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第35話「剣を持たない日」

 その日は、訓練が休みだった。


 前日の適性試験の後、候補者たちは“体を休めるように”と命じられた。


 休め、と言われても、心までは休まらない。


 ノエルは、宿舎を出て、町の方へ歩いた。


 剣を持たないだけで、足取りが、少しだけ軽い。


 


 市場は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。


 魚を売る声。

 果物の香り。

 子どもたちの笑い声。


(……ここを守るために、

 俺は剣を握ってるんだよな)


 そう思うと、

 胸の奥に、小さな温かさが灯る。


 だが、同時に、

 昨日“外された顔”が、脳裏をよぎった。


(……守るために、

 誰かを切り捨ててる)


 その矛盾が、

 歩くたびに、胸の内で軋む。


 


 露店の前で、

 小さな子どもが泣いていた。


 転んだらしく、膝から血が滲んでいる。


 母親は、慌てた様子で周囲を見回しているが、

 薬を持っていないらしい。


 ノエルは、反射的に駆け寄った。


「……大丈夫?」


 子どもは、涙をこぼしながら頷く。


 ノエルは、腰を落とし、

 布切れで膝を押さえる。


「……ちょっと、痛いけどな」


 それは、

 訓練で何度も聞いた言葉と、同じだった。


 母親が、深く頭を下げる。


「……ありがとうございます」


 ノエルは、少し照れたように目を逸らした。


(……こういうのを、

 守りたいんだ)


 それは、

 “勇者”とか“使命”とか、

 そんな大きな言葉よりも、

 ずっと確かな感情だった。


 


 市場の外れで、

 共存村の噂話が聞こえてきた。


「……魔族と一緒に暮らしてるらしい」


「……攫われた人間が、

 まだ帰ってきてないってさ」


「……どうせ、いいように使われてるんだろ」


 恐怖は、

 何も見ていなくても育つ。


 ノエルは、足を止めた。


(……本当に、そうなのか)


 訓練場で聞いた話と、同じだ。


 “知らないもの”は、

 いつの間にか“怖いもの”に変わる。


 


 夕方。


 町の外れで、

 剣を手に取らず、

 風に吹かれていると、

 ふと、こんな考えが浮かんだ。


(……もし、

 魔族が本当に“敵”じゃなかったら)


 そんな考えは、

 ここでは“甘い”と切り捨てられる。


 だが、

 ノエルは、それを否定しきれなかった。


 誰かを一方的に“敵”と決めつけることで、

 世界は、少しずつ硬くなる。


(……硬くなった世界は、

 いつか、折れるんじゃないか)


 それは、

 ノアが抱いている感覚と、

 ほとんど同じ問いだった。


 


 夜。


 宿舎に戻ると、

 窓の外に、星が見えた。


 剣を持たない手を、

 胸の上で組む。


(……俺は、

 何のために剣を握るんだ)


 魔王を倒すため。

 世界を救うため。


 そう教えられてきた。


 だが、

 今日、市場で感じた小さな温度は、

 その答えを、少しだけ塗り替えていた。


(……壊さないため、かもしれない)


 誰かを守るため。

 そして、

 できるなら、

 誰も壊さないために。


 ノエルは、静かに目を閉じた。


 その想いが、

 遠くで“嫌われ役”を引き受けている魔王と、

 同じ方向を向いていることを、

 彼は、まだ知らない。


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