【過去編】第21話「雪の夜に拾われたもの」
夜。
魔王城の窓辺で、ノアは外の闇を見つめていた。
眠ることができない夜は、決まって“あの雪の夜”を思い出す。
――すべては、あの夜から始まった。
雪が降っていた。
音を吸い込むような静かな夜だった。
村の外れにある細い街道には、人影はない。
風に舞う雪だけが、白く、淡く、闇に溶けていく。
老人は、その夜、ひとりで歩いていた。
年老いた身体には堪える寒さだったが、
それでも足を止めることはなかった。
なぜ外に出たのか、自分でも分からない。
――来る。
理由のない予感だけが、胸の奥にあった。
街道の脇、
雪に埋もれかけた影がある。
最初は、捨てられた荷袋だと思った。
だが、近づくにつれ、それが“人”だと分かる。
小さな身体。
かじかんだ指。
息は、まだある。
「……生きている」
老人は、震える手でその子を抱き上げた。
驚くほど軽い。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
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村に戻る道すがら、
老人は何度も子どもの顔を覗き込んだ。
閉じた瞳は静かで、
まるで、眠っているだけのように見える。
だが、時折――
ぞっとするほど“静かな光”が、その奥に宿ることがあった。
(……この子は、世界に触れる)
なぜか、そんな言葉が浮かぶ。
意味は分からない。
だが、確信めいた感覚だけが残る。
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老人の家は、村外れの小さな家だった。
暖炉に火を入れ、
凍えた身体を温める。
濡れた衣服を外し、
子どもを毛布に包む。
「……名前も、知らないんだがな」
独り言のように呟き、
老人は椅子に腰を下ろした。
夜は、深い。
外では、雪が降り続いている。
やがて、子どもは小さく咳き込み、
ゆっくりと目を開けた。
「……ここ、どこ」
掠れた声。
恐怖よりも、戸惑いが勝っている。
「……村だ。
外で倒れていた」
子どもは、しばらく天井を見つめ、
それから、小さく呟いた。
「……名前、ない」
老人は、一瞬、言葉を失った。
名を持たない子ども。
それは、過去を持たないのと同じだった。
「……なら、名をやろう」
暖炉の火が、静かに揺れる。
「ノアだ」
その名を口にした瞬間、
老人の胸に、わずかな違和感が走った。
(……知っている名だ)
なぜ知っているのかは、分からない。
だが、その名は、確かに“馴染む”と感じた。
「……ノア」
子どもは、ぎこちなくその名を繰り返す。
まるで、
それが初めて自分の存在を形づくる言葉であるかのように。
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その夜、老人は眠れなかった。
暖炉の前で本を開いても、
文字が頭に入らない。
視線は、何度もノアの寝顔へと向かう。
穏やかな寝息。
だが、その奥に、
言い知れぬ“予感”が重なって見える。
(……この子を、普通に育てればいい)
そう思おうとした。
それだけで、よかったはずだ。
だが、胸の奥で、
別の声が静かに囁く。
(――それでは、間に合わない)
老人は、本を閉じ、
そっとノアの頭に手を置いた。
「……まだ知らなくていい」
優しく、静かな声。
「世界のことも、
触れてはならない理のことも……」
ノアは、眠ったまま、
わずかに眉を寄せた。
老人は、その表情を見つめながら、
胸の奥で、言葉にならない不安を噛みしめる。
雪は、まだ降っている。
この夜、
世界は、何も変わっていない。
だが――
静かに、
“変わってはいけないもの”が、
拾い上げられてしまった夜でもあった。




