第6話「連れ去られた者たち」
夜明け前の空は、まだ青黒かった。
霧が低く垂れこめ、街道沿いの木々は影の塊のように並んでいる。
人族の小さな村は、眠りの底に沈んでいた。
静けさを裂くように、気配が動く。
屋根の上。
路地の影。
柵の外。
魔族の斥候たちが、音もなく配置についていく。
角の形も、体躯もさまざまだが、その動きに殺気はない。
――奪うが、殺すな。
魔王の命令は、今も彼らの胸に残っていた。
一軒の家の戸が、ゆっくりと開く。
「……?」
眠りから覚めた村人が、状況を理解する前に、
背後から伸びた手が口を塞いだ。
「騒ぐな」
低い声。
だが、刃は向けられていない。
人族は震えながら、外へ連れ出される。
別の家でも、同じことが起きていた。
子どもを抱えた母親。
年老いた男。
若い狩人。
誰も殺されない。
だが、抵抗すれば容赦なく押さえつけられる。
恐怖だけが、静かに村を満たしていく。
丘の上から、ノアはその光景を見ていた。
遠くに揺れる灯り。
小さな悲鳴。
夜に溶ける足音。
(……これでいい)
そう思いながらも、胸の奥が痛む。
自分が“悪役”になった証だ。
背後で、魔族の将が低く言う。
「命令どおり、殺してはいない。
だが……恨みは、確実に残るぞ」
「分かっている」
ノアは、視線を逸らさなかった。
「恨みが残るからこそ、世界は動く」
将は、苦々しく笑った。
「随分と歪んだ理屈だ」
「歪ませないと、世界は歪んだままだ」
ノアは静かに答える。
連れ去られた人族は、森を越え、魔族領の奥へと運ばれていく。
恐怖に震える彼らの前に、
やがて不思議な光景が広がった。
粗末だが、人族の家屋と似た造りの建物。
畑の跡。
そして、人族と距離を保ちながらも、敵意を向けない魔族の姿。
「……ここは、どこだ」
誰かが呟く。
答えはない。
ただ、“殺されない”という事実だけが、
彼らの恐怖の中に、わずかな混乱を生んでいた。
人族領の村に残された者たちは、夜明けとともに異変に気づく。
「人が……いない」
「攫われたんだ……魔族に……!」
恐怖は、瞬く間に広がった。
人々は武器を取り、
使える魔法遺物を探し、
村の外へ助けを求めに走る。
危機意識は、確かに芽生え始めていた。
丘の上で、ノアは朝焼けを見つめていた。
空が白み、
夜の闇が、ゆっくりと退いていく。
(……恐怖は、芽を出した)
だが、それはまだ“変化”ではない。
恐怖の先に、
知ろうとする意志が生まれなければ、
また同じ結末を迎えるだけだ。
その背後で、
誰にも見えない影が、静かに佇んでいた。
――やり方は、間違っていない。
そう言われた気がして、ノアはわずかに肩をすくめる。
「……そうだといい」
朝の風が、冷たく頬を撫でた。
世界は、ゆっくりと、だが確実に動き始めていた。




