第20話 虚無の進撃、母狐の殉教 ——最期の神風、赤き落日——
虚無の進撃、母狐の殉教 ——最期の神風、赤き落日——
1. 蹂躙される帝都、空亡の胎動
昭和二十年八月初頭。帝都の空を覆い尽くす空亡の闇は、日本妖怪たちの総攻撃を「捕食」するたびにその質量を増し、禍々しい鼓動を刻んでいた。
「アハハ! 足りないわ、もっと食べなさい! この国の魂をすべて飲み込んで、私の絶望を完成させるのよ!」
狂気と化したローレライの歌声に導かれ、空亡は巨大な触手を伸ばして皇居の中枢へと這い寄る。その通り道にいた数百の河童や小鬼たちが、吸い込まれるように闇に消え、帝都の霊脈は断末魔の叫びを上げていた。
「……おのれ、これ以上は一歩も通さぬ! 阿南殿、陸軍の全砲火を集中させようぞ!」
滝夜叉姫が、がしゃどくろの頭上で大太刀を構え、叫ぶ。だが、阿南惟幾大臣の顔には、かつてない苦渋の色が滲んでいた。
「……姫君、無念ながら通常兵器では傷一つ付かぬ。鉄砲も大砲も、あの虚無の前では礫に等しい。……もはや、我ら守備隊が爆薬を背負い、肉弾となってあの単眼に突撃するほか道はありませぬ……!」
阿南は震える手で軍刀を抜き、絶望的な特攻の号令を下そうとした。
2. 阿古町の決断と天狐の悲鳴
「……いいえ。そのお役目、私に譲ってくださいな」
戦火の轟音の中に、場にそぐわぬほど穏やかな、だが凛とした声が響いた。白狐・阿古町である。彼女は老いた母狐の如き慈愛に満ちた瞳で、燃える帝都と、怯える若き兵士たちを見つめていた。
「阿古町様、何を仰るのですか!?」
天狐が、その不吉な予感に顔を蒼白くして駆け寄る。
「……天狐殿。今の空亡は、現世の理を超えた純粋なる虚無。これを穿つには、かつて元寇の折に私たちが吹かせた『神風』……その全霊を、一撃の楔として叩き込むしかありませんわ。物理の弾丸ではなく、魂の風をね」
「なりませぬ! それをすれば、貴女様の魂は二度と異界へも戻れず、この大気の中に霧散してしまいますわ! 私たちが、別の方法を……滝夜叉姫、信長様や隠神殿なら、きっと……!」
天狐は猛反対し、透き通る声を震わせながら、阿古町の煤けた袖を強く掴んだ。
3. 遺言と諭し
「……ほっほっほ、他に方法がないのは、賢い貴女様が一番分かっているはずでしょう? 天狐殿」
阿古町は優しく、だが抗いがたい力で天狐の手を解いた。そして、駆け寄ってきた滝夜叉姫の頬を、シワの刻まれた温かな手で撫でた。
「五月(滝夜叉姫)様。……貴女様は、立派な姫君になりましたね。かつての闇を光に変え、これほど多くの仲間を導いて……。あの子たちの……南の空に散った特攻隊員や、ひめゆりの乙女たちが守りたかった、この国の『明日』を、ここで終わらせてはならないのですわ」
「……阿古町様、妾は……そんなやり方、絶対嫌じゃ!それに、まだ、一緒におにぎりを作っていないではないか!」
滝夜叉姫の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……阿古町様。……貴様、本当にそれで良いのか」
織田信長が、いつになく低い、沈痛な声を漏らす。隠神刑部や狸たちも、その場に立ち尽くし、何も言えずにいた。
「ええ。魔王様、狸さんたち……。日ノ本の夜明けを、どうかその眼で見てくださいねぇ。それが、私の最期のわがままですわ」
4. 最期の神風、発動
阿古町は一歩、また一歩と、空亡の単眼が放つ暗黒の重圧の中へと歩み寄った。彼女の全身が、目も眩むような白銀と黄金の混ざり合う光に包まれていく。
「……天よ、地よ。日ノ本の八百万の神仏よ。我が命を風に変え、夷狄を払う不滅の刃となれ!」
阿古町の霊体が弾け、帝都の全域に凄まじい「熱風」が吹き荒れた。それは物理的な風ではない。数百年、この国を護り続けてきた狐たちの執念と、子を想う母の如き無償の愛が凝縮された、文字通りの「最期の神風」であった。
「グアァァァァッ!?」
虚無の塊であった空亡が、その聖なる風に焼かれ、初めて実体を伴ってのたうち回る。ローレライの魔歌は風にかき消され、空亡の赤い単眼に、阿古町の放った「天つ光の楔」が深々と突き刺さった。
「阿古町様ぁぁぁーーっ!!」
天狐の絶叫が帝都の空に響き渡る。
黄金の粉雪となって消えゆく母狐の光の中で、空亡は初めて「死」の恐怖に震え、その進撃を止めた。
「……今ですわ、五月様……! この国を、護りなさい……!」
阿古町の最期の囁きが風に乗って滝夜叉姫の耳に届いた。
光の道が、空亡の核へと開かれたのである。




