天国への帰還
これはあの方のもの。
眼前にした青く透明な涙型の宝石にそっと手を伸ばした。
これはあの銀の髪をした白皙の肌をしたあの方の額を飾るべきもの。
ぱちりと嫌がるように宝石が私の手を弾いて、青い火花を散らした。
いいえ、私の物にしようという訳ではないの、そう囁いた。それから、あなたもあの方の額に再び戻りたいと思うでしょう?そう言って、もう一度手を伸ばした。
弾こうとはしなかった。宝石ですらあの方を愛する。
さあ、逃げましょう。
そう言う私の掌で、硬い宝石とは違う感触があった。はっとして掌を見る。
ずぶりと宝石が沈んだ。…私の肌に。
暖かい何かが掌から腕を伝って胸のほうへと移動するのを感じた。
…あの方のもとまで私の中に潜ろうというの?いいわ、いいわ、それでも。
自分に言い聞かすように呟いた。
さあ、逃げましょう。
少年の名前はやっぱりレフィルと呼べばよかったのだろうか。そう思いながら彼が消えた扉をわたしはまだ見つめていた。
胸が焼け付くように痛んだ。
すっかり忘れていたのだ。自分が何故ここにいることになったのかということ、そして自分が楽天使の額飾りを持っているだなんてこと。
折角あの方に出会えたのに、渡すことが出来なかった、渡すことを拒まれた。自分の胸元に目を落としてわたしは呟く。
「それで、良かったの?お前は自分の意志を持っているはずよね、あの方に会いたかった筈よね、無理やりでもあの方についていくべきではなかったの?それとも…わたしがそれを邪魔したの?」
何もかもが渾然として理解をすることができない。ああ、でも今何をすべきかなんて。わかりきっている。
逃げ出さなくちゃ。天使がやって来る前に。
「リズ」
漸く動けるようになった体で、わたしは蹲ったままのリズに駆け寄った。床に手をついて、俯いたままのリズはわたしの声にも顔を上げようとはしなかった。
「リズ?」
二度目の呼びかけに、呻き声がした。
「信じられない。信じられない。信じられない」
言い聞かすように呟く。リズの身体は震えていた。レフィル様が歌ったあの歌。何の曲なんだか知らない。そんなの無意味になるほど、あの方の声。
「リズ。でも…でも今はここにおられないから。わたしはここから逃げなきゃいけないの」
わたしのかける声にびくりとしてリズは顔を上げた。…畏怖の宿る瞳。
「…誰?それは、誰の声!?」
差し伸べたわたしの手を振り払い、立ち上がれぬままの身体であとずさった。
こんな、こんな、リズは知らない。
わたしの見開いた瞳に、リズが段々と落ち着きを取り戻すのがそれでもわかった。畏怖が少しずつ姿を消し、憤怒が取って代わるのが見えた。苛烈な瞳。それはレフィル様に向けられたものだったろうか。それとも、今わたしに向けられているものだったろうか。
「敵いっこないなんて認めない。あたしは認めない。今のあたしで敵わないんなら絶対強くなるよ。だけど今はその声とは一緒にいられない。押しつぶされる。あたしが、消される」
「…リズ…?」
「その声があんたのものだって言うなら、今はあんたとはおられない」
額に手を当てて思い悩むように言った。だけどそんなの、そんなの、わたしの方がわからない。
「何でそんなこと言うの?何で一緒にいられないなんて言うの?」
わたしは確か、この踊り子を巻き込むべきではないと思っていた。自分自身にあるこの記憶が、それから負わなければならぬ責任がある以上、彼女を巻き込むわけには行かないと。そう思っていたのに。リズのいない時間を理解できないでいる。
「しゃべらないで!」
キンと高い声が響いた。リズが怒鳴っていた。…わたしに。
「今はあんたの声と一緒にいられない。あたしはやっぱりあたしの方が、あたしの踊りの方が大切なんだ。ごめん、ユール、今はおられない」
…紡いだ言葉の先が音になる。そうあの方の声を称したのはわたし自身だった。今、それをリズに言われている。
「リ…」
声を、かけられない。
ああ、でも逃げなくちゃ。リズがわたしとおられないって言うんだから。わたし一人で…行かなくちゃ。…どこへ、一人で行くと言うんだろう。
俯いた先の床がにじんで見えた。
ばさり、と音がした。
「仲違いを止めようとは思わぬが…。我らの用があるはお前一人なのでな」
聞き覚えのある声がした。
ゆっくりと顔を上げるわたしの目に、勿論見覚えのある、姿が映った。翼を持つその人は、白と黒の翼を持つその人は、多分…今代の楽天使。
「かの声に導かれ降りてみれば、似ても似つかぬ姿であるな」
「あなたは…」
「その声。まさしくレフィルのもの。だがお前はレフィルではあるまい?…ああ、あの側仕えに似ている」
秀麗な顔立ちをして轟然とした様子で凛とした触れるものを全て傷つけるような美貌の天使をわたしは知っていた。…この人の名さえ知ることはなかったけれど。この人がわたしに罪を教えた。
「…レフィル様の声はわたしがいただきました」
身代わりになってくれよ。最後にレフィル様がご自身の声でわたしに告げた言葉が何度も繰り返して頭の中に響いた。混乱していた頭が冴え渡るように、わたしは言葉を紡ぎだした。あの方に火の粉を降らすわけにはもういかぬのだ。贖罪を果たすのはわたしだ。
…リズに拒まれた今、それ以外に何が出来るというのだろう。
「あの方はもうどこにもおらぬものと、お考えください。単なる堕天使に過ぎぬ身ゆえ。かの方の声、かの方の知識、全てこの身にあれば弾劾も何も全てわたしに課せられるものと覚悟しております。全ての罪はわたしに。…けれど」
その人の顔を睨みつけた。金色の双眸はやっぱり美しかったけれど、レフィル様ほどには見えなかった。あの澄み切った瞳には敵わない。
「楽天使がいかなるものか、ご存知か。…あなたなどには到底勤まらぬその重責。一度罪に手を染めれば、その奏でる音までが罪にのまれると、そのぐらいは把握しておいででしょう。…いや、だからこそ探しておいでだったのか?この、」
胸に手を触れた。心臓とは違う躍動が伝わる。熱く激しい。憤るはわたしの言い分にか?
「額飾りを」
わたしは笑った。どう見えるかなんて知らない。もう何も知らない。ただ笑って見せた。
茫然としたその人を見ながら笑いつづけたのだ。
「愚かと言えばそれ以上に言い様がないけれど」
そう言うその少女にわたしは見覚えがあった。
「お前が天界に戻ってくるのは勝手だけど、リズまで巻き込まないで欲しかったわ」
綺麗な金色の巻き毛に飾られた華奢な顔立ち、深海の瞳と小柄で華奢な身体。その身を包むのは薄紅色のサシャだった。形の良い唇が腹立ちを伝えるようにとがらされていた。
「サーフィル様…」
舞を司る女神サーフィル。ああ、楽天使の側に仕えておれば見知らぬわけはない神。
「あの子はあたしが大切にしてきた子よ。とても大事に見守っていた子よ。まさか天界に来させることになるなんてね。まったく」
鉄格子にしがみついた。向こう側のサーフィルに触れんばかりに。
牢屋に入れられたままのわたしと、天に連れてこられたはずのリズ。一緒にいなかった。狭い牢屋の中でわたしは一人きりだった。
「リズは、リズはどうなったの?」
「あたしが預かるわ。あの子の記憶をあたしが預かって地上に返す。お前についての記憶をあたしが預かる。…あの子の踊りは魂なのに、記憶なのに、経験した全てなのに、それを傷つけるなんてまったくしたくはないけど!…それが今のリズの為になる」
ほっとして力が抜けた。そのまま座り込んで俯いた。冷たい鉄格子に頭をつけた。じんとする冷たさが広がった。…見下ろすサーフィルの視線はまだ感じていたけれど。
「あの子はあたしの管轄よ。だけどお前なんか知らない。だから自分の状況ぐらい自分で打破すれば。…リズだけはあたしが護るから」
はっとして顔を上げれば舞の女神の姿はもうなかった。
リズがわたしを忘れられるなら、それでもいい。失われた記憶が現況を責め立てても思い出さないままならそれでいい。サーフィルが預かると言うのだもの。戻るはずの決してない記憶だ。そうすればリズはまた踊れる。自分の踊りを彼女は踊りつづけられる。
リズが踊っていてくれるならそれでいい。リズはわたしと出会わなかった、それでいい。
そして、わたしはわたしの為すべきことをする。
冷たい石造りの床に腰を下ろしたまま、膝を抱えてただ時間が過ぎるのを待った。胸に宿る熱さはまだ健在だった。これがここにある限り、その人はわたしに会わざるを得ない。
微かな、足音が響いたのは随分時間が経過した頃。
わたしは見上げた。白黒翼の一人の天使。手にした書類には何が書かれているんだろう。
「ウィンというのがお前の名前か」
わたしがこの天使の名前を知らないように、この天使はわたしの名を知らなかった。知る必要なぞまるでなかったのだろう。
「もうそんな名前忘れております。わたしはもうずっと、その名前で呼ばれておりませんでしたから。もうずっと、ユールと彼女が呼んでいてくれたから」
けれどリズはもういない。もうわたしの名前を呼ばない。だから。
「無論何とわたしを呼ぼうがあなたのご自由というもの」
「何故、堕した」
冷たい金色の瞳がわたしを見下ろしていた。ここにこの人がいるのは個人的なものだ。正式な裁判ではなかった。…正式な裁判なんて、きっと行われない。けれどわたしにはそのほうが都合が良かった。この人と話してみたかった。
「罪に堕ちた天使が最早天界にはおられぬことぐらいご存知でしょうに。わたしの両の手は罪に汚れてもう清められない。わたしが罪を犯した相手は神であり、そしてレフィルさまでした。神に捧げる贖罪として天を堕し、レフィル様に捧げる贖罪として額飾りを手にしてレフィル様を追った、ただそれだけでございます」
「お前の罪は楽天使の額飾りを天から持ち出したことだ」
「いいえ、わたしの罪はあなたが一番ご存知のはず」
しらばっくれるなんて許さない。額飾りを持ち出した罪も勿論わたしにはあってもそんなのその後だ。わたしの罪は、罪なき方を罪に陥れたこと。
「あなたがわたしにあの本を渡した。あなたがわたしに罪を教えた。わたしが既に心で背徳を犯していたことをあなたは知っていた。知っていてわたしの背徳を顕在化させたのです。わたしがあの方をレフィル様を欲しかったように、あなたはレフィル様の地位が欲しかった。あなたは、楽天使になりたかったから!」
わたしたち二人だけしかいないこの場で、響き渡る声をしていても誰もそんなことは聞いていない。だけどいい。弾劾なんて本人にだけで充分。この人は怯まないだろう。この人は認めないだろう。…楽天使はただそこにあるだけ。罪も知らない。正でも邪でもなくただそこにあるだけなのだ。表面的にでもこの人にそれが出来ているなら、決して認めてはならない、わたしの言い分なんて。
「堕天使が騒ぐことを誰が聞くという?レフィルは裁かれた。既にその罪は神も認めることとして天界にある」
冷徹な瞳は揺らぐことなく、わたしを見下ろす。
「そう、神が認めた以上覆らぬレフィル様の罪。だけど本当の罪人が我々二人だということぐらい心の中に留めてあれば?無論そんな楽天使なぞ認められるはずはないのだけれど。…最後の楽天使はレフィル様。正統な正当な楽天使はレフィル様」
「額飾りを返してもらおう。それがない故に私はまだ楽天使ではないのだ」
「こんなもの、あってもあなたは楽天使にはなれないのよ」
そう言いながら胸に手を当てた。ここは天界、ここが故郷。戻るべき場所。レフィル様は最早おられず、そしてお前のあるべき所以は楽天使がためなのだから、もう戻るべきときなのだ。…我儘に付き合わせたのは、このわたし。けれどもう戻るべきだろう。
胸の熱さが段々と増す。この胸を切り裂いてでも額飾りは戻さねばならぬ。
脂汗が頬を伝った。全身を切り刻む痛みが襲う。気を、失うわけにはいかなかった。これがわたしが為すべきことなのだから。
痛みと戦いながら、どこか頭は冷静に、誰かの声を聞いている。
『涙型の飾りは元々は真実のエナのもの。過去であり記憶である女神のもの。楽天使なる天使の位を創設するにあたって、エナはそれを与えた。全ての楽の知識を納め、全ての楽の記憶を納め、全ての楽の過去を納め』
『片翼の天使の役割を知る者もなく。そもそもそれは』
目の前が光で満たされた。白き光。それでいて密度もある。粘つくようにわたしを囲む。
『それは』
背中が痛んだ。翼なき背中が痛んだ。
キーンと高い音が響くように耳が痛い。目の前は真っ白で何も見えない。何も感じられない。わたしはここにいる?
『卵』
光が、はじけた。
わたしは床に手をつけた。息苦しさに何度も浅い息を繰り返した。床についた手に汗が伝っていた。顔からも滴る汗が床におちた。
背中が。重かった。
髪が見えた。自分の髪の毛だと自覚するのに時間が必要だった。見慣れたくすんだ茶色をしていなかった。虹色に見えた。
手が見えた。床についた自分の手が見えた。見慣れた小さな手ではなかった。白く華奢で繊細な長い指をしていた。
背中が重かった。…翼があった。振り返れば白と黒、二色の翼があった。大きく美しい翼があった。元から持っていた翼など片方、それも自身で毟り取ったというのに!
額に手をやった。涙形をした飾りがついていた。顔を撫でれば、感触の違うものが手に触れる。覚えのない、自分の顔。
「わたしは、わたしは」
玲瓏とした声はレフィル様のもの。音楽となって響く。
「何…?」
疑問なんて持ちようもなく。自分の姿がどうなっているのかなんて。憧れて憧れて。まったく違うものとして思っていたその姿に。
「違う!」
絶叫に、誰が答えうるという。時として虹色に輝く銀の髪、黒と白の二枚の翼。それだけで導き出される結論はただ一つきり。
わたしの姿は楽天使と、同じものになっていたのだ。
「…何を拒むと言う?」
誰かの声がした。振り向くことも出来ず、声を聞いた。振り向いてはならぬ、そんな気がした。優しい女性の声、けれど強く、厳しい。
「疑問に対する答えなんて既にお前の中にあるというのに」
これはサーフィルか?いいや、違う。けれど紛うことなき神の気配。
「お前が、楽天使として、その額飾りに選ばれた」
「違う、違う。わたしなぞが楽天使になれるはずもない!楽天使は、楽天使は、私の知る楽天使は、嫉妬や羨望や負の感情を知ることのない、あの完全なる…」
「完全なんてどこにもないというのに、哀れなこと。お前の信じる楽天使はどこにもおらぬものだというのに。レフィルが言っただろうに。あれが完全であったなぞ、完璧であったなぞ、嫉妬や羨望を知らずにいたなぞ、」
聞きたくない!聞きたくない!信じていることを何故壊そうとする!
「お前の幻想に過ぎぬものを」
幻想なんて知らない。わたしが知ることがわたしの真実。そう信じて何が悪い。
「片翼の天使が天使の卵だと、教えただろうに。楽天使の額飾りの真の意味を、教えただろうに。レフィルの真実を、教えただろうに。全てを聞かぬ振りをしているのだろう。ただお前は逃げているのだろう」
敢然として振り返るわたしに、その神は告げる。
「私が司る真実を、私がお前に語った真実を、お前は信じなかったのだね。お前は耳を塞いでいたのだね」
その神の名をわたしは知っていた。畏怖に身が竦む。サーフィルの前で平然とすらしておられたわたしが、凍りついたように固まってただその神を見ることしか出来ない。
「エ、ナ、さ、ま、」
「サーフィルも言っただろうに。緋の髪の踊り子の踊りが魂だと記憶だと経験した全てだと。レフィルも例外にあらず。あのものの経験があのものの音。苦しまずに手に入れたものではないのだよ」
エナ。真実を司る、過去を司る、月を司る、女神。
レフィル様が。この女神のことだけは。
「その額飾りはお前を選んだ。その所以はそれが知る、それが正しいかはお前が証明するのみだろう」
特別に思っていた。
そう、特別に。誰かのことを。あの方でもそう思っていたのだ。
『神さえも恋をする。であれば神とても嫉妬や羨望、独占などの感情を持たずにはおられない。神ならぬ天使がそれを思うとても誰も責められる類のものではないのだよ』
そうレフィル様が仰った言葉が頭の中で繰り返される。
「レフィル様も嫉妬をしたの?誰かを手に入れたいと思ったの?」
エナは表情すら変えなかった。ただそこにある。まるで彼女自身がそのような感情とは無縁のように、ただ超然としてあった。
「知らぬはずがないと、お前は知っているはずだろう」
失った記憶は戻ったと思っていた。まだ忘れていることがあるだなんて。
俯いた私に、エナは告げる。
「額飾りが元々私のものであったが故に、楽天使の代替わりは私の司るところであるのだよ。誰が否定しようと、お前が認めまいと、今代の楽天使はお前なのだ」
「わたしが、楽天使…」
信じられぬまま、エナを見上げた。微笑まぬ神だ。表情を持たぬ神。完全があるのならばこの神なのだと、そう、レフィル様はそう言った。
「レフィル様は、エナ様を特別に思って、ただあなたのいる祭典は喜んで、あの方がいたのだと、私の楽を聞いてくださったのだと、微笑んで、とても嬉しそうで、悔しくて、悔しくて、その神を見たくて、忍んで行って、あなたを見て、打ちのめされたように、そこで、あなたはわたしを見つけて、何もかも知るその瞳で、わたしを見つけて、わたしに全て、わたしが知りたいと願った、願わなかった全てを、あなたはわたしに語った」
呟き続ける自分の言葉にその情景が間違いなく浮かんで、知っていたのだと事実だったのだと確認させられた。溢れ出る涙にどうすればいいかなんてわからなかった。
今ここにあることをどうすればいいかなんて、自分に訪れた状況を理解はしても、対処の仕方なんて全然わからないままでいる。
哀れみすらその瞳には浮かばなかった。それがエナという神だった。
「お前はお前の真実を、他者の真実を知った上で、お前の真実を築きあげねばならぬ。それが私の司る真実」
「どうして、どうして、片翼の天使が天使の卵だと言うなら、楽天使の卵だというなら、では、我らのあった意味は…?エナ!我らのあった意味は…?何の為に我らはずっと…!」
その人の存在なんてもう忘れかけている頃だった。振り返ればそこにその人はまだいたのだ。その人の震える体の所以は、憤怒にあったのだろうか、悲しみにあったのだろうか。
「楽天使の卵だなぞ言った覚えはないが。楽天使は額飾りが選ぶもの。ではあってももとより資質も持たねばならぬ。片翼の天使から楽天使が生まれたのはこれで二度目だよ。ずっと、お前たちのような候補生の中から選ばれていたのだから」
「私は何の為に…」
この人は楽天使になりたかった。わたしは楽天使に憧れていた。なりたいと、思っていたかはわからない。どちらの思いが真摯であったのだろうか。
何故、お前はわたしを選んだのだろう。
額にやった手にあの青い、涙型をした宝石が触れた。
お前は何故わたしを選んだというのだろう。苦しまずに楽を為せるものではないと、エナは言う。サーフィルは言う。苦しみを得ているのがわたしだけであるはずもないのに。
「…楽天使に、なりたいなんて。ずっとそんなこと思っていなかった…」
口をついて出た言葉がわたしの真実だった。その人、白黒翼の天使がわたしを睨みつけた。
「わたしは、ずっと、記憶なんて失ってしまっても平気なぐらい、状況、訪れた状況に満足していて、そのまま変わらずにいたくなるぐらい、…幸せだったから」
「レフィルも、同じようなことを言っていたよ」
…ああ、レフィル様が。片翼の天使から生まれた楽天使、もう一人のその人はレフィル様だったのかもしれない。
ふっと脳裏にレフィル様の、顔が浮かんだ。いつも穏やかな顔をしていた。諦観にも似た、穏やかさ。
重なり合うように少年の顔が浮かんだ。凛とした様は綺麗だった。自身で生きている強さを持った美しさだった。
額飾りが、レフィル様を愛していることを知っていた。離れがたく思うが故に、楽天使の代替わりも訪れず。裁判で引き離されても、わたしのような僅かな可能性にもすがって。
わたしに、レフィル様を重ねて見ているのではないの?レフィル様の声を、持っているわたし。片翼の天使であるわたし。無理やりにお前を手にしていたわたしを。
拒まなかった。わたしは額飾りが拒まぬのをよいことに、額飾りをはずした。
「欲しいと言う方がいるのだから、わたしなぞの元にいるべきではないよ。楽天使は嫉妬や羨望や独占を… もしかしたら知っているかもしれない。わたしはそれでも楽天使はそれを知らずにいることをわたしの真実として信じていたいから。わたしは、楽天使には決してなれない…」
その人に歩み寄った。多分、残酷なことをするのだと自覚はあった。
「あなたも、楽天使にはなれない。それがわたしの真実。けれど真実は一つきりだなんて…エナ様が仰ることはないでしょう」
振り返るとエナは微笑みを浮かべることのない無表情なその顔でいた。
「私はそんなことを言った覚えはないな」
わたしが手渡す額飾りを、茫然とその人は見入っていた。この場に到ってもこの人の名を知らなかった。
おそらく知ることはないんだろう。楽天使になるはずの人。わたしが認めなくてもこの人は楽天使になるんだろう。そんなことはでも、もう、どうでもいいことだった。
わたしの手から離れるとき少しだけ拒むように身じろぎする額飾りを、無理にその人の手に握らせた。
振り返るわたしはもうその人を見ることはなく、ただエナ、真実の女神を見つめた。
「真実なんて人それぞれですよね。願いも、人それぞれですよね。もう今は何を望んでいいのかもわからないけど。この翼もこの髪もこの顔もこの姿全て、わたしの望まざるものでした」
わたしが望んでいたもの。わたしがただただ望みつづけていたもの。レフィル様、憧れたあの人を手にしたかった。片翼の天使だったわたし。今、今のわたしの望むもの。壊さずにいたかった、あの関係。拒まれたくなかった、失いたくなかった、たった一人の人。リズ。
リズ。彼女は記憶を失って、きっと地上でまた踊っている。
だけどもう戻れない。わたしはわたしの真実を。真実を。裁かれねばならぬ罪を犯したのは真実。
「…わたしは、罪人だから。裁きを、お願いできますか?エナ様、真実と月と、…過去を司る神よ」
「私は資格を持たぬものだ。過去は過去であるが故、過ぎ去りしものであるが故、未だ訪れぬものを規定することはできぬもの。…けれど、望むのならば」
エナが眼前にいた。無表情なその顔の中に少しだけ優しげな瞳を見つけてすがるようにその瞳を見つめつづけた。
「運命の神、未来の神、私の姉妹ニクスがお前の未来を決するだろう」
ふっと、上を仰いだ。華奢な首筋が目に入った。
光。
光が降り注ぐ。未だ牢内にあるこの身に光が。
「優しいニクス。愁うることしか知らぬ神。さあ、お行き。ニクスが導く路。決して悪いようにはならぬ」
そして、微笑った。
明るい道を一人歩いた。
レフィル様を思い出した。
エナ様を思った。
かつての全てを思い出した。
それがわたしの音になる。
喉が痛んだ。
囁くように、女性の声がした。
『苦しみを与えたかったのではないの。ただ選ぶ道を見守るだけが定められた全て』
誰だかは知らない。誰でもいい。でも忘れない。すべてを忘れない。
そしてどうなったとしても生きている。
これまでなかった自分の音をきっともうわたしは持っている。
自分の音。
自分の経験。
そして歩む道の果ても見えぬまま歩き続けた。
目覚めると見慣れぬ粗末な部屋にいた。
固い寝台から身を起こすと、赤い髪をした少女が目に入った。
彼女は花がほころぶように笑って。
わたしの名前を呼んだ。
短編小説より連載として掲載すべきだったでしょうか。
拙い物語に最後までお付き合いいただきありがとうございました。