【過去編】第25話「戻らない日」
その朝、村は騒がしかった。
いつもなら、鶏の声と人の足音が混じる時間帯だ。
だが今日は、ざわめきが先に立っている。
「……井戸の水が、出ない」
誰かの声が、通りを駆け抜けた。
ノアは、老人と顔を見合わせ、慌てて井戸の方へ向かった。
井戸の周りには、すでに人だかりができている。
桶を下ろしても、水音が返ってこない。
「……底が、見えるぞ」
誰かが呟く。
いつもは暗くて見えない井戸の底が、薄く白んで見えていた。
「……雨が降ってないからだろ」
「……そのうち、戻るさ」
誰かが、軽く言った。
だが、その言葉には、どこか無理に自分を納得させるような響きがあった。
昼過ぎ。
畑の土は、乾ききっていた。
苗は、昨日よりも明らかに元気がない。
葉の色が薄くなり、
指で触れると、かさりと音を立てる。
老人は、土を掬い上げ、掌の上で崩しながら、黙り込んだ。
「……水を、引き直さねばならん」
「……できる?」
ノアの問いに、老人はすぐには答えなかった。
「……やれることは、やる」
それだけ言って、鍬を握り直す。
午後。
村の外れで、牛が一頭、倒れているのが見つかった。
息は、まだある。
だが、立ち上がれない。
「……水を飲ませろ」
桶に残ったわずかな水を、誰かが牛の口元へ運ぶ。
だが、牛は首を振るだけで、喉を動かそうとしない。
「……おかしい」
村人たちの間に、はっきりとした不安が広がる。
夕方。
空は、相変わらず晴れている。
雲ひとつない。
風もない。
あまりにも“何も起こらない空”だった。
ノアは、丘の上に立ち、遠くの山並みを見つめた。
(……雨、降らない)
昨日も、その前の日も、同じ青空だった。
「……じいちゃん」
背後に、老人の気配がある。
「……このまま、どうなるの?」
老人は、ノアの問いに、すぐには答えなかった。
しばらく空を見上げ、やがて、低く呟く。
「……分からん。だが……」
一拍、言葉を選ぶように。
「……“戻らない日”というのは、ある」
ノアは、その言葉の意味を、まだ正確には理解できなかった。
だが、胸の奥に、冷たいものが落ちるのを感じた。
夜。
村では、井戸の周りに灯りが集められ、水の配分について話し合いが行われた。
「……一日に使える水を、制限する」
「……子どもと家畜を優先しよう」
普段は聞かない言葉が、当たり前のように交わされる。
ノアは、その輪の外で、黙って様子を見ていた。
“日常”が、音もなく形を変え始めている。
家に戻ると、老人は、古い箱を取り出していた。
中には、見慣れない石片や、欠けた金属の破片が入っている。
「……それ、なに?」
ノアの問いに、老人は、箱を閉じた。
「……いざという時のための、ものだ」
「……いざ、って?」
老人は、ノアの頭に、そっと手を置く。
「……今日のような日が、続いた時のためだ」
その手は、いつもより、少しだけ強く震えていた。
その夜、ノアは、なかなか眠れなかった。
水の減った井戸。
倒れた牛。
配分の話し合い。
どれも、昨日までの“普通”には、なかった光景だ。
(……戻らない、って、こういうこと?)
答えは出ない。
ただ、この日が、“昨日までの日常”と同じ場所には、
もう戻れない一日だったことだけは、幼いノアにも、はっきりと分かった。




