第1話 奈落の蝶:滝夜叉姫異聞
滝夜叉姫と愉快な仲間達との感動と笑いの超大作
奈落の蝶:滝夜叉姫異聞
第一章:猿島の陽光
坂東の空は、どこまでも高く、青かった。
下総国、猿島郡。そこは平将門が築いた理想郷の礎である。
「お父様、見て! 追いつきましたよ!」
十歳の五月姫は、泥だらけの狩衣を翻し、愛馬を駆って草原を疾走していた。その背後には、仕留めたばかりの大きな野兎が括り付けられている。彼女の瞳は、太陽の光をそのまま映したような黄金色に輝いていた。
「はっはっは! 五月、また勝手につき従う者を引き離して駆けたな。女子とは思えぬ荒馬ぶりだ」
陣屋の前で待ち構えていた父・平将門が、豪快な笑い声を上げる。彼はその太い腕で、馬から飛び降りた娘をしっかりと受け止めた。
「だって、お父様。風を追いかけていると、自分がどこまでも行けるような気がするんです。私、お父様のようにこの坂東の空を自由に、力強く生きたい!」
「いい心意気だ。だが、母様がまた眉をひそめておいでだぞ」
将門の傍らで、兄の将国が苦笑しながら歩み寄る。
「五月、少しは姫らしくしなさい。刺繍の稽古を放り出して狩りに出るなど……」
「兄様は真面目すぎます! 剣の稽古だって、最近は私の方が筋が良いって先生が言っていましたよ?」
「それは、私が手加減をしてやっているからだろう」
将国はそう言いながらも、妹の乱れた髪を優しく整えた。五月にとって、この父と兄、そして厳格ながらも慈愛に満ちた母と共に過ごす日々こそが、世界の全てだった。
そこには一片の毒もなく、ただ明日への希望だけが詰まっていた。
「父様は、なぜ『新皇』と呼ばれているのですか?」
ある夜、篝火を見つめながら五月が尋ねた。将門は静かに、しかし力強く答えた。
「五月、都の貴族たちはこの大地の泥の匂いを知らぬ。汗して働く民の苦しみも知らぬ。私はな、ただこの坂東に、誰もが腹一杯食べて笑える国を作りたいだけなのだ。そのためなら、私は鬼にでも神にでもなろう」
「お父様が作る国なら、私も全力でお守りします!」
幼い約束。それは黄金色の陽だまりの中で、永遠に続くかと思われた。
第二章:朱き落日と裏切り
しかし、運命の歯車は冷酷に回り始める。
朝廷は将門を「朝敵」と断じ、追討の宣旨を下した。差し向けられたのは、かつて将門と切磋琢磨した宿敵、藤原秀郷。
「将門! 貴様の独りよがりな夢もここまでだ!」
燃え盛る平原で、秀郷の声が響く。五月は城の物見櫓から、地獄のような光景を目にしていた。かつての父の仲間たちが次々と寝返り、あるいは討たれていく。
「お父様……兄様……!」
乱戦の中、秀郷は冷徹だった。彼は将門がわずかに怯んだ隙を見逃さず、自慢の強弓を極限まで引き絞った。
「穿て!」
放たれた矢は、夕闇を切り裂く一筋の雷光となって、将門の眉間を貫いた。
「お父様ぁぁぁ!」
五月の絶叫が木霊する。崩れ落ちる父。それを見守る暇もなく、兄・将国が敵の群れに突っ込んでいった。
「五月! 逃げろ! 生きて、平の血を繋ぐのだ!」
それが兄の最期の言葉となった。城内には火が放たれ、母は燃え盛る部屋の中で静かに自害した。五月は、忠臣の手によって秘密の抜け穴から逃がされた。
「……嫌。置いていかないで。私を一人にしないで……!」
泥にまみれ、着物は裂け、足からは血が流れる。振り返れば、愛した猿島の城が、真っ赤な炎となって夜空を焦がしている。五月の黄金色の瞳から光が消え、底なしの暗闇が染み渡っていく。
「許さない……藤原秀郷。お父様の夢を壊した都の奴ら。全員、生かしてはおかない」
彼女の自我は、この夜、家族と共に燃え尽きた。
第三章:貴船の呪詛、闇堕ちの姫
逃げ延びた五月は、京都の北、貴船の山奥へとたどり着いた。
古びた社。凍てつくような滝。彼女はそこで、狂気に満ちた修行を開始した。
「……丑の刻、参りました……」
白衣を纏い、頭には五徳を載せ、三本の蝋燭を灯す。釘を打ち付ける音が、静寂の森に不気味に響く。二十一日間の「丑の刻参り」。
「力を。全てを滅ぼす力を。妾に、復讐の翼を……!」
それは、かつての天真爛漫な五月姫が死に、復讐の鬼女が産声を上げた証。
最終日の夜。滝壺から禍々しい妖気が立ち上り、貴船の荒神が姿を現した。
「其方の魂、真っ黒に染まっておるな。よかろう、妖術を授けよう。だが、二度と人の道には戻れぬぞ」
「望むところだ。人の世に絶望した妾に、人の道など不要!」
五月の髪は一瞬にして白銀へと変わり、瞳は血のような赤と漆黒の混じった怪火を宿した。爪は獣のように伸び、周囲の空間が彼女の怒りに呼応して歪む。
「妾の名は……滝夜叉姫。平の恨み、その身に刻め!」
彼女は妖術によって、死んだ兵たちの骨を集め、巨大な「がしゃどくろ」を召喚した。それは怨念の塊。彼女の怒りの具現化であった。
第四章:怨嗟の戦場
滝夜叉姫は下総に戻り、相馬の古内裏を拠点に反旗を翻した。
彼女の周りには、この世に未練を残す妖怪や亡霊たちが集まった。
「秀郷、出てこい! 貴様の首を、父様の墓前に供えてやる!」
再会した秀郷は、驚愕に目を見開いた。
「五月姫……いや、その姿。もはや人の形を留めておらぬか。なんという無惨な」
「黙れ、偽善者が! 貴様が、貴様たちが妾の家族を奪ったのじゃ! 道理を説く口があるなら、まずは父様に詫びろ!」
滝夜叉姫が扇を振れば、黒い嵐が巻き起こり、大地から無数の白骨が這い出してくる。がしゃどくろが秀郷の軍勢をなぎ払い、戦場は阿鼻叫喚の地獄へと化した。
「これが妾の力じゃ! これが、捨てられた者たちの叫びじゃ!」
彼女は狂ったように笑った。しかし、その頬を一筋の涙が伝う。
(あぁ、お父様。私、ちゃんと戦っていますよ。でも……なぜ、こんなに胸が痛いの?)
秀郷は、陰陽師・大宅光圀と共に破邪の秘法を繰り出した。
「滝夜叉よ。お前の苦しみ、私が終わらせてやろう。それが、将門殿へのせめてもの弔いだ」
「貴様に、父様の名を呼ぶ資格はないわ!」
光圀の放った「降魔の矢」が、滝夜叉姫の胸を深く貫いた。
「……がはっ……!」
鮮血が舞う。城は崩れ、彼女の召喚した妖怪たちも霧散していく。
炎に包まれる古内裏の中で、彼女は静かに目を閉じた。
「……あぁ、ようやく……お父様のところへ……」
建物の崩落と共に、彼女の姿は消えた。秀郷たちが瓦礫をいくら探しても、その死体は見つからず、ただ一本の折れた扇だけが残されていた。滝夜叉姫は死んだのか、それとも――。
第五章:異界の姫、再起の笑顔
冷たい感覚の後、暖かな風が頬を撫でた。
五月……いや、滝夜叉姫が目を開けると、そこは見たこともない色彩に満ちた世界だった。
「わっ、起きた! ぬりかべ、起きたよ!」
目の前にいたのは、目鼻立ちのない、しかし不思議と愛嬌のある顔をした少女――のっぺらぼうの女の子だった。
「……妾は……死んだのではないのか?」
「ここは『まほろばの異界』。現世で居場所をなくした子たちが集まる場所だよ。私は『のっぺ』。よろしくね、白髪のお姉ちゃん!」
横から、石の壁を2枚身体の隣に浮かせた女の子が「ぬりー!」と嬉しそうに近寄ってくる。
「ぬりかべは『お腹空いてない?』って言ってるよ」
滝夜叉姫は呆然とした。現世での憎しみ、血の臭い、復讐の炎。それらが、この場所の穏やかな空気の中で、急速に浄化されていくのを感じた。
「妾は……復讐を……」
「そんなの、ここでは誰も気にしないよ。お姉ちゃん、すごく綺麗な服着てるね! 一緒に遊ぼうよ!」
のっぺに手を引かれ、彼女は立ち上がった。
ふと水鏡に映った自分の姿を見る。白銀の髪はそのままだったが、瞳からは毒気が抜け、かつての黄金色の輝きが戻りつつあった。
「……そうか。妾は、もう戦わなくて良いのじゃな」
彼女はゆっくり呼吸し、
「……ああ。そういえば、腹が減ったの。のっぺ、ぬりかべ。何か美味いものはあるかの?」
「あるよ! 妖菓子の木があるんだ!」
異界の姫として迎えられた彼女は、瞬く間にその天性のカリスマ性を発揮した。妖怪の子供たちに剣を教え(竹光だが)、困っている妖怪がいれば術で助ける。
ある日の午後。異界の草原を駆け回る彼女の姿があった。
「ほら、みんな! 妾に追いつけるか!? 風になるとはこういうことじゃ!」
のっぺらぼうやぬりかべの少女たちと笑い合う彼女の表情は、あの猿島の陽だまりの中にいた五月姫そのものだった。
現世の伝承では、滝夜叉姫は怨念の果てに消えた悲劇の鬼女として語り継がれている。
しかし、次元の狭間にあるこの美しい異界では、今日も明朗快活な「異界の姫」が、仲間たちと共に黄金の風となって駆け抜けている。
彼女の物語は、ここから新しく始まるのだ。
滝夜叉姫の闇堕ちからの復活、泣ける




