夏の恋人
図書室に足を踏み入れる。入り口のカウンターは無人状態で、“夏休み期間につき図書の貸し出しは行なっておりません”の文字。ちらりと室内を見回し、他に生徒がいないのを確認する。スカートの裾を掴んでバタバタと風を孕ませながら言う。「この部屋本当に冷房効いてる?あっつい」
エアコンの風がよく当たる、あなたの指定席。その隣に座る。ちらりと見せた太腿はわたしなりの挑発のつもりだったけれど、あなたは目もくれず、手にした本に夢中だ。本文を覗くと、登場人物の名前、場面展開に見覚えがある。珍しくわたしも読んだことがある小説だ。ストーリーは可もなく不可もなく、ありきたりな痴情のもつれ系ミステリー。あなたなら片手間でもあっという間に読み終えられるだろう。出会った頃のあなたは、こんな物語を好んで読むような人じゃなかった気がするけれど。
8月の学校はどこか寂しい。部活もちらほら行われているけれど、3年生はもう引退したようだ。帰宅部だからそのへんのことはよく分からない。わたしやあなたのように自ら“受験対策”だとかいう名前の付いた補習に参加しに来た人間は、全ての授業を終えると、各々通っている塾の自習室か、はたまたクーラーの効いた自宅に籠もって勉強するのか、そそくさと下校の途につく。けれどあなたは帰らない。わたしを待つために、必ず図書室へ向かう。
♢
初めは些細なことだった。2年生の1学期の委員決めで、面倒臭そうな委員になりたくないから、無難な図書委員に立候補した。3週に1回のローテーションでお昼休みの間、図書室入り口のカウンターで受け付け業務を行う。本を借りる生徒自体が少ないので、物覚えのよくないわたしでも問題なくこなせた。そうして淡々と日々は過ぎたが、誰が決めたのか学期末の日、終礼後に図書室を委員全員で掃除することになった。友人と一緒にさっさと帰りたかったけれど、サボりがバレて内申点が下がるのは惜しい。気付けば集合時刻10分前には濡れ雑巾を手に図書室に居た。わたし以外の委員はまだ誰も、図書担当の先生すら来ていない。
終業式の後だというのに、一人だけ黙々と読書に励んでいる生徒がいたので、わたしは中途半端な正義感で声を掛けた。「すみません、もうすぐ図書委員みんなで掃除するんで、その本、借りて帰ってもらっていいですか?」その人が手にしている本の表紙をちらりと見ると、どうやら外国の文学作品で、わたしには死ぬまで縁の無さそうな本だった。
「あの、突然すみません」その人は目を泳がせながら小さく早口で、「今日はあなたのことを、待ってました。前からカウンターで見掛けてて……気になってて……好き、です」
そう言い終え安堵したのか、そのとき初めて、泳いでいた瞳がわたしを捉えた。綺麗な人だと思った。今にして思えば、読書と国語の授業が好きで、頭の中にたくさんの単語が詰まったあなたとは思えない、簡単な言葉の羅列。それがあなたとわたしの出会いだった。
ふたりで過ごす初めての夏休み。市内で一番大きな図書館に出掛け、わたしは持参した宿題のワークを解いて、既に宿題を終わらせているあなたは、向かいの席で借りた本に目を落とす。時折手招きして隣の席に来てもらい、小声でわからないところを教えてもらう。あなたが一冊本を読み終えるのとわたしの集中力が限界を迎えるタイミングはだいたい一緒で、図書館を出た足で駅前を適当にぶらついて、それぞれ正反対へ向かう電車に乗ってお別れ。これを何度か繰り返した。穏やかな時間だった。
夏休みが明け、2学期最初の日。その日は簡単な始業式と簡単ではない3時間のテストを終え、正午には終礼だった。部活前の昼食のため散り散りになる友人たちに手を振って、わたしはあなたが待つ図書室へ向かった。
夏休み期間に借りていた本を返却しに来た生徒たちのおかげで、図書室はいつもより賑わっていた。加えて普段は閉められている遮光カーテンがその日はなぜか開いていて、グラウンドに面した窓から真昼の光が注いでいた。いつもよりどこか開放的な空気だった。あなたの姿を探すと、なぜかいつもの机ではなく、奥の方の、図鑑ばかりが並んだ棚のあたりで手持ち無沙汰に立っていた。
「やあ」わたしは少しおどけて片手を上げる。「今日のテストどうだった?やっぱ手応えばっちり?」
「まあ、悪くはなかったと思う」
「ねー、こんな棚見てるの珍しくない?今日は読書じゃなくて調べもの?」そう言いながら並んだ図鑑たちの背表紙をそれとなく横並びについーっ、と撫でていると、ふと、あなたの手がわたしの手首を掴んだ。初めて触れられた。思っていたより強い力だった。「どうしたの?」
ふと顔を上げると、あなたがいつか告白してくれた直後のように、真剣な目でこちらを見据えていた。なるほど、と思い、わたしは目を閉じた。そういえば、ここは入り口の人影からは死角なのかもしれない。
あなたの唇が、わたしの右の耳たぶに触れた。
「……え」想定外の出来事にわたしが思わず目を開けてもあなたは構わず、今度は唇を薄く開いて、小さく出した舌でぺろりと耳たぶを舐めた。「みみ……?」わたしが喋ろうとすると、あなたは手首を掴んでいるのと反対の指で、わたしの唇を押さえた。最後には舌を耳に捻じ込まれた気がするけれど、その瞬間のことはあまり覚えていない。とにかくこれ以上ここにいてはいけない気がして、わたしはあなたの手を振りほどいて、なるべく誰とも目を合わせないままトイレに駆け込んだ。
なに今の。走ったせいか、心臓がドクドク音を立てている。鏡に映るわたしは見たことのない顔をしていた。そろりと右耳に触れると、まだあなたの唾液で湿っていた。耳の中で立てられた生々しい音を思い出して、急に恥ずかしくなった。
わたし達の関係に名前を付けるならきっと“恋人同士”なのだということに、どうして今頃気付いたんだろう。
どうやらあなたはあの瞬間、わたしの手首だけではなく、もっと大事な何かを握り締めて二度と離せないようにしてしまったのかもしれない。どちらから決めたわけでもないのに、次の日の放課後もわたしは図書室へ向かったし、あなたも既に指定席に座って待っていた。昨日開いていた遮光カーテンは閉じられていて、いつも通りの薄暗い空間に戻っていた。放課後は図書の貸し出し業務は行われておらず、滅多に生徒も来ないことを知った。
「来て」あなたは読んでいた本を閉じ、昨日のことを謝るでもなく、さも当然のようにそう言うと、隣の席の椅子を引いた。わたしも当然のように座った。見つめ合い、目を閉じる。それから次にすることは、日によってあなたの気まぐれで、おでこ、鼻先、頬、唇なんかに口付けられる日もあれば、たまに舌を絡めたり、若干トラウマの耳を舐められたりもする。何をされてもなんだかわたし達ふたりには似合わない行為のように思えて、おかしくて、少し笑ってしまった。夏服から冬服への移行期間が始まる頃、あなたは初めて言った。「愛してる」
完全に冬服になった頃には、わたしも同じ言葉を返せるようになっていたっけ。何故かわたしは、夏服のあなたばかりを覚えている。半袖のシャツから覗く、細くて白くて長い腕。わたしに触れる手指。
同級生の恋人同士の大多数が冬のイベントにかこつけて大人の階段を上るに倣って、わたし達もそうなるのかと思っていたけれど、あなたは冬休みは家族で旅行に行くとかで、一度も会わないまま、3学期が始まった。相変わらず放課後あなたは必ずわたしより先に図書室に居て、わたしも特別な用事が無い限りは足を運んだ。あなたは本を読み、わたしは宿題をする。たまに人影が無いのを確認して、一瞬の行為を交わして、お互い何事も無かったように元の作業に戻る。それだけ。それだけなのが、だんだん辛くなってきた。──もっと奥まで触れ合いたいのは、わたしだけ?
そうして冬が過ぎ、春が過ぎ、また夏が来た。
♢
「その小説のオチ、教えてあげよっか」わたしはあなたが手にした本のページを、隣の席から、人差し指でなぞった。「意外にもここが伏線になってて……」
「余計なことしたら怒るよ」あなたは少し笑いながら栞を挟んで本を閉じ、机に置いた。「これ、この間きみが読んでたから、どんな話か気になって読んでみてるけど。今のところ大して面白くないね」
「わたしもそう思った。ちなみに最後まで面白くないよ」
「じゃあなんで読んだの?」
あなたがあまりに澄んだ瞳で訊くので、流行ってたからなんとなく、とは言えなくなった。
「……理由なんて必要?」
わたしが試すようにそう言うと、「きみでもそういうこと言うんだね」
あなたはニヤリと笑って、わたしの頬に触れ、唇を重ねた。夏休みの真昼の図書館は、わざわざ周りを見渡すまでもなく、わたし達ふたりきりだった。あなたはいつものようにほんの一瞬で離れようとしたけれど、わたしは初めて自分から、あなたの首に腕を回した。あなたの体が強張るのを、鼓動が速くなるのを、確かに感じる。あなたの耳元で囁く。
「理由なんて、無くていいよ」
わたしの汗が一雫、ぽたりと、乾いたあなたのシャツに染みを作った。
「いいの?」あなたは掠れた声で小さく言う。
「いいよ」繰り返す。
あなたの手がわたしのシャツのボタンに掛かる。一生掛かっても読み尽くせない数の本が、わたし達の秘密を見下ろしている。グラウンドから蝉の鳴き声に混ざって、威勢の良い掛け声が聞こえ始めた。普段気にならない誰かが廊下を歩く音も、今はやけに耳につく。
どうか誰も来ませんように。きっと来ないと確信しながら、あなたに触れられながら、触れながら、頭のどこか遠い片隅でずっとそう思っていた。