【過去編】第31話「覚えている者」
夜。
魔王城の高台に、ノアは一人で立っていた。
黒い外套が風に揺れ、眼下には、かすかな灯りが連なっている。
共存村だ。
人族と魔族が、まだ不器用に共に息をしている場所。
ここが、いつまで“形”を保てるか、ノアには分からない。
胸の奥で、古い記憶が疼いた。
――あの村の灯りも、かつては、こんなふうに見えていた。
ノアは、目を閉じる。
音が、消えた。
世界から“音”という概念が抜け落ちたかのような、完全な無音。
次の瞬間、村は、ゆっくりと“ほどけていった”。
家が、
道が、
畑が、
人々の姿が――
すべてが霧のように溶け、最初から存在しなかったかのように消えていく。
恐怖よりも先に、理解が来た。
(……これが、世界の終わりだ)
視界が白に染まり、足場が消える。
身体が宙に放り出される感覚。
その直前、老人の声が確かに聞こえた。
「……すまん、ノア」
ノアは、はっと目を開いた。
天井が見える。
見覚えのある梁。
煤けた漆喰。
消えたはずの家の、天井。
外からは、鶏の鳴き声と、人々の話し声が聞こえてくる。
いつもの朝の音だ。
(……戻った)
否。
“戻った”のではない。
世界は、壊れた事実ごと、最初から“なかったこと”にしたのだ。
ノアは、ゆっくりと起き上がり、外へ出る。
村は、昨日までと同じ姿でそこにある。
倒れていた女も、家の前で子どもに水を飲ませていた。
怪我の痕跡すら、ほとんど残っていない。
救われた命がある。
だが、同時に――
“世界が終わった”という事実だけが、ノアの中に残っている。
(……俺だけが、覚えている)
老人の家の戸を叩く。
「……誰だ」
「……ノア」
戸が開き、老人が顔を出す。
いつも通りの顔。
いつも通りの声。
だが、ノアは見逃さなかった。
自分を見た瞬間、老人の目が、ほんのわずかに揺れたことを。
「……どうした。顔色が悪い」
ノアは、言葉を探した。
だが、“世界が終わった”などと言えるはずもない。
「……何でもない」
そう答えると、老人は一拍置いてから、静かに頷いた。
「……そうか」
その一言は、問いを終わらせるための言葉だった。
ノアは確信する。
この人も、“覚えている側”なのだと。
だが同時に、分かってしまう。
――この人は、もう“抗わない”と決めている。
夜。
暖炉の前で、老人は古い書物を閉じていた。
ノアは、その背中に向かって、ぽつりと尋ねる。
「……じいちゃん。この世界って、何度も、同じことを繰り返してるの?」
老人の背が、わずかに強張る。
振り返らないまま、低く答えた。
「……考えすぎだ」
否定の言葉だった。
だがその声には、“これ以上触れるな”という疲れが滲んでいた。
ノアは、それ以上、何も言わなかった。
言えば、この人の“諦め”に触れてしまう。
触れてしまえば、自分まで、同じ場所に立ってしまいそうだった。
――そして、今。
魔王城の高台。
ノアは、再び目を開いた。
過去の光景は、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいく。
あの村は、もうこの世界には存在しない。
誰の記憶にも残らないまま、消えた。
それでも、自分だけは覚えている。
救えた命があったこと。
救えなかった場所があったこと。
そして、じいちゃんの背中が、確かに“諦めていた”こと。
ノアは、共存村の灯りを見つめる。
(……今度は、“なかったこと”にさせない)
これは、すでに終わった世界の話だ。
だが、この記憶がある限り、
同じ終わりを、もう一度迎えるつもりはなかった。
ノアは、静かに踵を返し、
魔王城の奥へと歩き出した。




