさり膝を突いた。
私は目の合った職人に向かって、おもむろに口を開いた。
「すみません、ねぎとろを一つお願いします」
「へい。どう握りましょう?」
どう握りましょう。
……どう握りましょう?
まさかの切り返しに、私は動きを止めた。
いや、止めたと見せかけて、その内側、脳内では、パニックの気配を察知して言葉たちが一斉に溢れはじめていた。
どう握りましょうとは、どういうことなのか。ねぎとろという以上は巻物ではないのか。
まさかこはだやサーモンのように、すし飯の上にちょんと乗った形態があるというのか。
そんなことは無いはずだ。だって崩れる。
瞬きを二度。
その僅かな時間で、私は職人の顔を観察する。
彼はなんの邪心も無いような表情で、こちらを見ていた。
いや、しかし、私が見返すと、彼はほんのわずか首を傾げた。
その動き、その僅かな表情の変化に、私ははっとするものを覚えた。
少し話が逸れるが、私はその時、メーカーで広告を作る仕事に携わっていた。
コアアイディアをキーメッセージにアウトプットして、クリエイターとコミットしながらターゲットを確実にコンバージョンすることにチャレンジする、そんな仕事だ。
自社商品のどこが魅力で、それをお客様にどう受け止めてほしいのか、どういう広告を作りたいのかを広告制作会社に伝えることを、私たちは「オリエン」と呼んでいた。
そしてその際に、広告の雰囲気というか、どういった物言いで伝えたいのか、例えば力強く叫ぶように伝えたいのか、それとも静かに諭すように伝えたいのかといったことを、「トーン・アンド・マナー」、略して「トンマナ」と呼んでいた。
商品のスペックや、あるいは「これ」を伝えたいという「What」については先方と容易にわかり合えても、どのように伝えるか――「How」については、議論が紛糾することがしばしばだった。
トンマナは大抵「優雅に」とか「正統的な感じで」とかの曖昧な形容で語られ、クリエイターたちが怪訝な顔つきになることも多かった。
今、職人が私を見つめ返す目は、その時の彼らの顔つきを思わせた。
なるほど?
オーケー、わかった。
彼らは私とチェリーパイの投げ合いをしたいってわけ。
注意深くこちらの言葉を待つような、けれど同時に、「こいつわかってないな」という微かな軽蔑を滲ませたような、いかにもクリエイター然とした目つき。
それを見て私は、静かにパニックの度合いを深める。
硬直状態に見える外見とは裏腹に、脳内では、収拾のつかないレベルで言葉が横溢していた。
トンマナね?
トンマナを聞き出したいってわけなのね?
ジーザス、寿司屋でオリエンを求められるだなんて、いったいなんのサプライズ?
職人が、私の言葉を待っている。
私は、ぎゅるぎゅると音を立てそうなくらいに、脳を回転させた。
トンマナ。
トンマナだ。
ねぎとろのトンマナ。
オーケー、落ち着くんだベイビー。
やっこさん、こっちが小娘だからってちょいと調子に乗ってるようだな。
ここは一発、派手にぶちかましてやろうぜ。
ちなみに私は、威圧的なほどに知的なクリエイターに遭遇すると、緊張のあまり好戦的になる厄介なクライアントで、当時まだ部署では新米だったくせに、誰より威勢よく相手に噛みついてしまう、狂犬のような戦闘民族だった。
言葉が溢れる脳内で、私の意志は、職人にきっぱりとねぎとろのトンマナを言い渡す方向へと、徐々に固まっていった。
しーっ、心の声に耳を傾けるんだ。
ドーン! で、バーン! で、ゴー! 俺たちはいつだってそうしてきただろ?
やるときは派手にやる。ジャックポット、それで決まりだ。
頼んだぜ、大統領。
繊細、優雅、上品、知的、正統、堂々、風格、権威、大胆。
数多の形容詞が瞬時に脳裏をかすめ、それは徐々に力強いものへと変わっていく。
「ゆ――」
ある言葉が脳を通過したとき、私の心は決まった。
「勇壮で……壮大な、感じで、お願いします」
「はい?」
「勇壮で、壮大な感じで、お願いします」
沈黙が落ちた。
私は一瞬、相手に勝ったのだと思った。
勇壮で壮大。
酢飯は凛と酸っぱく、とろは溢れんばかりに詰め込まれ、惜しみなく使われた黒い海苔は、まるで宇宙を思わせるような広大な佇まい。
「いやあの――」
だが、違った。
「太巻きか、細巻きか、手巻きか、軍艦か……、ってことなんですが、ね……」
「…………!」
小説でよく目にする、「灼けるような羞恥」というものを、その日私は味わった。
ジーザス! と絶叫した後、アメリカンは沈黙した。
私は目頭がつんとする感覚と、頬骨のあたりの皮膚がじわりと熱くなる感覚をやり過ごしながら、必死で巻きの種類を選択した。
太巻きが食べたかったような気がするが、手巻きもいい。
でも考えてみれば細巻きのほうが、一度に何個も食べられてお得な気がする。
軍艦は食べにくいから嫌だ。
「ほ……細巻きで、お願いします……」
「へい! 勇壮で壮大な細巻き一丁!」
ぱん! と柏手を打った職人に、やり取りを聞いていた客が、がふっと噎せる。
少し離れたところで、私の友人たちも俯いて身を震わせていた。
細巻きが出てくるまでの間、私は親の仇を見るようにして壁を見つめ、やがて細巻きが出てくると、「わー! 美味しい! 美味しいね!」と、隣に座る友人を容赦なく巻き込み、大げさなほどに感想を述べた。
そうすることで、先ほどのやり取りが上書きされないかと真剣に考えていた。
勇壮で壮大な細巻きは美味しかった。
いや嘘だ、味なんて本当は全然覚えていない。
ただ、寿司をすべて平らげて、熱いお茶を含んだ時、一瞬だけ私は無表情になって俯いた。
そのことだけはよく覚えている。
客が黙々と寿司をつまむ静かな店内で、私の頭の中だけはいつまでも騒がしかった。
オーケー、私は中村。ここは寿司屋。
ハニー、あなた、疲れているのよ――
騒がしいだけでてんで役立たずのアメリカンが、脳裏でそっと呟いた。
※実話です