第5話「命令」
玉座の間に残る魔力の余韻は、まだ消えていなかった。
ノアは、黒曜石の床の上に立ち尽くしていた。
魔王の名を継いだはずなのに、実感はない。
体の奥に重たい何かが沈んでいるだけだ。
やがて、重い扉の向こうから足音が聞こえた。
複数の気配。
魔族の将たちだ。
角の形も、背の高さも、種族もまちまち。
だが、彼らの視線には共通した警戒が宿っていた。
「……新しい、魔王」
誰かが、そう呟く。
敬意でも、侮蔑でもない。
ただ、測るような声だった。
ノアは玉座の前に立ち、彼らを見下ろした。
この位置から見える景色は、思った以上に遠い。
「命令を」
将のひとりが、短く言った。
ノアは、胸の奥に沈む重さを、言葉に変える。
「人族の領へ出る」
ざわめき。
「……戦を始めるのか」
「ついに、か」
魔族の将たちの声は、どこか乾いていた。
期待ではない。
諦めに近い感情。
「違う」
ノアは首を振る。
「襲え。だが、殺すな」
一瞬、空気が止まる。
「……殺さずに、襲う?」
「意味が分からん」
困惑が、隠しきれず表に出る。
ノアは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「恐怖を与えろ。
だが、取り返しのつかない一線は越えるな」
将のひとりが、低く唸る。
「それは……戦ではない。
ただの嫌がらせだ」
「そうだ」
ノアは、視線を逸らさずに答えた。
「俺は、嫌われ役になる」
玉座の間に、静寂が落ちる。
魔族たちは、互いに視線を交わした。
「……なぜ、そんな回りくどいことを」
問いは、素直だった。
ノアは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
森の縁で見た光景が、脳裏をよぎる。
差し出されかけた手。
恐怖に歪む子どもの声。
「この世界は、危機を知らなすぎる」
ノアは言う。
「恐れがなければ、人は変わらない。
だが、死が伴えば、もう戻れない」
将のひとりが、苦い顔で言った。
「人族は、我らを恐れている。
近づけば、暴れる」
「分かっている」
ノアは頷いた。
「だからこそだ。
彼らに“恐れの正体”を知る機会を与える」
将たちは、なおも納得しきれない表情だ。
「……我らが、悪役を引き受けると?」
「俺が引き受ける」
ノアは静かに言った。
「お前たちは、命令に従うだけでいい。
憎まれるのは、魔王である俺だ」
その言葉に、将の一人が小さく笑った。
「……随分と、人族に肩入れする魔王だな」
ノアは、否定しなかった。
「肩入れしているわけじゃない。
滅びから、引き戻したいだけだ」
沈黙。
やがて、将のひとりが膝をついた。
「……御意」
それに続いて、他の将たちも膝をつく。
「命令を、承った」
ノアは、ゆっくりと息を吐いた。
(……始まったな)
自分が“悪役”になる物語が。
玉座の間を出ると、城の外に冷たい夜風が吹き抜けていた。
闇の向こうに、人族の町の灯りが、かすかに見える。
(あの光を……消させないために)
ノアは、胸の奥でそう誓う。
その背後で、誰にも見えない影が、静かに佇んでいた。
――それでも、お前は優しいままでいろ。
聞こえた気がして、ノアは振り返る。
だが、そこには夜風しかなかった。
それでも。
この夜から、
魔王の名は、人族の間で“恐怖”として語られ始める。
誰も知らない。
その恐怖が、
滅びを遠ざけるために仕組まれたものだということを。




