「貴様との婚約を破棄する」「謹んでお受けします」直後、私達は「じゃ、お疲れーッス」とハイタッチして国を出た〜今更泣きついても遅い。押し付けられた借金まみれの国は、王妃の座を夢見る聖女様に差し上げます〜
鏡に映る自分を見つめながら、私は深く、長く、肺の底に溜まった澱を吐き出すようなため息をついた。
豪奢なシャンデリアの光を反射する、濃紺のシルクドレス。
首元を飾る大粒のサファイアは、かつてこの国の王家が隣国から「友好の証」として言い値で買わされた──もとい、購入した、市場価格の3倍はするであろう代物だ。
美しく結い上げられた銀髪。
冷ややかで、どこか人を寄せ付けない鋭さを湛えたアメジストの瞳。
そこに映っているのは、王都の誰もが恐れ、そして陰で嘲笑う「悪役令嬢」、レティシアの完璧な姿だった。
「……重い」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
物理的な重さの話ではない。
いや、物理的にもこのドレスは十分に重いのだが、それ以上に私の肩にのしかかっているのは、この国の「国家予算」という名の鉛の塊だ。
前世。
私は日本という国で、中堅商社の経理部に勤めるしがないOLだった。
決算期には会社に泊まり込み、領収書の山と格闘し、使途不明金を追求し、上司の空領収書をシュレッダーにかける日々。
過労で倒れ、気づけばこのファンタジー世界に転生していたわけだが、神様というのは随分と意地が悪いらしい。
転生先の公爵家は、建前上は筆頭公爵家として王家を支える名門。
だがその実態は、浪費家の国王と、脳内がお花畑な貴族たちの尻拭いをさせられる、国家規模の「経理部兼総務部兼クレーム処理係」だったのだ。
「お嬢様、そろそろ馬車の準備が整います」
控えていた侍女が、怯えたような声で告げる。
私は鏡の中の自分に向けた険しい表情を崩さぬまま、扇を手に取った。
「ええ、分かっているわ。……今日の卒業パーティーは、長くなるわよ」
扇を開き、口元を隠す。
その下で、私は獰猛な笑みを浮かべていた。
長くなる?
いいや、違う。
今日で終わるのだ。
前世を含めて足掛け数十年。
私の魂に刻み込まれた「社畜」という呪いから、ようやく解放される日が来たのだ。
◇◆◇
公爵家の紋章が入った馬車に揺られながら、私は窓の外を流れる王都の景色を眺めていた。
石造りの街並みは美しく、道行く人々は笑顔で溢れている。
一見すれば、平和で豊かな王国だ。
だが、私の目には違うものが見えている。
あの噴水の修繕費はどこから出た? 王家が発行した赤字国債だ。
あの街灯の魔石は? 隣国からの高利貸しによる輸入だ。
兵士たちの新しい鎧は? 公爵家の領地税収の前借りだ。
「……ハリボテね」
呟いた声は、馬車の走行音にかき消された。
この王国は、既に詰んでいる。
国王は、「王の威光」という言葉を「散財」と同義語だと勘違いしている無能だ。
毎月のように夜会を開き、愛妾に宝石を贈り、見栄のためだけに実用性のない巨大なモニュメントを建設する。
そのツケは全て、財務を統括する我が公爵家と、実務を取り仕切る第一王子エミールに回されてきた。
エミール。
私の婚約者であり、この国の第一王子。
そして、私と同じく「向こう側」の記憶を持つ、唯一の同志。
彼との出会いは、今から10年前、8歳の時に開かれた王城での茶会だった。
当時から「神童」と呼ばれていた彼は、子供とは思えない疲れ切った目で、中庭のベンチに座っていた。
私もまた、父である公爵から領地経営の帳簿整理を(英才教育という名目で)押し付けられ、死んだ魚のような目をして庭を彷徨っていた。
目が合った瞬間、私たちは互いの魂の形を理解したのだと思う。
『……その、なんだ。大変そうだな』
彼が最初に発した言葉は、王族らしい挨拶ではなく、同僚を労うような掠れ声だった。
『ええ。殿下こそ、目の下の隈が酷いですわよ』
『……昨夜、親父が「夏用の離宮を建てたい」とか言い出してな。設計図を見たが、地盤沈下必須の欠陥工事だ。そもそも工期が短すぎて、職人が過労死する未来しか見えない』
『奇遇ですわね。我が家にも、「王家からの要請だから」と、その離宮建設費の請求書が回ってきましたの。もちろん、握りつぶしましたけれど』
沈黙が落ちた。
これは、8歳の子供同士の会話ではない。
彼は、手元の図面を忌々しげに睨みつけると、遠い目をして、渇いた声で呟いた。
『……この世界の人材管理、どうなってるんだ。リスク管理も工程表もなしに、精神論だけでピラミッドが作れるとでも思ってるのか』
その言葉の端々に滲む、「現場を知る者」特有の疲労感。
私は思わず、条件反射のように答えてしまった。
『……予算も同じですわ。どんぶり勘定どころか、ザル勘定。稟議書の1枚もなしに国庫が開くなんて、監査が入ったら即懲戒免職レベルです』
エミールはバッとこちらを向き、泣きそうな顔で笑ったのだ。
『君……、話が通じるな。「報連相」の概念が存在する人間には、久しぶりに会った気がするよ』
それが、私たちの「共犯関係」の始まりだった。
彼は前世、大手ゼネコンで現場監督をしていたらしい。
私は元経理。
ブラックな環境で組織を回すことに慣れきった2人の日本人が、この破綻寸前の王国を、そのスキルと根性だけで10年間支え続けてきたのだ。
軍の兵站を彼が立て直し、破綻寸前の財政を私が粉飾──もとい、高度な運用で誤魔化す。
だが、それも限界だった。
王の浪費は加速し、貴族たちは腐敗し、民衆は何も知らずに搾取される。
私たちがどれだけ効率化を図ろうと、穴の空いたバケツに水を注ぐようなもの。
だから、私たちは決めたのだ。
バケツを修理するのではなく、バケツそのものを捨てて逃げることを。
◇◆◇
馬車が王城の車寄せに到着する。
重厚な扉が開かれ、私はエスコート役の騎士の手も借りずに、優雅に地面へと降り立った。
周囲から囁き声が聞こえる。
「見ろ、公爵令嬢だ」
「相変わらず、氷のような冷たさだな」
「可哀想なエミール殿下。あんな性悪女に捕まって」
「最近現れた聖女様を、酷くいじめているらしいぞ」
ククク、上出来だ。
この10年間、私は徹底して「冷酷で高慢な悪役令嬢」を演じてきた。
王子の婚約者として厳しく振る舞い、無能な貴族を容赦なく断罪し、予算を削り、不正を暴く。
それは全て国のためだったが、彼らの目には「権力を笠に着た悪女」としか映らない。
それでいい。
嫌われれば嫌われるほど、今日の「退職」はスムーズに進むのだから。
大広間の入り口で、エミールが待っていた。
金髪碧眼、白馬の王子様を絵に描いたような美貌。
だが、その瞳の奥には、私にしか見えない深い疲労の色と、それを上回る狂気的な決意の光が宿っている。
「……遅いぞ、レティシア」
彼は冷ややかに私を見下ろした。
周囲の貴族たちが「おぉ、殿下がお怒りだ」と色めき立つ。
私はスカートの裾を摘み、完璧なカーテシーを披露する。
「申し訳ありません、殿下。……愚かな羽虫がドレスにまとわり付いておりましたので、少々手間取りましたの」
父である公爵が、直前まで「王家ともっと繋がりを太くしろ」と喚いていた件だ。
エミールはフンと鼻を鳴らし、私に腕を差し出した。
その腕に手を添える瞬間、彼が極小の声で──日本語で囁く。
『(荷物は?)』
私は扇で口元を隠し、淑女の笑みで返す。
『(時空庫に完全移行済みよ。王家の宝物庫の中身も、換金性の高いものから順に)』
『(仕事が早いな。さすがは俺の最強の金庫番だ)』
『(貴方こそ。衛兵の配置換えは済んでいるんでしょうね?)』
『(ああ。今日の警備担当は全員、俺が息をかけておいた連中に入れ替えた。我々が城を出るまで、誰も動かない)』
短い確認。
それで十分だった。
私たちは腕を組み、大広間へと足を踏み入れる。
数千のキャンドルが煌めく会場。
着飾った貴族たち。
そして、その中心にある玉座には、恰幅の良い──ただの肥満とも言う──国王が、ワイングラス片手にふんぞり返っていた。
「おお、エミール! それにレティシアも。今日はめでたい卒業の日だ、存分に楽しむがよい!」
国王の能天気な声が響く。
エミールは彫像のような笑みを浮かべて一礼した。
「ええ、父上。今日はこの国にとって、忘れられない1日になるでしょう」
含みのある言葉に、国王は気づかない。
むしろ、自分の威光に息子が感服しているのだと勘違いし、満足げに髭を撫でている。
バカだ。
本当にバカで助かる。
私とエミールは、会場の中央へと進む。
そこには、既に「彼女」がいた。
ブロンドの髪をふわふわと揺らし、瞳を潤ませた少女。
この学園に特待生として入学し、その「聖女の力(という名の精神干渉に近い光魔法)」で瞬く間に学園のアイドルとなった、男爵令嬢のエリー。
彼女はエミールの姿を見るなり、わざとらしいほど大きな声を上げた。
「エミール様ぁっ!」
周囲の貴族たちが道を開ける。
エリーは私の存在など見えていないかのように、エミールへと駆け寄ろうとした。
本来なら、ここで私が扇で制止し、「身の程を知りなさい、男爵令嬢風情が」と罵るのがお決まりのパターンだ。
だが、今日は違う。
私はエミールの腕からそっと手を離し、一歩下がった。
エリーは勢い余って、エミールの胸に飛び込む。
「きゃっ! ……ご、ごめんなさい、エミール様。私、嬉しくてつい……」
「……いや、構わないよエリー」
エミールは優しく彼女の肩を支えた。
会場にどよめきが走る。
あの冷徹なエミール殿下が、婚約者の目の前で、他の女を抱き留めた?
しかも、あんなに甘い顔で?
クスクスと、悪意の混じった笑い声が広がる。
「見ろよ、レティシアの顔」
「ざまぁないわね。殿下もようやく、真実の愛に目覚めたのよ」
「聖女様の純真さが、殿下の氷の心を溶かしたんだわ」
聞こえてくる声の全てが、私たちにとっては極上のBGMだった。
さあ、舞台は整った。
キャストも揃った。
観客も満員御礼。
エミールが私を一瞥する。
その目は語っていた。
『いけるか?』と。
私は扇を閉じ、小さく頷く。
『いつでもどうぞ、現場監督』。
エミールはエリーを抱き寄せたまま、玉座の国王に、そして会場の全員に向けて、よく通る声で宣言した。
「静粛に!」
凛とした声が、音楽と喧騒を断ち切る。
静まり返った大広間で、エミールは私を指差した。
その指先は、まるで断頭台のスイッチのようだった。
「レティシア!」
エミールの声が、雷鳴のように轟く。
「貴様のような冷酷で、慈悲のかけらもない女との婚約は、今この時をもって破棄する!」
来た。
私が10年待ち焦がれた、退職勧告。
私は表面上は驚愕に目を見開き、わなわなと唇を震わせてみせた。
「な……っ、何を仰いますの、殿下……!? 突然、そのような……!」
素晴らしい。
王立劇場の看板女優も裸足で逃げ出す演技だ。
私はよろよろと2、3歩後ずさり、ドレスの胸元を強く握りしめた。
「そ、そんな……あまりに急すぎますわ、殿下! わたくしに、一体なんの落ち度があるというのですか!」
悲痛な叫びが、大広間の高い天井に反響する。
我ながら、完璧な発声だ。
腹式呼吸がしっかりできている。
エミールは私を一瞥もせず、さらに声を張り上げた。
「白々しいぞ、レティシア! 貴様が裏でエリーに行ってきた数々の嫌がらせ、知らぬとは言わせん!」
彼は懐から1枚の紙を取り出し、これ見よがしに広げてみせた。
「エリーの教典を燃やしたり、彼女を階段から突き落としたり、あまつさえ彼女のスープに激辛スパイスを混入させたそうだな!」
「ご、誤解ですわ! わたくしはただ、彼女に王妃としてのマナーをご指導申し上げようと……!」
私は涙を拭うふりをして、扇の裏で小さく舌打ちをした。
(……エミール、その罪状リスト、誰が考えたの? 安直すぎて逆に不安になるわ)
エミールが私を睨みつけながら、唇の端をほんの数ミリだけ動かす。
(『親父と取り巻きの貴族どもが捏造したリストだ。あいつらの脳内では、悪女の嫌がらせはこの程度が限界らしい』)
(『激辛スープって……小学生のいじめじゃないんだから』)
(『さあ、アドリブでなんとかしろ。ほら、もっと悲壮感出しとけ』)
了解です、現場監督。
私は膝から崩れ落ちるように床へしゃがみ込み、大袈裟に震えてみせた。
「信じてください、殿下! わたくしは、この国のため、そして殿下のために……!」
その姿を見て、周囲の貴族たちが一斉にざわめき立つ。
「見ろよ、あの無様な姿」
「いつも高飛車な公爵令嬢が、地べたを這いつくばっているぞ」
「いい気味だ。我々の予算を散々削ってきた報いだ」
「そうだそうだ! あの女のせいで、私の別荘計画も頓挫したのだ!」
嘲笑と罵倒が、四方八方から降り注ぐ。
ククク、聞こえる、聞こえるわよ。
お前たちのその浅はかな悪意が。
別荘計画? ああ、覚えているわ。
領民への救済予算を横領して建てようとしていた、あの悪趣味な黄金の別荘ね。
私が却下しなければ、今頃お前の領地では一揆が起きて首が飛んでいたというのに、感謝こそされど恨まれる筋合いはないわ。
玉座の国王が、ワイングラスを揺らしながら愉悦に浸った表情で口を開く。
「ふむ。レティシアよ、もはや言い逃れはできぬぞ。エミールの慈悲にすがり、罪を認めてはどうだ?」
このタヌキ親父め。
自分は高みの見物で、汚れ役は全て息子に押し付ける気か。
まあいい。
その高みから突き落とされる時の顔が、今から楽しみで仕方がない。
エリーが、エミールの腕にすがりつきながら、潤んだ瞳で私を見下ろした。
「レティシア様……素直に謝ってください。そうすれば、エミール様だって許してくださいます。……私、レティシア様と仲良くしたいんですぅ」
はい出ました、聖女様の「私ってイイ子でしょ」アピール。
その「仲良くしたい」という言葉が、どれだけ私の胃に穴を開けてきたか。
先月も「お友達になりましょう」と言って執務室に押し掛け、私が3日徹夜して作成した決算資料の上に、『あら、手が滑っちゃった。これで私と遊べますよね?』とクスクス笑って紅茶をぶちまけたのを、まさか忘れたとは言わせない。
エミールが、エリーの肩を抱き寄せ、優しく囁く。
「エリー、君は優しすぎる。だが、国母となる者には清廉潔白さが求められるのだ。……悪は、裁かれねばならない」
そして、彼は私に向き直り、氷のような眼差しで告げた。
「レティシア。貴様を、この国からの『国外追放』に処す!」
会場が静まり返る。
そして次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。
「おお! 素晴らしいご決断だ!」
「これで我が国も安泰だ!」
「聖女様万歳! エミール殿下万歳!」
追放。
それは、貴族としての死を意味する。
家名は剥奪され、財産は没収され、身一つで国境の外へ放り出される極刑。
普通なら、絶望のあまり気絶してもおかしくない宣告だ。
そう、普通なら。
「……追放、でございますか?」
私は床に伏せたまま、震える声で尋ねる。
「そうだ。二度とこの国の土を踏むことは許さん。今すぐ出て行け!」
エミールの声には、確かな「ゴーサイン」が含まれていた。
私はゆっくりと顔を上げた。
涙など、1滴も流れていない。
扇をパチリと閉じる。
その乾いた音が、歓声に沸く大広間の空気を一瞬だけ切り裂いた。
私はドレスの裾を払うと、何事もなかったかのように立ち上がった。
背筋を伸ばし、顎を引き、冷徹な事務処理モードの表情で、元婚約者を見据える。
「──謹んで、お受けいたします」
私の声色が、悲劇のヒロインから、冷徹な実務家のそれへと変わる。
周囲の貴族たちが「え?」と戸惑いの声を上げた。
国王も、グラスを口に運ぶ手を止める。
「な、なんだその態度は! 泣いて詫びるのではないのか!?」
私は国王を一瞥し、鼻で笑った。
「詫びる? 誰が、誰にですの? 私は感謝しているのですわ、陛下」
「か、感謝だと?」
「ええ。これにて、私と王家との雇用契約──もとい、婚約関係は完全終了。つまり、私は本日ただいまをもちまして、『自由の身』となれたのですから」
私は懐から、何枚かの羊皮紙を取り出した。
それは、私が長年改竄し、隠蔽し、ギリギリのところで回してきたこの国の「真の決算書」と、もう一つ。
私の退職届代わりの「請求書」だ。
「殿下。国外追放ということは、私がこれまで個人的に立て替えてきた諸経費についても、精算していただけるものと解釈してよろしいですわね?」
「う、うむ。慈悲深い余だ。手切れ金代わりに、多少の色はつけてやろう」
エミールがニヤリと笑い、台本通りのセリフを吐く。
「ありがとうございます。では──」
私はその1枚を、エミールではなく、その隣でポカンとしているエリーへと差し出した。
「こちらの『業務引継書』兼『債務請求書』を、次期王妃となられるエリー様に進呈いたします」
「え? ぎょうむ……? これって、王妃になるための新しいドレスのカタログですかぁ?」
エリーがきょとんとして、紙を受け取る。
「おめでとうございます、エリー様! 貴女が欲しがっていた『王子の隣』と『王妃の座』、そしてこの国の『借金総額・国家予算50年分』を、全て差し上げますわ!」
「は、はい……? しゃっきん……?」
エリーがパラパラと書類をめくる。
そこには真っ赤なインクで埋め尽くされた、絶望的な数字の羅列があった。
桁がおかしい。
0の数が多すぎて、一瞬では理解できないほどの天文学的数字。
それは、国王の浪費、貴族の横領、そして無計画な公共事業によって積み上げられた、この国の「死の宣告」だった。
「な、な……っ!?」
エリーの手が震え、書類がバサバサと床に散らばる。
その1枚を拾い上げた貴族の1人が、悲鳴のような声を上げた。
「な、なんだこれは!? 国庫が……空だと!? それに、隣国への借入金が、返済期限を過ぎている!?」
会場が一気にパニックに陥る。
国王が慌てて玉座から立ち上がり、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「レ、レティシア! 貴様、何を勝手な数字を! 我が国は豊かだ! 毎晩こうして宴を開けるほどにな!」
「豊か? お戯れを」
私は冷たく言い放つ。
「その宴の費用、どこから出ているとお思いで? 全て、我が公爵家が『個人的に』貸し付けていたものですわ。もちろん、無利子・無担保で」
「な、なに……?」
「ですが、私は追放される身。家督も放棄します。つまり、これまでの貸付金は全て、即時返済していただきます」
私は指をパチンと鳴らした。
すると、会場の四隅に配置されていた豪華な花瓶や、壁に飾られた絵画、さらには貴族たちが座っていた椅子までもが、青白い光に包まれて消失した。
「ひぃっ!? な、何が起きた!?」
「私の『時空庫』に回収させていただきました。これらは全て、私が私財で購入し、公爵家名義で『貸与』していた備品ですので」
私が淡々と告げると、会場はさらに阿鼻叫喚に包まれる。
「あ、あのシャンデリアも私物扱いですので」
私が天井を指差すと、巨大なシャンデリアが光を失い、消失した。
ガランとした大広間。
残ったのは、薄暗い空間と、立ち尽くす貴族たちだけ。
「おやおや父上」
そこで初めて、エミールが口を開いた。
エリーからスッと離れ、冷ややかな、まるで虫を見るような目で国王を見下ろす。
「レティシアを追放したのは父上の許可あってのことでしょう? 彼女がいなくなれば、誰がその借金の繰り延べ交渉をするんです? 彼女の実家であるベルンフェウス公爵家も、娘を不当に追放されたとなれば、王家への支援を打ち切るでしょうね」
「そ、それはお前が……エミール、お前がなんとかするのだ! お前は天才だろう!?」
国王が縋るように叫ぶ。
今まで散々仕事を押し付け、手柄だけを横取りしてきた父親の、あまりに情けない姿。
エミールは、深く、深くため息をついた。
「……俺? 俺にまだ、この泥舟の舵を取れと?」
彼は頭上の王冠に手をかけた。
黄金に輝く、王位継承者の証。
「お断りします」
カラン、と乾いた音が響く。
エミールは王冠を、ゴミ箱に空き缶を投げるような手つきで、床に放り捨てたのだ。
「え……?」
エリーが、国王が、貴族たちが、時が止まったように固まる。
エミールは前髪をかき上げ、憑き物が落ちたような清々しい顔で宣言した。
「俺も辞めるわ。こんなブラック国家の王子なんて、やってられるか」
「なっ……!?」
「聞いて驚け。この国の防衛システム、物流網、魔導インフラ……全部、俺がワンオペで回してたんだよ。予算がないから、睡眠時間削ってまでな」
エミールが一歩踏み出すたびに、国王が後ずさりする。
「現場はもう崩壊してるんだよ。職人は逃げ出し、資材は底をつき、納期は明日だ。……そんな現場に、誰が残るかよ」
彼はニヤリと笑い、私の方へと歩いてくる。
「エリー、君が聖女なんだろ? その『愛の力』とやらで、なんとかしてくれよな」
「え、エミール様!? 借金なんて能無しの馬鹿な国民共に払わせればいいじゃないですかぁ! 私、王妃になって、豪華なドレスを着て、毎日パーティをするはずじゃ……」
「ドレス? ああ、それもレンタル期限が過ぎてるから、そろそろ回収されるぞ」
エミールの言葉が終わるか終わらないかのうちに、エリーの着ていたピンク色のドレスが光となって消え失せた。
「きゃあああああっ!?」
下着姿となり、その場にしゃがみ込むエリー。
もはや、誰も彼女を助けようとはしない。
自分たちの明日が、いや、今この瞬間の立場が崩れ去ろうとしている恐怖に、この場の全員が震えていたからだ。
「待て! 待てエミール! レティシア!」
国王が金切り声を上げ、玉座から転がり落ちるようにして駆け寄ってくる。
「お、お前たちがいなくなったら、この国はどうなる!? 明日支払うべき借金は!? 兵士たちの給料は!? 誰が金を稼ぐのだ!?」
見苦しい。
あまりにも見苦しい。
私は冷ややかな目で見下ろしながら、最後の通告を行った。
「ですから申し上げましたでしょう? 全て、新しく王太子妃となられる聖女エリー様と、最高責任者である陛下にお任せすると」
「む、無理だ! あのような小娘に何ができる! ワシにもできん!」
「でしょうね」
私はあっさりと肯定する。
「ですが、それは『経営者』としての貴方様の責任です。現場(私たち)に責任転嫁するのは、お門違いというもの」
「くっ、衛兵! 衛兵は何をしておる! こやつらを捕らえろ! 反逆罪だ! 一生地下牢に繋いで、計算機として働かせるのだ!」
国王の号令が飛ぶ。
会場の警備にあたっていた近衛兵たちが、ガチャガチャと鎧を鳴らして動き出した──かに見えた。
しかし。
ガクンッ。
プスン。
彼らの動きは、まるで糸の切れた人形のように、不自然に停止した。
重厚な魔導鎧が、ただの鉄屑となってその場に崩れ落ちる。
「な、なんだ!? なぜ動かん! 王の命令だぞ!」
エミールが肩をすくめる。
「無駄ですよ、父上」
彼は懐から1枚の書類──『魔石納入台帳』の写しを取り出し、ひらひらと振ってみせた。
「彼らが着ている最新式の魔導鎧。あれを動かす高純度魔石の交換時期、昨日だったのご存知ですか?」
「ま、魔石……?」
「ええ。俺が先週、魔石の調達発注を止めておきましたから。残量ギリギリの『省エネモード』で歩くのがやっとのはず。戦闘モードの高出力になんて、耐えられるわけがない」
その言葉通り、衛兵たちは膝をつき、中の人間が「うぐぐ、重い……出力が上がらねぇ……!」と呻き声を上げている。
さらにエミールは続ける。
「ついでに、王都の城壁ゲート、宝物庫の扉、水路の開閉門……全ての『管理鍵』は、俺が持っています」
彼はポケットから、複雑な文様が刻まれた1本のクリスタルキーを取り出し、見せつけた。
「この城のセキュリティは、俺が設計し、施工管理しましたからね。非常時にはこの鍵1本で、全ての出入り口が物理的に封鎖される『緊急シャッター』が降りる仕組みなんです」
エミールが鍵に魔力を込めると、ズズズ……と地響きが鳴り始めた。
大広間の入り口、そして城へと続く回廊に、分厚いミスリルの防壁がせり上がってくる。
「なっ……!?」
国王が泡を吹いて倒れそうになる。
それはつまり、王城がただの「巨大な石の監獄」と化したことを意味していた。
外に出ることもできず、宝を取り出すこともできず、水門も閉じる。
まさに、兵糧攻めだ。
「さあ、そろそろ定時だ。行こうかレティシア」
「ええ。残業はもうこりごりよ」
エミールが私に右手を差し出す。
私はその手を、恋人繋ぎにするのではなく──。
パァァァンッ!!
会場中に響き渡るほどの勢いで、ハイタッチをした。
「お疲れーッス! 現場監督!」
「お疲れ、経理部長! これにて退職プロジェクト、完遂!」
その乾いた音は、私たちを縛り付けていた全ての鎖を断ち切る号砲だった。
「行くなぁぁぁっ!」
下着姿のエリーが、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら這いずり寄ってくる。
「私、やりたくない! 借金なんて嫌ぁ! エミール様、助けてぇぇ!」
私は彼女を冷たく見下ろし、最後の慈悲として情報を与えてやった。
「ご安心なさい、エリー様。借金取りの取り立ては厳しいですが、隣国の帝国の鉱山なら、衣食住完備で雇ってくれるそうですわよ?」
「え……?」
「まあ、寿命が尽きるまで働いても、利子すら返せないでしょうけど。……精々、その『愛され力』で現場監督に媚びることね」
絶望に顔を染めるエリーを放置し、私たちはバルコニーへと向かう。
エミールが指を鳴らすと、夜空に巨大な影が現れた。
それは、飛竜──ではない。
エミールが「資材運搬用」という名目で予算を通し、こっそりと居住性を高めて改造しておいた、魔導エンジン搭載の飛行船だ。
私たちにとっての、「逃走用キャンピングカー」である。
「う、嘘だろ……空飛ぶ船だと……?」
貴族たちが呆然と空を見上げる。
私たちは軽やかに甲板へと飛び乗った。
エミールが操縦桿を握り、慣れた手つきでレバーを操作する。
「動力炉、点火。浮遊石、安定。計器異常なし。安全確認、ヨシ!」
「進路クリア。退職金回収済み。損害賠償請求書、送付済み。経理処理、ヨシ!」
私たちは顔を見合わせ、ニカッと笑った。
「「総員、撤収!」」
ゴオォォォン!!
重低音と共に、船が急上昇する。
眼下で小さくなっていく王城。
そこには、ミスリルの壁に閉じ込められ、破滅を悟って泣き叫ぶ国王と、責任のなすりつけ合いを始めた醜い貴族たちの姿があった。
「あばよ、ブラック国家! その国の借金と王冠は、退職祝いにくれてやるー!」
「地獄へ落ちろ、クソ上司ー! 私の有給、全部買取請求しといたからねー!」
私たちは夜風に向かって叫び、そして高らかに笑い合った。
それは、この世界に来て初めて上げる、心からの歓喜の声だった。
◇◆◇
それから、3ヶ月後。
大陸の南、一年中温暖な気候に恵まれたリゾート国家「サザン・アマルフィ」。
透き通るようなエメラルドグリーンの海を臨む白い砂浜で、私はパラソルの下、優雅にトロピカルジュースを啜っていた。
かつての重いドレスはない。
今は、風通しの良いサマードレスに、つばの広い麦わら帽子という軽装だ。
「いやー、平日の昼間から飲む酒は最高だな。背徳の味がする」
隣のデッキチェアでは、アロハシャツを着たエミールが、サングラス越しに太陽を見上げている。
彼もまた、王子の仮面を完全に脱ぎ捨て、ただの気だるげな元日本人の青年に戻っていた。
「本当ね。肩こりも治ったし、肌の調子も絶好調よ。……やっぱり、ストレスが一番の毒だったのね」
私たちは、持ち出した「退職金(王家の隠し財産)」を元手に、この国で悠々自適な投資家生活を送っていた。
私が運用し、エミールが技術コンサルをする。
週休5日、残業なし。
前世も含めて、夢にまで見たホワイトライフだ。
「そういえば、風の噂で聞いたぞ。あの国の末路」
エミールが、氷をカランと鳴らしながら言った。
「ああ、私もニュースで見たわ」
私たちが去った翌日、帝国からの借金取りが王城に押し寄せたらしい。
エミールが閉じた「緊急シャッター」を開ける術がなく、彼らは3日間、水も食料もない状態で閉じ込められた挙句、帝国軍の魔導師部隊によって壁を破壊され、そのまま制圧されたそうだ。
現在、アルクメネ王国は解体され、帝国の属州となっている。
元国王は、その肥満体を強制的に絞られながら、帝国のサーカスで見世物として働かされているとか。
「『踊る元国王』として、結構人気らしいわよ。投げ銭で借金を返しているんですって」
「ハハッ、適職が見つかってよかったな。親父、昔から目立ちたがり屋だったし」
そして、聖女エリーと、彼女に媚びを売っていた取り巻きの貴族子息たち。
彼らは「連帯保証人」としてサインさせられていた書類(私がこっそりパーティー会場の芳名帳に紛れ込ませておいたものだ)が効力を発揮し、全員が魔石鉱山へと送られた。
エリーの「聖女の光魔法」は、魔石の精製時における不純物の除去に非常に役立つそうで、1日18時間労働で輝き続けているらしい。
「……ま、これまで学園中で無差別に男子生徒を洗脳して、退学に追い込んで、人生を弄んで楽しんでいたあの女の罪の償いにはちょうどいいだろ」
「『愛があればお金なんていらない』って言ってたし、お金のかからない鉱山生活、きっと満喫してるだろ」
エミールは意地悪く笑う。
「ま、自業自得ね。私たちは十分すぎるほど警告したし、チャンスも与えたもの」
そう。
彼らが一度でも、私たちの仕事に感謝し、誠実に向き合っていれば、こんな結末にはならなかった。
彼らは、自分たちを支えていた土台を、自らの足で蹴り壊したのだ。
「……で、レティシア」
不意に、エミールが起き上がり、真剣な声色になった。
サングラスを外し、あの時と同じ、碧眼が真っ直ぐに私を射抜く。
「ん? 何よ、現場監督」
「同志としての契約は、無事満了したわけだが」
彼は懐から、1枚の紙を取り出した。
それは、この国の役所に提出する、私たちが立ち上げる新しい商会の「共同経営契約書」だった。
そしてその上には、一対の銀の鍵が乗せられている。
私たちの新居の鍵だ。
「新しい契約、結んどく? 一応、この商会の利益配分は5分5分、生涯パートナーとしての独占契約付きだ」
なんて、ロマンチックのかけらもない、けれど最高に安心できるプロポーズだろう。
宝石よりも、花束よりも、この「対等な契約」こそが、私たちには一番似合っている。
私は呆れつつも、口元が緩むのを抑えきれなかった。
「……条件があるわ」
「なんだ? 福利厚生なら手厚くするぞ」
「家事は分担。お互いの趣味には干渉しない。そして──」
私はグラスを掲げた。
「二度と、残業はしないこと」
エミールは、少年のような笑顔で頷き、自分のグラスを重ねた。
「了解。契約成立だ、パートナー」
カチン、と涼やかな音が響く。
それは、どの教会の鐘の音よりも、私には心地よく聞こえた。
青い海、白い雲、そして隣には、世界で一番信頼できる「共犯者」。
私たちの、自由すぎる第二の人生は、まだ始まったばかりだ。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
誤字報告、とても助かりました!ありがとうございます!!(*^^*)
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【ちょっと補足】
感想で「エミールが逃げた後、聖女ちゃんは誰と結婚したの?」というご質問をいくつか頂きましたので、答えをこちらに書いておきます。
結論:「誰とも結婚できていません」
レティシアが業務引継書(借金と王太子妃の責務)を渡した瞬間は、まだエミールは王太子でした。
しかしその直後にエミールが辞職して逃走したため、彼女の手元には「王太子妃(仮)という空虚な肩書き」と「連帯保証人の借金」だけが残りました。
まさに梯子を外された状態。彼女のパートナーは、未来永劫「国の借金」のみです(笑)。
レティシアが言った「王太子妃様」は、ただの強烈な皮肉です。
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新連載
【連載版】無能王子に婚約破棄された瞬間、王国のトップ3に拉致されました。「私の書類を恋人のように撫で回すのはやめてください」逃げ場がないので、国ごと支配することにします。
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『その聖水、ただの麻薬ですよね?』
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