第3話「悪役になる最初の一歩」
夜の町は、昼とは別の顔をしていた。
家々の窓から漏れる灯りが、石畳に淡い影を落とす。
人々は戸を閉ざし、通りには人影が少ない。
それでも、空気は張りつめていた。
――魔族が出た。
昼間から、そんな噂が広がっている。
森の縁で見かけた者がいる、子どもが怯えて泣いていた。
真偽の分からない話が、恐怖だけを膨らませていた。
ノアは、町の外れにある見張り塔の陰に立っていた。
遠くに、松明の明かりが揺れている。
人だかりだ。
近づくにつれ、怒号が耳に入ってきた。
「捕まえたぞ!」
「斥候に違いない!」
縛られているのは、若い魔族の女だった。
角は短く、傷だらけの手首から血がにじんでいる。
「ちが……私は……」
言葉は、途中でかき消される。
誰も、聞こうとしない。
恐怖が先に立ち、
事実は、後回しにされる。
ノアは、群衆の中に足を踏み入れた。
「……離せ」
声は低く、よく通った。
一瞬、周囲が静まる。
だが、次の瞬間、反発が起きる。
「魔族を庇うのか!」
「仲間じゃないのか!」
疑いの視線が、ノアに突き刺さる。
ノアは、息を吐いた。
(……これでも、まだ“話そう”としている)
自分の甘さに、苦笑が漏れそうになる。
「彼女は、斥候じゃない。
迷い込んだだけだ」
誰かが、松明を地面に叩きつけた。
火の粉が散り、
群衆の感情が、一段階、上がる。
「証拠はあるのか!」
「信用できるか!」
ノアは、首を振った。
「ない」
その正直さが、さらに怒りを煽った。
「なら、離れろ!」
「俺たちの町を守るんだ!」
魔族の女は、縛られたまま、ノアを見上げる。
その目には、恐怖よりも、諦めに近い色が浮かんでいた。
ノアは、彼女の前に立つ。
(……間に合え)
祈るような気持ちで、縄に手を伸ばす。
その瞬間、誰かが叫んだ。
「やれ!」
槍が構えられ、
石が投げられる。
ノアは、反射的に一歩前へ出た。
次の瞬間、
空気が、震えた。
見えない圧力が、群衆を押し返す。
足元の石畳に、細かな亀裂が走る。
悲鳴が上がり、
人々は後ずさった。
ノア自身も、胸の奥に重たい痛みを感じていた。
制御できていない。
それでも、止めるわけにはいかなかった。
「……これ以上、近づくな」
静かな声だった。
だが、その言葉は、刃のように通った。
その隙に、ノアは縄を断ち切る。
魔族の女は、信じられないという顔で彼を見る。
「……どうして」
「走れ」
それだけ告げる。
女は一瞬ためらい、
次の瞬間、闇の中へ消えた。
沈黙。
やがて、ざわめきが怒号に変わる。
「見たか……?」
「魔族を逃がしたぞ!」
「裏切り者だ!」
ノアは、その言葉を受け止めながら、背を向けた。
(……これでいい)
嫌われる役を引き受ける。
恐れられる役になる。
それが、この世界を動かすための、
最初の一歩だと、彼は知っていた。
追いすがる視線を背中に感じながら、
ノアは闇の中へ歩き出す。
町の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
(……優しいままでいろ、か)
ふと、雪の夜の声が胸に蘇る。
ノアは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
「……難しいよ」
誰にも届かない呟きを残し、
彼は再び歩き出した。
その背に向けて、
いつか“魔王”という名が投げられることを、
彼自身、まだ知らないままに。




