プロローグ「禁忌と消失」
世界には、触れてはならない理がある。
それを知る者は少ない。
そして――知ってしまった者は、長く存在できない。
雪の降る夜だった。
音を吸い込むような静寂が、村を包んでいる。
小さな家の中で、老人はゆっくりと目を開けた。
来る。
理由は分からない。
だが、理解だけはしていた。
長く逃げすぎたのだ、と。
視線を向けると、部屋の隅で本を読んでいた少年が顔を上げた。
「まだ起きてたの?」
無邪気な声だった。
老人は答えず、その姿をじっと見つめる。
まだ幼い。
だが、その瞳の奥には、時折、ぞっとするほど静かな光が宿る。
(……この子は、いずれ、世界に触れる)
本来なら、触れずに済むはずだった。
そうなるように導いてきた。
世界の“外側”に触れないように。
だが――もう間に合わない。
「こっちに来なさい」
少年は素直に立ち上がり、老人の前に来る。
「どうしたの?」
その問いに、老人はすぐには答えなかった。
代わりに、しわだらけの手を伸ばし、少年の頭にそっと触れる。
温かい。
この温もりを感じるのも、これが最後だろう。
「覚えておきなさい」
静かな声だった。
「世界はな、お前が思うほど優しくはない」
少年は少しだけ不満そうに口を曲げる。
「急に何それ」
老人は小さく笑った。
「それでも――」
一拍置く。
「お前は、優しいままでいろ」
その瞬間だった。
空気が凍る。
薪の爆ぜる音が止む。
揺れていた炎が、形を失ったまま固定される。
雪が――落ちてこない。
時間ではない。
空間そのものが、老人だけを切り離していた。
少年が何か言っている。
だが、声は届かない。
結界。
いや、これはもっと上位の――。
(……また、これか)
老人の脳裏に、かつて見た“終わり”がよぎる。
何度も繰り返した、世界の初期化。
その果てに、自分が選ばれなかった記憶。
「……来たか」
恐怖はなかった。
あるのは、諦観に似た静けさだけだ。
(今度は、あの子に託すしかない)
視線を上げる。
誰もいない空間に向かって、老人は告げた。
「この子は、まだ何も知らない」
返答はない。
ただ、世界そのものが意志を持ったかのように、圧力だけが増していく。
理解していた。
これは“罰”ではない。
理に抗い、なお消えなかった者への――最後の整理だ。
それでも。
後悔だけは、していない。
老人は最後に少年を見る。
時間の外側から。
(……次は、お前の番だ)
声にならない声で、そう呟いた。
光が走る。
音もなく。
熱もなく。
次の瞬間。
老人は――消えた。
崩れることもなく。
倒れることもなく。
最初から存在しなかったかのように。
静止していた世界が、動き出す。
「……え?」
少年の手から、本が落ちた。
「……どこ?」
返事はない。
痕跡もない。
ただ、椅子だけが空いている。
やがて、胸の奥に得体の知れない恐怖が広がっていく。
理由は分からない。
だが本能が告げていた。
――これは、人の死ではない。
その夜、少年は初めて知る。
この世界には、抗えないものがあるのだと。
そして彼は、まだ知らない。
この消失こそが――
世界に刻まれた禁忌に触れた証であることを。
さらに知らない。
この夜を境に、
彼自身が何度も世界の“終わり”を見ることになることを。




