第2話「善意が届かない現実」
森へ続く街道は、昼でも薄暗かった。
枝葉が空を覆い、湿った土の匂いが足元に溜まっている。
風は弱く、鳥の声も遠い。
ノアは、ひとりでその道を歩いていた。
町を離れてから、胸の奥に残る重さは消えていない。
平和な光景を背にしたはずなのに、
何かを置き去りにしたような感覚だけが残っている。
やがて、小さな泣き声が聞こえた。
「……っ」
足を止める。
木々の間から見えたのは、倒れ込んだ子どもの姿だった。
転んだのだろう、膝を押さえ、声を殺して泣いている。
ノアは駆け寄ろうとして――足を止めた。
視界の端に、もう一つの影が映ったからだ。
沢を挟んだ向こう側。
角を持つ魔族の青年が、子どもを見下ろして立っていた。
距離は、数歩。
治癒魔法を使えば、すぐに傷は塞がる。
青年も、それが分かっているようだった。
だが、動かない。
子どもと目が合った瞬間、
子どもの喉から悲鳴が漏れた。
「来るな……!」
恐怖に震える声。
魔族の青年は、伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろした。
(……まただ)
胸の奥に、冷たい感触が広がる。
分かり合えないわけじゃない。
分かり合おうとしていないだけだ。
だが、その一歩が、あまりにも遠い。
枝を踏み折る音。
ノアが踏み出そうとした、その瞬間、
背後から人の声がした。
「おい、どうした!」
村の大人たちが、こちらへ走ってくる。
誰かが、魔族の姿を見ていたのだろう。
空気が、張りつめる。
「離れろ!」
「子どもに近づくな!」
怒号が重なり、槍や農具が構えられる。
魔族の青年は、びくりと肩を震わせた。
「……ちがう」
言葉は、ほとんど音にならない。
誰も聞いていない。
石が投げられ、
青年の足元に転がった。
次の瞬間、青年は子どもを一度だけ見た。
その目には、確かに“助けたい”という色があった。
だが――
彼は背を向け、森の奥へと駆け去った。
子どもは、泣きながら呟く。
「……行っちゃった」
ノアは、その場に立ち尽くしていた。
結果だけを見れば、
“魔族が子どもを脅かし、追い払われた”光景だ。
誰も、伸ばされかけた手を知らない。
ノアは沢を越え、子どもを抱き上げた。
「大丈夫だ」
そう声をかけながら、
自分の言葉がどこか空虚に感じられた。
村の大人たちは、胸を撫で下ろす。
「よかった……」
「魔族に何かされる前で……」
その言葉が、ノアの胸に突き刺さる。
違う。
守られたのは、恐怖の方だ。
子どもを村へ送り届けた後、
ノアは森の奥を見つめた。
青年が消えた方向。
(……間に合わなかった)
踏み出すのが、ほんの一瞬遅れた。
声をかけるのが、一呼吸遅れた。
それだけで、“助けの手”は“脅威”に変わる。
(優しさは……いつも、遅い)
夕暮れの森に、風が吹き抜ける。
木々のざわめきの向こうで、
誰かが見ている気配がした。
ノアは振り返る。
当然、そこには誰もいない。
(……また、空耳か)
それでも、背中に残る視線の感覚は消えなかった。
彼は歩き出す。
この世界では、
“正しさ”は、静かに潰されていくのだと、
改めて噛みしめながら。




