貴方が魅了されたのは貴方の頭の中にしか存在していない私です
ルチル・アンバーには婚約者がいた。
眉目秀麗、誰もが思わず目を奪われるような美しい男性。
グレイ・アルバート。
ただし、よろしいのは見た目だけで性格は正直なところ良いとは言えなかった。
外面は良いらしいので、グレイの本性を知らない令嬢たちは彼に対して素敵と褒めそやし、ルチルへ嫉妬の目を向けていた。
そもそもアルバート家からの打診だった婚約。
家柄的に相手の方が格上だったせいで、お断りしたくてもできなかった。
ルチルは別に他に好きな人がいたとかではなかったけれど、正直どうしてうちに!? と思ったのだ。婚約の話が出た時に。
もしかして、平民の愛人とか囲ってて、それでか……? なんて思いもした。
こっちが強く文句を言えないような立場なら、向こうが好き勝手できるだろうし、愛人に産ませた子を妻の子として、なんていう話を聞いたこともある。
問題しかない事でも、バレなきゃ問題ないだろうの精神なのかルチルが思った以上にその手の話は表に出ずとも横行しているのだとか。
理想の貴公子様と言われているグレイだが、初っ端の時点でお前ごときがこの私に選ばれたのだ。光栄に思え。と言わんばかりの態度だったので、ルチルは今まで彼の本性を知らなかったのもあって、夢破れた気持ちにもなった。
どうしてうちに!? と思ったものの、それでもほんの少しだけ夢を見てしまったので。
ルチルとて年頃の娘だったのだ。噂でそれはもう皆の憧れであると言われている相手から婚約をと言われれば、なんで? と思いながらそれでもどこかで見初めてもらったのかも……!? なんてほんの少しくらい夢を見てしまったのである。まぁ即座に打ち砕かれたが。
本当にどうして、としか言いようがない婚約。
見た目がいくらよろしかろうとも、外面がよくても、ルチルといる時の彼は理想の貴公子様とは程遠い。単なるクソ野郎であった。
ルチルは両親にそれこそ今からでも遅くないからこの婚約なかったことにできないかと訴えた。
ついでにグレイのルチルに対する態度についても訴えた。
勿論理想の貴公子様として評判のグレイの態度が酷いと言われてもすぐさま信じてはもらえなかったけれど、アンバー家にグレイが来た時、ルチルは使用人たちを下がらせつつもそっと部屋の外に待機させたり、窓をそっと開けておいて外に音が聞こえるようにと色々とやった事で、どうにか信じてもらう事ができた。
ルチルがアルバート家へ行く際は、そもそも向こうの家の使用人たちがいるとはいえあちらの家の使用人はあくまでもグレイの味方だろうと思うので頼りにはならない。
故に、こちらの家に来る時がチャンスだった。
目につく範囲に使用人がいればグレイだってもっと警戒して尻尾を出す事はしなかったと思うけれど、なるべく気配を消した上でそっと耳を澄ませておいて! とルチルが訴えた事で。
ついでに最初から部屋のどこかに隠れてて! 最初からいるなら気配がどうとか思われないかもしれないし! とそれはもう必死に訴えた事で、証人を得る事ができたのである。
そうはいっても、ちょっとルチルを罵ったりする程度でこちらから婚約の破棄なんてとてもじゃないができない。
ルチルはそれなりに大切に育てられてきたお嬢さんであるという自覚がある。
家庭教師にちょっと叱られた事もあるけれど、それとグレイの冷ややかな言葉とでは比べ物にならない。
家庭教師はルチルが素敵な淑女になるために、失敗した事を叱って同じ失敗をしないように、とルチルのためを思ってくれているけれど、グレイは単純にルチルを甚振っているようにしか思えないので。
彼の言葉を聞いたところで、自分の成長につながるとはルチルはこれっぽっちも思えなかった。
仮に、ルチルのためを思って言っているにしても、もう少し言葉を選べと言いたい。できの悪い娘だとか言うならそんな相手を婚約者に選んだお前の頭がどうかしている、と一体何度言いたかった事か。
どうにか婚約を解消したい。解消できないなら相手の落ち度をこれ以上ないくらい突き付けて破棄したい。
けれども、多少の理由では相手の家にあっという間に握りつぶされてしまいそうだし、それをわかっているからグレイの態度は尊大なのだろう。
ルチルにとってグレイと会うのはストレスになって、会うと決まった日は胃がキリキリと痛むまでになった。
なんだったら明日会う日だと思うだけで既に胃は痛いし、食事も美味しく感じられないし、明日が来るのが憂鬱になるくらいにまでなってしまっていた。
将来夫になる相手が相当なストレス源になってしまったのである。
ストレスでルチルは痩せた。やつれたと言ってもいい。
そんなルチルを見て両親も心を痛めた。グレイはそんなルチルを見て、なんだかみすぼらしくなったな、と言い捨てた。原因お前ですけどぉ!? と叫んでぶん殴りたい衝動に駆られたルチルだが、しかし暴力に訴えるにしてもどう考えてもグレイとルチルではルチルに勝ち目はなかったので。
ルチルは心の中でグレイを呪うのが精いっぱいだったのである。
ついでにグレイに想いを寄せている、本性を知らないお嬢様方に色々と言われるのもこれまたストレスだった。
いっそあいつの本性ぶちまけてやろうか、と思ったものの決定的な証拠がない限り最初の頃の家族や使用人たちのように信じてもらえないのは明白なので、ルチルはそれらを黙って聞き流すしかできなかった。
ルチルの家にグレイが来た時はまだしも、他のお嬢様方が集まるような場所ともなれば周囲に人がいるとわかりきっているものなので。
グレイがそう簡単に尻尾を出すわけがなかったのだ。
そういった場に二人で参加する時だけは、グレイはこいつ誰? とルチルが言いたくなるくらい理想の貴公子様みたいに完璧なエスコートをするので。どうにかしてこいつの化けの皮剥がれないかな、と内心でルチルが思っている事も知らないだろうグレイは、それこそ恋物語に出てくる完璧なヒーローみたいにルチルをエスコートするものだから。
余計に周囲の令嬢たちのやっかみが酷くなるのであった。
何度かこの婚約なかったことになりませんか、と捨て鉢になったルチルがグレイに言った事もあったけれど。
彼は鼻で笑ってルチルの言葉をそんな事あるわけがないだろうと切り捨てて下さった。
ちくしょう! と淑女としてお叱りを受けそうな叫びを口に出さなかったが、ルチルは心の中で絶叫した。
この時点で婚約の打診がされた時から体重は8キロ落ちていた。
ルチルは元々太っていたわけでもない。むしろ同年代の令嬢たちと比べると少し華奢かな? と思われるものだったのに、そこから更に減ったとなればそりゃあ周囲もやつれたと思う者がいたけれど、アルバート家に嫁ぐのに色々と学ぶことがあって大変なのかしらね……と思われていたり、あんなにやつれるくらい必死に学ばないといけないのなら、それこそさっさと諦めてしまえばいいのに、とグレイ狙いの令嬢たちが囁きあったり、いっそ倒れてくれれば婚約破棄とかされないかしら……なんて、ルチルの不幸を願うものまで。
実に様々な囁きがあったけれど、同情よりもやっかみの方がやっぱり大きかった。
それというのもグレイが外面だけは完璧素敵な王子様みたいなやつだったからだ。
「私が死ぬかあいつを殺すかしかないのよ」
なので、追い詰められ、思いつめたルチルがそんな事を言い出すのは、時間の問題でもあった。
実際そこまで追い込まれて、ルチルは相手が油断したら即座にナイフとかでぐさっとできないものかと考え始めたし、隠し持てる武器とかに注目し始めた。自分のような小娘にも扱える軽くて強い武器とかないかしら……とかどう考えても蝶よ花よと大切に育てられてきた令嬢の思考ではない。
「でもお嬢様、一撃で殺せなかったらこっちが酷い目に遭ってしまいますだ」
そう言ったのは、アンバー家の中では新参メイドのファニルだった。彼女は田舎出身のせいなのか、その言葉に訛りがあって見た目は花の妖精みたいなくせに、口を開くと一体どこの小作人かと思われる事が多い。
「いっそ毒を塗る? そしたら一撃で仕留められなくてもかすり傷でもダメージは与えられるわ」
「その前に武器を取り上げられて一方的に嬲り殺される未来がみえますだよ、お嬢様」
「じゃあもういっそのことあいつの目の前で自分の首ナイフで掻っ切ればいいって事!?」
「それもそれで、直前で止められてなんか向こうの評価が上がる展開に持ち込まれそうな予感がしますだ。
お嬢様、直接どうにかしようとしても相手の方が上手ですだよ。
ダメ元で魔女のところに行った方がまだどうにかなりそうな気がするだ」
「……魔女?」
「あれ。お嬢様知らねぇですだか?
おるでよ、魔女。この街に」
「えっ……?」
魔女、というのはお伽噺の中だけの存在ではない。
人の形をしてはいるけれど、しかし人間の常識とは異なるものを持って人の中に紛れて暮らしている生き物だ。
堂々と魔女と公言している者もいれば、魔女だと明かさず潜んでいる者もいる。
明かしていない魔女を見つけるのは至難の業で、公言している魔女はそう簡単に会える場所にいない。
それもあって、魔女という存在は知ってはいるがルチルにとっては縁遠いものであった。
それがあまりにもさらっとファニルがご近所にいますだよ、なんて言うものだから。
「案内してちょうだい」
がしっ、と縋りつく勢いでルチルはファニルの肩を掴んで言ったのである。
ちなみに瞳孔は開いていた。
もうこの事態がなんとかなればどうなったっていい。
そんな本末転倒な勢いだった。
いっそ自分が死んでもいいと思うくらいに、グレイとの結婚を心の奥底から嫌がっていたのである。
ファニルに案内されてやってきたのは、やってんだかわからない小さな古書店だった。
あっ、ここお店だったんだぁ、ふ~ん。
第一印象はそんなものだった。
ファニルに言われなければここが店だとも思わず、それどころか気付かないままだっただろう。
そんな小さな古書店にファニルは「お邪魔しますだ」と声をかけて、勝手知ったるなんとやら、とばかりに中に入ってしまった。
えっ、入っていいの!? とルチルは驚いたが、しかしここが店であるのなら客として訪れたのだから、入ったって問題はないはずだ。
傍から見て店に見えないせいでどうしたって躊躇ってしまうけれど。
ルチルも同じように「お邪魔します……」と言いながらファニルの後をついていった。
そうして奥まった場所で、日の光も届かないような部屋の隅でランタンをわざわざおいてそこで本を読んでいたのは、どこからどう見ても異国の踊り子だった。
褐色肌に露出の高い服、というより衣装。魔女と言われてルチルは勝手にお伽噺の中に出てくる老婆のような魔女を想像していたけれど、しかし目の前にいる相手は魔女という印象からかけ離れていた。
しなやかな肢体、豊満な胸元。どこに目をやっていいのかわからなくて、ルチルは視線を彷徨わせた。
ファニルはそんなルチルの様子に気付かないまま、
「お久しぶりですだ、おばば」
弾んだ声で挨拶をした。
「あぁ、あんたかい。そっちはお友達?」
「そんな恐れ多い! この方はオラが働いてるお屋敷のお嬢様ですだよ。困ってるから連れてきただ」
魔女らしき女性とファニルの会話に、二人が知り合ってそこそこ経過しているというのが窺えた。だがしかし、もし女性が本当に魔女ならば、恐れ多いのはむしろこちらでは……? とルチルは内心戦慄し、震える声を抑えながら挨拶と礼をした。
「……成程ねぇ。望まぬ結婚。
でも貴族なんてそんなもんじゃぁないのかい?」
ファニルが事情を説明したものの、魔女の反応はいたって当然のものだった。
「家の利になるっていうのならそうですだ。でもこの結婚、別にお嬢様には何の利もありませんし、旦那様や奥様にとってもそうですだよ。
格上の相手から望まれたというのは名誉かもしれねぇです、でも、名誉だけでそれ以外なぁんにもねぇですだ」
このままじゃお嬢様が死んじまうかもしれねぇだよ! と訴えるファニルに、美貌の魔女はふぅん? と鼻を鳴らすように相槌を打って、本を置いていた机の上におもむろに水晶玉を取り出して置いた。
そうして水晶玉に手をかざせば、水晶はほのかに光る。
ランタンよりは明るくないが、しかし確かに青白い光を放っていた。
ルチルの目には淡く輝いているだけにしか見えなかったが、魔女にはそうではなかったらしい。
ふぅん? へぇ? ほぉん?
そんな感じの声というより音が魔女から漏れる。一体何が見えているのだろう……?
ルチルが疑問を口に出すよりも先に水晶の輝きが消える。
ランタンの明かりがあるといっても、水晶の輝きが消えた途端なんだかやけに薄暗く感じた。
「愛されてはいるようだよ?」
「そんな!? あの男前にお屋敷に来た時、オラたちがいなくなった途端お嬢様の事をぼろくそに貶してたのに!?
あの男のせいでお嬢様はやつれて、ご飯だって満足に喉を通らなくなってるのに、そんな目に遭わせたくせに愛している!? 嘘でしょおばば」
ルチルが何を言われたのか理解できない、と目をぱちくりさせた一瞬の間にファニルが信じられないとばかりに声を上げた。
魔女はファニルの剣幕に、しかし笑ってみせた。楽しいというよりはどこか嘲りを含んだ笑みだった。
「愛って一言で言ってしまえばさも尊いもののように聞こえるけど、愛のカタチなんて人それぞれだからね。
この男の愛はあんたらにとっては受け入れがたい、ただそれだけさ。
それで? あんたは結局どうしたいの?」
向こうから望まれた婚約。
見初められたのだと思っていた。
実際魔女の言葉を信じるのなら、それは事実なのだろう。
ただ、グレイの愛がルチルにとって苦痛なだけで。
「わ、私は……愛のある結婚というものに憧れていたのは嘘じゃありません。
でも、貴方の言葉が本当なら、あの人の愛を私は受け入れられない。
……結婚した後も続くって考えたら、いっそ今から死んだ方がマシだと思い始めているもの」
ルチルにとっての愛は、両親がルチルに与えてくれたような、柔らかで温かいものだ。だがグレイから与えられた愛とやらにそれを感じた事はない。それどころかただただ苦痛で、一刻も早く逃れたいと思うものでしかなかった。
婚約している状態でコレだ。
結婚した後、更に状況が悪化するような気しかしない。
それどころか、妻になった以上跡継ぎを産まなければならないと頭ではわかっているが、でもそれをあの人と? と考えただけで胃がキリキリと悲鳴を上げそうになる。ツキン、と刺すような痛みを感じて思わずルチルは自分の腹に手をあてた。
「ん? ちょっとあんた、そこ動かないで。そうそのまま。
……あらヤバいわ。あんたこのままだと胃に穴が開くよ」
「なんとかならねぇだかおばば!?」
「医者にかかってお薬もらって安静にしとけばそのうち治るとは思うけどねぇ。ただそれ、どう考えてもストレスが原因だからストレスの元を断たないと薬飲んでも一時しのぎにしかならないね」
「やっぱあの男を殺すしかねぇだか!?
……お嬢様には世話になった身、なら、今こそ恩を返す時ですだ。
オラ、ちょっとアルバート家に行ってあの男殺してきますだ」
「まってまってまって! ファニル! 流石にそれは問題っ……いたったたたたたた……!」
「お嬢様!?」
「バカ、あんたが症状を悪化させるような事してどうすんだい。
話を聞く限り相手の家の方が身分が上なんだったら、あんたがそこのDVクソ野郎殺したところであんたは罰を免れないし、ましてやあんたを雇ってるお嬢さんの家にも責任とらされる事になるんだよ」
あまりの胃の痛みに思わず蹲ったルチルに寄り添うようにしゃがみ込んだファニルは、何をどうすればいいのかわからないとばかりにルチルの背を優しくさすった。
ファニルの物騒発言に嫌な汗をかいた自覚のあるルチルは、痛みに呻きながらも魔女を見上げた。
「あの、対価は……? このままだとファニルが私のせいで自分の命を捨てるかもしれないので、それを避けるためと、あと私の今後の未来のためになんとかできるならしてほしいくらいなのですが、流石にタダでとはいかないのもわかっています。
ただ、うちはそこまで裕福というわけでもないので、対価として支払える範囲を超えるようなら流石に諦めるしかないのも事実……いたた」
「お嬢様、あぁ、オラが余計な事を言ったせいで……!
おばば、オラの命でよければ差し出すだよ。だからお嬢様を助けてあげて欲しいだ」
「いらないよあんたの命とか。命もらうくらいなら素直に宝石要求するわ。
まぁ、そうだねぇ……」
魔女が水晶玉に再び手をかざす。
先程とは違う色合いの輝きを放つ水晶を、やっぱり何が映っているのかわからないのでルチルは呆然と見上げるだけだった。立ち上がろうにもまだお腹が痛いので。
「ふぅん? あぁ、これならいけそうだ。
いいよ、対価。決めた。
まずは――」
いい案を思いついた、とばかりの魔女の唇は、まるで三日月のように弧を描いていた。
獰猛な魔獣が獲物を見定めた時のような空気に、ルチルは一瞬だけ痛みを忘れたのである。
――魔女から指示されたとはいえ、正直ルチルは上手くいくのか不安で仕方がなかった。
けれど、その心配も杞憂であったらしい。
他国との交流としてやってきた姫君が、どうやらグレイを見初めたらしい。
そしてそれを知った父王が、是非娘の婿に、とこの国の王に言ったもののしかし既にグレイはルチルと婚約をしてしまっている。
それでも、身分の低い国内の貴族の娘より、友好国でもある姫君と結ばせた方が国にとって益となるのは確かだ。
国内でも人気の高いグレイではあるが、そんな貴公子が国のため、姫君と結ばれるとなれば周囲も反対などしないだろう。国王はグレイの婚約者であるルチルが他の令嬢たちのやっかみの的になっていることを知っていた。正直あの家と結ばれて一体何の利益があるのだろう、と王ですら疑問に思っていたくらいだ。
ただ、アルバート家にとっては利となる、とグレイが言っていたので深くは聞かなかったが。
だが、ルチル・アンバーとの結婚はアルバート家にとってだけの利であり、国の益ではない。
それならば、誰もが認めるであろう姫君との方がこの国でグレイに想いを寄せている令嬢たちも諦めがつくし、何より国家間の絆を深める事は多大な利益となる。
そうでなくとも、友好国とはいえあちらの国の方が立場は若干上であるので、断りにくいというのもあった。
勿論グレイは反対した。
貴族である以上、国の利益になるべき行動をとるのは当然であると言われても、それでも自らが望んだ婚約なのだ。
グレイは自らの言動で苦しみ悲しみ傷つくルチルを見る事で幸せを感じていた。歪んでいる、と周囲が知れば言うだろう。グレイはそれをわかった上で、だからこそ周囲がルチルと自分をそれとなく引き離そうとするような事をしないよう、愛する者以外にはまさしく理想の貴公子という仮面をかぶり演じてきた。
そうしてようやく手に入れた最愛のルチルとの婚約を白紙にして、他国へ赴けなど。
いくら国にとっての利となろうとも、グレイにとってはなんの旨味もない。
この時ばかりは流石に焦りもあったのか、グレイはルチルの元を訪れて、そうして言い募ったのである。
この婚約の解消に、お前も反対だろう!? と。
ルチルからすれば婚約がなかったことになるのならむしろ万歳しながら喜ぶ勢いだが、しかしそれを言えばグレイにどんな目に遭わされるかわかったものではない。
一秒でも早く遠ざかってほしいが、しかしルチルがそんな風に思っていると知ればグレイは激昂して今までは精神的に甚振るだけだったのが、肉体的な暴力に訴えるかもしれなかった。
だからこそ、ルチルは頑張って演じたのだ。
愛するグレイと引き離される、哀れな娘を。
実際愛なんてそこにはなかったけれど、ルチルはグレイから与えられる苦痛を――愛を受け入れている従順な娘であるかのように振舞った。
そうして涙混じりに語ったのだ。
愛するあなたと引き離されるのはとても悲しい。
けれど、そうする事が国のためになるというのであれば……私、私……っ。
ここでぽろりと涙を零す。
嘘泣きではあるけれど、今までグレイから投げかけられた心無い言葉とか、令嬢たちのやっかみによるキッツイお言葉を思い出せば嫌でも涙なんて流れてきたし、一度流れ始めたら次から次に涙がぽろぽろと出てきたので。
グレイは泣く程引き離されるのが辛いのか……とそんな場合じゃないのに思わず胸を高鳴らせていた。
しかし、だからといって好きでもなんでもない女――見た目は良かったがそれだけだ――のところへ婿入りするなど、グレイにとっては回避したい出来事である。
いっそ侍女としてルチルをどうにか連れていけないだろうか、なんて馬鹿げた事まで考えたが、どう考えてもそれは無理だと理解するしかなかった。
姫君がアルバート家に嫁いでくるのであれば、ルチルを手放さない方法はあるけれどグレイが向こうへ行くとなれば、連れていく従者に女性がいるのは姫君やあちらの国にとってもいい顔はされるはずがない。
その女性がある程度年のいった者であるならまだしも、婚約者であった女性であるともなれば。
浮気相手を連れていきますよと宣言しているも同然である。
いくらグレイが真に愛しているのがルチルであると言ったところで、姫君と結婚する以上ルチルこそが浮気相手である。愛人として囲うつもりにしても、姫君とてそれを許しはしないだろう。そんなことはわかりきった事だった。
泣く程自分と離れたくないと想われていた、という事実にグレイは心が満たされるのを感じたがしかしこのままでは二人は引き離されてしまう。
やはりなんとしてでもこの話、断らなければ……とグレイが考え始めたその時、ルチルは目を瞬かせ涙を落とし切ってからグレイを見上げた。
涙に濡れた瞳はいつも以上にキラキラと輝いているようで、グレイは思わず息を吞む。
今までは自分の言葉に傷ついたような表情こそ浮かべたが、泣く事はなかった。
初めて見るルチルの新しい表情に、グレイは思わず見入っていたのだ。そして同時にその表情を浮かべさせたのがほかならぬ自分である事に、高揚する気持ちを抑えてルチルを抱擁しようとした。
けれどルチルはそれを察していたように、すっと身を引く。
そうして言ったのだ。
貴方がこの国を出ていっても、私は貴方を思っています……と。
だから。
だからどうか。
貴方様も貴族としての役目を立派に果たして下さいませ――と。
そう言った時のルチルの瞳がまるで星が煌めいたかのように見えて、グレイはしばし見惚れていた。
愛している。
その事実に変わりはない。
だが、こうまで言っているのだ。
自分が姫君の元へ行った後も、彼女は自分を想い続けてくれるのだと思うだけで。
他の誰かを選ぶ事なく生涯独身でい続けるというのなら、修道院へ行くのだろうか。
誰のものにもならない。
いいや、誰のものでもなく自分のものだ。
ルチルのすべてが愛おしくて仕方がなかったし、今すぐ彼女を連れてどこか遠い所へ逃げたくもなったけれど、しかし長年被り続けてきた貴公子としての仮面を捨てきれなかった。
ルチルと駆け落ちしたところで、先は見えている。
もしそうなれば、この先明らかに苦労するのは言うまでもないし、ルチルが辛く苦しい思いをするにしてもそれはグレイがもたらしたものではない。恵まれた環境にありながら苦しむルチルの姿を見るのがグレイにとっての至福であり、単なる生活苦で疲れた表情を浮かべるルチルなど、そんな当たり前のものを見てもどうなるという話だ。
落ち着いた頃にそっと人をやって、ルチルの様子を探らせるなりこっそり攫うなりできなくはない。
ならば、ここは王家へ恩を売るついでに姫君との婚姻を了承するべきだろう。
自分はこの愛を貫くのだと決意して、そうしてグレイ・アルバートとルチル・アンバーの婚約は白紙となった。
「色んな意味で助かりました」
後日、魔女の元へ訪れたルチルは深々と頭を下げた。
「魔眼の力は役に立ったかい?」
「えぇ、まぁ」
正直な事を言えば半信半疑だった。
えっ、本当に大丈夫なの? と言葉にも出したくらいだ。
何故ってルチルは魔法を使えないただの人間だからだ。
魔法と言われてなんでもできるものかと思いきや、魔法にだってできる事とできない事があると言われたから、魔女の持つ魔眼の力を貸し出すと言われても、ルチルがそれを使いこなせるかどうかはまた別の話であったために、婚約が白紙になるまで気が気じゃなかった。
魔女の目には特殊な能力があるらしく魔女はそれを魔眼と言っていた。
その魔眼の力を一時的にルチルの目に宿した状態でグレイにその力を使ったのだ。
魔眼に秘められた力は魅了。
他の魔女にも同じ力があるかと言われればそうではないらしいが、ルチルに力を貸してくれた魔女の目には魅了の力があった。
そうはいってもグレイは既にルチルの事を愛している。
その愛がルチルにとって歪んだものであろうとも。
既に愛している相手に魅了を使ったところで、その想いが余計に歪むだけではないか、と思われがちだがしかし多少、その方向性をずらす事は可能だと魔女は言っていた。
本来ならばグレイは何が何でも婚約の白紙なんて頷かなかっただろう。折角手に入れたルチルを手放すような真似をするなんて冗談ではない、と。
そうでなくともグレイは薄々理解していたはずだ。ルチルがグレイの事を愛していない事を。
実際愛していないので間違ってはいないけれど、ではそこで婚約を白紙にさせればルチルは意気揚々とグレイから逃げ出すのは言うまでもない。
しかし、魔眼の力による魅了は、目の前にいるルチルではなく彼の想う理想のルチルに向けられた。
そうしてルチルはたとえどんな目に遭わされても彼の事を健気に想い合うまさしくグレイの頭の中だけにしかいない理想のルチルっぽく振舞っただけだ。
婚約が白紙になったのなら、グレイ・アルバートの事など正直もうどうでもいい。
自分とは無縁の存在なのだから。
勿論彼は勘違いしただろう。
思っているとは言った。
言ったけれど、グレイが思うような、愛する人を想うというものではなく、あいつ今頃どうしてっかなー、というような思いだ。遠い国で元気にやってるのかなー、とかちょっと思いを馳せた時点でルチルは義理を果たしたと言える。
グレイが勝手に愛する人を想い続けるみたいに思い込んだ事に関しては、仮にも貴族なんだからそこら辺の言葉の受け取り方を間違えたあちらの落ち度である。
魔眼の力でグレイの愛の方向性を若干正常に戻した事でそうなったとも言えるけれど。
ルチルが修道院でグレイを想い続けながら生涯を過ごす……みたいに向こうはどうやら思ったらしいが、ルチルがそんな事をする必要はどこにもない。
確かに見た目と外面が良くても中身が好きな子虐めて愛を実感するタイプが婚約者になった時点で、次の婚約者が決まってもこいつももしかして……!? みたいに思う事はあるかもしれない。
なのですぐに次の結婚相手を探さなくちゃ! という気にはならないが、だからといって修道院で生涯独身貫くつもりもない。
現実のルチルはグレイの事なんて関係なくなればさっさと忘れたいし、二度と関わりたくもない程度に彼の事を嫌っている。
故に、精々。
グレイは自分の脳内の理想のルチルを想い続けたまま是非とも向こうで頑張ってほしいものだ。
「やけに都合よく姫君が結婚相手に、なんて言い出したなと思ったけどそこも貴方の仕込みなんですよね?」
「えぇ勿論。驚くでしょうね、彼」
だってこの国にきた姫君から求婚されたと思っているが実際は違うのだ。
あちらの国の姫君は一人ではない。複数名いる。
今回こちらの国にやってきた姫君はその中でも最も美しいと言われているようで、ルチルも遠目とはいえ一目見る事ができたのだが確かにびっくりするくらい美人だった。
えっ、こんな綺麗な人が存在するんだ……ってくらい美人すぎて、ぽかんと口を開けてしばし見入った程だ。遠目でこれなら近くで見たらあまりの眩しさに目が開けなくなるのではないかしら、とすら思う程で。
この国の美人と言われている令嬢たちですら勝てないだろうなと思えるくらいの美女とグレイが並べばまさしく美男美女、似合いの二人としか言いようがない。
ところが実際、グレイの結婚相手はその絶世の美女である姫君ではない。
確かに見初めたのは彼女だが、しかし彼女は一言も言っていない。自分の結婚相手に、とは。
「あちらの国のお姫様がたくさんいて、その中の一人とあの人が結婚する。でも結婚相手のお姫様は、彼女ではなく別の――魔女の呪いで美貌が消えて醜い姿になってしまった人。
今まで自分の美しさに絶対の自信を持っていたのにそれがなくなった事で、他の美しいものを憎むようになってしまった。
そんなところに、あんなツラの良い男が婿になる、なんて言われたら。
身近な美に対して憎しみは向かうだろうし、そうなればあの人は今まで自分がそうしていたように、私のような目に遭わされる。
違いは、あの人は私を愛するが故だったみたいだけど、あっちは憎しみ故。
命まではとられないだろうけれど、それでも決して幸せになれない結婚。
そして、呪いのせいで醜くなったお姫様はきっと彼を手放さない。逃げようとすれば殺すかもしれないけれど、姉妹からも関わらないように、使用人すら最低限となったお姫様は間違いなく彼に執着する。
逃げ出す事もできず、思い出の中の私を希望にして不幸せな結婚生活を過ごす事になる……」
「えぇ、そうね」
「最初話を聞かされた時は本当かな? って信じられなかったけど、そこから仕込みなんですよね?」
「あぁ、ファニルからお嬢様をなんとしてでもお助けしてくだせぇ、なんて言われてしまえば、ね。あの子には借りがあったし。だからわざわざあの国の王様に夢の中でさも神様からのお告げっぽく伝えたのよ。呪われたお姫様にぴったりのお婿さんがいるってね。
それだけだとたかが夢と切り捨てられるかなって思ったから、多少、洗脳っぽい魔法も使ったけどね。
ついでに他のお姫様たちの夢の中にグレイ・アルバートの姿を投影もしたわ。
呪われた姫君と一緒にいるところを。
呪われて醜い姿になってからは、他のお姫様たちへの八つ当たりも酷かったようだから、閉じ込めておくにしても宮殿の中なら抜け出して勝手に歩き回るようなお姫様だったもの、それなら自分に害がないよう生贄になりそうな相手がいるというのなら、そちらを与えるに越したことはないでしょう?
そうすれば、自分たちへの八つ当たりは減るかもしれないもの」
「そのお姫様何やらかして呪われたんです?
あとファニルは貴方に何を……?」
「魔女にだって心はあるもの。呪われた姫君はそれを踏みにじった。それだけよ。結果怒りを買って呪われた。自信を持っていた美貌を奪われたのは、そういう意味では自業自得。
ファニルは以前、魔女が立ち入れない場所にある魔法薬の材料を調達してくれてね。結構危険な場所だったから、人に頼むにしても引き受けてもらえるかどうか、ってところだったの。
で、そんなファニルを貴方、色々と良くしてくれていたんでしょう?」
「良くした、かはあまり覚えがないんですが。使用人として新しく入ったばかりで慣れない感じではあったから、気にかけはしましたけど」
「充分よ。あの子はだからこそ貴方を助けたいと思ったのだから」
「そう、なんでしょうか……?
あ、そうだ」
なんとなく釈然としない部分もあったけれど、ルチルは思い出したように持っていた鞄からそっと約束の物を取り出した。
「対価というか報酬というか微妙なところですが、こちら、お納めください」
ルチルが取り出したのは、ルチルの両手でようやく収まるサイズの宝石だった。
ルチルの家にあった物ではない。そもそもルチルの家にこんな大きな宝石なんてあるはずがなかった。
これは王家からもらったものだ。
あちらの国との友好を深めるために、という名目でグレイとルチルとの婚約はなかったことにされた。
折角ルチルには婚約者がいたけれど、それを奪う形となったようなものなので、王家はルチルに新たな縁談を持っていこうかと思ったのだが、しかしルチルはそれを断った。
正直王家の紹介ならグレイよりマシな相手だろう事は確実だ。ルチルとしても是非、と言いたかったがすぐさまここでその話にのると万が一グレイの耳に入った場合面倒な事になりそうだったので断るしかなかったのである。
王家からその話が出た時点ではまだグレイはこの国にいたので。
なのでそこはそれとなくやんわりとお断りして、代わりに宝石が欲しいと強請ったのである。
慰謝料と言ってしまえばそうだった。
王家はそれならば、と気前よくポンとこの宝石をくれたのだ。
そしてそれは、グレイとの婚約をなかったことにするための対価として魔女が要求した物だった。
宝石自体は大きいけれど、しかしこの宝石実はそこまで価値が高いものではない。
なので王家もそれなりの大きさのやつをポンとくれたわけだ。
ちなみに慰謝料がこれだけだと流石に王家もみみっちぃなと思ったのか、他にも貰っているのでルチルからすれば嫌いな男との婚約がなくなった挙句大金が手に入ったので、最終的にはプラスである。
胃の痛みもなくなって食欲も戻ってきた。夜ぐっすりと眠れるようにもなったし、なんだったら今の今までやっかみや嫉妬でルチルにきつく当たってきた令嬢たちの態度も柔らかくなった。
彼女たちにとってどうせこっちが何言ったってグレイ様と結婚するんだからこれくらい甘んじて受けなさいな! という気持ちだったようなのだが、しかし他の国のお姫様、それも自分たちですら太刀打ちできないレベルの美人に掻っ攫われたようなもので、そうなるとルチルがあまりにも不憫に思えたのだろう。
なんだかんだこちらがちょっと嫌がらせをしたところで、でも最終的にグレイ様の妻になるのはあの子なんだし……と思っていたのにしかし実際はそうならなかった。
そのせいで、今までつらく当たっていたという事実だけが残る。
そこに、若干の申し訳なさがあったのだろう。
王家から新しい婚約者紹介しようか? という話を断ったというのもどうやら令嬢たちに申し訳なさを抱かせたらしく、今はそういう気分じゃなくてもいずれ新たな相手を、ってなった時一応相談に乗りますわよ? とものすっごく申し訳なさそうに数名の令嬢たちがそっと申し出てくれたのである。
ルチルにとっては嫌な人たちだったけれど、悪い人たちではなかったのだろう。
ルチルも貴族令嬢なのでそれなりに笑みを顔に張り付けて、その時はお願いいたします、とだけ答えておいた。
渡された宝石は魔法の媒介に使う事もあるらしく、魔女は大層お喜びであった。
直接入手しようにも、魔女が直接乗り込むには問題のある場所で採掘されるらしく、手に入れるにはそれなりの手順を踏まないといけないのだとか。その宝石を手に入れる機会があったからこそ魔女はルチルを助けたようなものでもあった。
ファニルに頼まれただけでは、対価にもう少し色々要求する必要があったらしい。そういうところは商人並みにきっちりしている。
ともあれ、ルチルにとっての不幸の象徴である偽りの貴公子との縁は切れた。
こうしてルチルは清々しい気持ちでもって、帰路へとついたのである。
次回短編予告
婚約者となった二人と、婚約者の男の幼馴染。
テンプレにありがちな関係は、しかし中身が転生者であるが故に。
特に波乱が巻き起こる事もなかったのである。
っていうありがちなお話。
次回 所詮、幼馴染
ぶっちゃけ幼馴染の関係性って普通の友人関係よりも維持するとなると気を使わないといけない部分とかあるよね。というか、幼馴染ってどこら辺からその範囲に入るんだろう……? (´・ω・`)