【過去編】第22話「何も起こらない日」
朝の光が、古い木枠の窓から差し込んでいた。
暖炉の火は、昨夜の名残でまだ温もりを残している。
老人は、静かに目を開け、隣の寝台に目をやった。
――そこにいる。
毛布にくるまった小さな身体が、規則正しく呼吸している。
「……生きてるな」
独り言のように呟き、老人はゆっくりと起き上がった。
台所で湯を沸かし、固くなったパンを切る。
いつもと同じ朝。
違うのは、家の中に“もう一人の気配”があることだけだ。
やがて、ノアが目を覚ました。
「……おはよう」
まだぎこちない声。
「おはよう、でいい」
老人は、ぶっきらぼうに返す。
ノアは、少し考えてから、もう一度言った。
「……おはよう」
それだけで、老人の胸の奥が、わずかに温かくなる。
村の中を歩く。
人々は、最初こそ珍しそうにノアを見たが、老人の後ろに隠れるその様子に、すぐに興味を失った。
「拾い子か」
「またか、あんたも物好きだな」
そんな声が、背中に投げられる。
老人は、何も答えない。
ノアは、地面ばかりを見つめて歩いていた。
(……ここは、怖くない)
理由は分からない。
だが、昨夜倒れていた闇の中より、この村のざわめきの方が、ずっと“まし”に感じられた。
昼過ぎ。
老人は、畑仕事を始めた。
ノアは、何をすればいいか分からず、しばらくその様子を眺めていたが、やがて、見よう見まねで土をいじり始める。
「……そこは踏むな。苗が死ぬ」
短い指示。
ノアは、慌てて足をどけた。
「……ごめん」
「謝らんでいい。覚えりゃいい」
言葉は素っ気ないが、追い払うつもりはないことだけは伝わる。
夕方。
ノアは、村の子どもたちの輪の端で、石ころを転がして遊んでいた。
言葉は交わさない。
だが、誰も追い払わない。
それだけで、ノアにとっては十分だった。
夜。
食卓に並ぶのは、簡素なスープとパンだけだ。
ノアは、恐る恐るスープを口に運び、少しだけ目を見開いた。
「……あったかい」
その一言に、老人は、わずかに目を伏せる。
「……そうか」
それ以上、言葉は続かない。
その夜。
ノアは、布団に入りながら、小さく呟いた。
「……今日は、何も起こらなかった」
老人は、火を落としながら答える。
「……それでいい」
何も起こらない一日。
それは、この世界にとっては、当たり前のようで、どこか脆い“奇跡”だった。
雪は、もう降っていない。
外は、静かだ。
ノアは、その静けさの中で、初めて“眠れる夜”を過ごした。
この日が、後に“守りたかった日常”になることを、彼はまだ知らない。




