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第1話「停滞した平和」

 その町は、あまりにも平和だった。


 朝の光が石畳に反射し、露店の準備をする人々の声が通りに広がる。

 焼きたてのパンの香りが漂い、子どもたちは笑いながら走り回っていた。


 誰もが疑わない。


 ――今日も、世界は続いていくのだと。


 ノアは通りの端に立ち、その光景を眺めていた。


 懐かしい、とも。

 安心する、とも。

 違う。


 胸の奥に広がるのは、言葉にできない“重さ”だった。


(……同じだ)


 空気の流れ。

 人と人の距離。

 視線が交わるタイミング。


 細部に至るまで、記憶とほとんど変わらない。


 それが意味することを、ノアは理解していた。


 市場の端に、人だかりができている。


 古びた金属の装置が、露店の台の上に置かれていた。

 歯車のような紋様。

 表面に残る、かすかな魔力の痕跡。


 かつて――

 人族と魔族が共に生きていた時代には、当たり前に存在していた農耕用の魔法遺物。


 だが、その知識は、もう失われている。


「魔族の物だろ」

「触るな。何が起きるか分からん」

「使わなければ、安全だ」


 誰かの一言で、空気が固まった。


 理屈ではない。

 議論でもない。


 “分からないもの”を遠ざけるという、いつもの選択。


 松明が投げ込まれる。


 金属が歪み、淡い魔力の光が煙に紛れて消えていった。


 ノアは、目を伏せた。


(……また、これだ)


 声を上げようとして、やめる。


 止めても、結果は変わらない。

 これまで、何度も見てきた。


 一度でも“安全”を選んだ世界は、

 二度と“試す”という選択をしなくなる。


 その瞬間、風が止まった気がした。


 ほんの一瞬、空の色が鈍く濁る。


 誰も気づかない。


 気づいてはいけない変化だからだ。


 ノアだけが、それを見ていた。


(……閉じていく)


 争いはない。

 対立もない。


 だが同時に、疑問もない。

 選択もない。


 変わろうとする意志だけが、静かに削られていく。


 町を離れ、川沿いの道を歩く。


 水面に映る空を見下ろしながら、ノアは足を止めた。


(……どうして、ここまで来てしまったんだろうな)


 答えは、分かっている。


 ここに来るのは、初めてではない。


 だが、そう考えようとすると、胸の奥がざわつく。


 ――思い出すな。


 どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。


 ノアは顔を上げる。

 当然、誰もいない。


(……空耳か)


 それでも、背中に視線を感じた。


 まるで“世界の外側”から、誰かに見られているような感覚。


 ノアは歩き出す。


 この平和な町を、背にして。


 守るために、壊す覚悟を固めるために。


 雪の夜に聞いた言葉が、胸の奥で静かに揺れた。


 ――お前は、優しいままでいろ。


 ノアは、ほんの少しだけ笑う。


「……難しいよ」


 その呟きは、誰にも届かない。


 ただ、静かな風だけが、彼の背を押していた。

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