冬の水葬
幼い頃、私は凪蓮水のことをハスミちゃんと呼んでいた。
性別の差異もいまいち曖昧だったころの話。
もう戻れない。
戻りたいわけじゃないけれど。
今は――もっと早く大人になりたいと思う。
六畳の私の部屋のベッドの上に寝転がって、天井を眺めている。
ただ横になっているだけなのに、呼吸が勝手に乱れていく。
小動物は心拍数が早いから、早く死んでしまうらしい。
いつかどこかで聞いた情報が勝手に頭の中に思い出された。
「迷惑だったかなぁ……」
ストライプ柄の水色のベッドカバーの上に、四角い携帯電話が落ちている。
指先で軽くつつくと、黒い液晶画面が明るくなって時計が映し出された。
時刻は午後八時。
余程のことがない限り、まだ大概の人々が起きている時間だ。
「ハスミちゃん。……は、駄目よね。もう高校生になるんだし。蓮水先輩……、は馴れ馴れしいか」
もうずいぶん連絡を取っていなかったから、トークルーム一覧の下の方に移動してしまった『ハスミちゃん』の文字をタップすると、最後に交わしたメールと、一番新しいものが映る。
最後の日付は去年の六月。
ハスミちゃん――じゃなくて、凪先輩が、高校一年生になってから交わした私の『忙しいの? 部活、とか?』の後に、『美術部。楽しいけれど、結構忙しい』のメッセージのあとの、『頑張ってね』で会話が途切れている。
それから一番新しいものは、今さっき。
『ハスミちゃんと同じ高校受かったよ』という文字が、吹き出しマークの中に軽薄に浮かんでいる。
「……同じ歳だったら、良かったのに」
同級生に産まれていたら、中学高校と、離れることなくいられたのに。
中学校の時は毎朝会うから、自然に一緒に学校まで行っていた。
中学校は歩いて行ける場所にあるけれど、凪先輩が選んだ高校は、電車に乗らなければ登校できない場所にある、頭の良い人しか入れない進学校だった。
私は運動は結構得意だけれど、勉強はあんまり得意じゃない。
成績は、中の下ぐらい。たまに下の上ぐらいになることもある。
凪先輩は昔から頭が良かったけれど、私はそこそこ。多分、普通。
だから凪先輩の選んだ高校を知って、絶望的な気持ちになった。
もう、一緒に通うことができない。
物理的にも無理だし、学力的にも無理だ。
けれど、恋の力は偉大なもので、それから一年。
私は死ぬ気で勉強した。
友達と遊ぶ回数も減らしたし、時間が許す限り参考書と睨めっこしていた。
お母さんは「暇さえあれば、漫画ばっかり読んで携帯を弄りながらごろごろしてた七瀬ちゃんが、別人になった」と言って喜んでいた。
のんきなものである。
私にとって、凪先輩と同じ学校に通えるかどうかは、人生においての死活問題だったのに。
そのかいもあって、私は元々の学力よりもずっと上の高校に、ギリギリ合格することができた。
高校に張り出されていた合格通知の掲示板に、番号があったのを発見したときは、お母さんなんて二度見どころか四度見ぐらいしていたほどだ。
中学時代の担任の先生も「奇跡が起った」と言って、半泣きになっていた。
誰も彼も私を褒めてくれたけれど、誰一人として私の不純な動機に気づいていた人は居なかったように思う。
お母さんは「蓮水君から良い影響を受けたのねぇ」と言っていたけれど――そこまで深くは考えていないようだった。
将来のこととか、良い大学に行きたいとか、夢があるとか、そんなことはなにひとつない。
私はただ、凪先輩と同じ学校に通いたかっただけだ。
そうじゃなければ、瓶の中に浮かぶ帆船から海の中に落ちて、窒息してしまう。
「……っ」
携帯を握りながら、天井を見上げていると、不意に軽い振動を感じた。
慌てて起き上がって、液晶画面を穴の開くぐらいに見つめる。
トークルームに凪先輩からの、『おめでとう、七瀬。電車に乗り遅れないように』という返事が浮かんでいた。
中学時代でさえ、遅刻ぎりぎりで登校していた私である。
更に遠い場所にある高校に通うためには当然もっと早起きしなくてはならず、私は自分が信用できなかったから、起きるべき時間よりも三十分早くアラームを設定しておいた。
けたたましく鳴り響く携帯電話のアラームを消して時刻を確認する。
液晶画面をちらりと見たら、六時だった。
「なんだ、まだ六時じゃない」と呟いて、私は二度寝した。
そう。
昨日の夜の己の行動を、すっかり忘れていたのだ。
「……七瀬ちゃん、いつまで寝ているの? 今日から学校じゃないの?」
私に似てのんびりした性格のお母さんの間延びした声が、部屋に響く。
悪魔のように気持ちの良いベッドからはっとして体を起こすと、壁掛け時計はすでに七時を示していた。
電車に乗らなければいけない時刻は、七時十五分。
「遅刻しちゃう……!」
私は青ざめながら、クローゼットにかけてあった制服に急いで着替えた。
パジャマを脱ぎ散らかして、指定の紺の靴下をはく。
プリーツスカートを腰まで引き上げて、ホックをとめて、チャックをあげようとした。
焦れば焦るほどに、チャックに布が引っかかってしまい上がらない。
わたわたしている私を、お母さんは「あらあら」みたいな顔をしながら、にこにこ見つめている。
「七瀬ちゃん、お弁当、鞄に入っているのと、電車代も三千円分カードにチャージしてあるからね。教科書は準備できている?」
「大丈夫、ありがとうお母さん!」
ブラウスのボタンを閉じて、上からばさりとブレザーを羽織る。
首のリボンは着脱式で、ブラウスの襟の奥のボタンに引っかけるタイプだけれど、そんな時間はない。
私はリボンと鞄を掴んで、歯磨きだけ洗面所に駆け込んで済ませると、ローファーを履いて家から飛び出した。
駅までは、歩いて二十分はかかる。
だから本当は、六時半から準備をして、六時五十分には家を出ようと思っていた。
朝ご飯を食べる時間は、睡眠に回すつもりだった。
もうこうなると、朝ご飯を抜く抜かないの問題じゃない。
「電車、一本ぐらいなら遅れても大丈夫だと思うけど……、でも、でも」
結ぶのが面倒だという理由で、髪の毛は短くしている。
元々かなり癖のある髪なので、襟元で切りそろえると黒い髪がふわふわと跳ねる。
とかしている時間もなかったから、私の頭は今トイプードルみたいになっている気がする。
無事に電車に乗ることができたら、なんとかすれば良い。
駅まで、プリーツスカートを足に纏わり付かせながら、私は走った。
勉強は苦手だけれど運動は好きだったから、走るのも結構得意だったりする。
中学時代は陸上部に入っていた。
けれど、どうにもあの、体育教師の熱血指導みたいなものとソリが合わなくて、すぐにやめた。
それでも一瞬入っていた陸上部の経験が、今ここで生かされている。
何事も経験である。
駅に駆け込んで、改札を抜けて階段を駆け上がる。
時刻は七時十四分。
駅のホームにはすでに電車が到着していて、同じ制服を着た背の高い男子生徒が一人だけ、電車の扉の前に立っていた。
私に向かって、おいで、というように、手招きしている。
なんだかよく分からないまま駆け寄ると、手招きしていたのは凪先輩だった。
中学時代よりも大人びているけれど――ハスミちゃんだ。
立ち止まった私が何か言う前に、凪先輩は私の手を掴むと、電車に乗った。
乗車と同時ぐらいに、出発を告げるメロディが駅構内に流れる。
注意を促す放送とともに、電車の扉がしまっていく。
「七瀬。良かった、間に合ったな」
「……ん」
ずっと走ってきたから、声が出せない。
小さく相槌をうちながら、私は電車の扉を背にしてはーはーと息を整えていた。
朝の電車はかなり混んでいる。
ぎりぎりに乗った私たちには座る場所なんてなくて、それどころか満員ぎちぎちの中に無理矢理身を投じたぐらいの勢いだったので、身動きができないぐらいに狭い。
伏せていた目を上げると、私の目の前に凪先輩が立っている。
私よりも頭一つ分ぐらい大きな凪先輩は、私の寄りかかっている電車の扉に片手をつくようにして、私と向かい合っていた。
(……い、一年ぶりに会ったのに、近すぎない……?)
電車が満員で狭いから仕方ないのだけれど、体が密着して、呼吸が触れあうぐらいに近い。
私は絶望的な気持ちになった。
折角ずっと好きだった人に再会できたのに。
髪の毛はぐちゃぐちゃで、制服もぐちゃぐちゃなんて、最悪すぎる。
寝坊した私が悪いのだけれど。
どこを見て良いのか分からないし、できることなら見ないで欲しい。
若干涙目になりながら俯く私の耳元で、凪先輩が囁く。
「毎朝、こう。二駅でつくから、我慢できるな?」
「……っ、……はい」
私が知っている声よりも、少し低い声は、降り積もったばかりの誰も居ない雪原を連想させた。
白い肌に、光さえ届かないような切れ長の深い黒い瞳に、さらさらと癖のない、前髪だけ少し長い黒髪。
すらりとした背は高くて、体つきは細いけれど、首筋や手首、服に隠されていない体に浮き出る骨は、太くてしっかりとしている。
頭が良くて、スタイルも良くて、顔立ちも良い。
少なくとも、私には、凄く格好良く見える。
私の友達は「ちょっと怖い感じがする」と言っていたけれど、凪先輩は優しい人だと思う。
怒っているところは見たことがない。
口数があまり多くないから、そんな風に思うのかもしれない。
満員電車の中でべらべら話す訳にもいかずに、私はひたすら口を閉じて電車に揺られていた。
走ったせいで、ブラウスの下が汗ばんでいる。
汗臭くないだろうかと、そればかり考えていた。
次の駅に電車が到着し、扉が開く。
扉を背にしていた私を庇うように、凪先輩は私の腕をひいて、扉の端へと移動した。
私たちとは制服の違う学生達や、会社員の方々が降りていく。乗る人は少ないので、先程よりも幾分か、電車内にゆとりができた。
もう密着する必要はなくなったので、私はほっとしながら乱れた髪を手櫛でささっとなおして、スカートやブレザーを軽く整える。
先程よりは少しは見られる姿になったと信じたい。
「寝坊した?」
電車の扉の前にある手すりに掴まった私を見下ろしながら、凪先輩が小さな声で尋ねる。
「頑張ったんですけど、……二度寝しました」
「家から走ってきたのか」
「凪先輩のお陰で、無事に電車に乗ることができました。先輩がいなかったら、反対方向の電車に乗っていたかもしれません」
ろくに、行き先が書いてある電光掲示板も見なかったのだ。
確かホームに駆け込んだとき、反対側の線路にも電車がとまっていた。
私一人だったら、なんとなくこっちだと思う、程度の理由で電車を選んで飛び乗っていただろう。
「そんな気がしたから、待っていた」
凪先輩は切れ長の瞳を細めて、笑った。
こうして会って話すのは本当に久しぶりなのに、つい昨日も会っていたような気安さを感じる。
「七瀬が俺のことを、凪先輩なんて呼ぶ日が来るなんて、考えたこともなかったな」
「変ですか?」
「いや、……小さかったお前も、いつの間にか大人になるんだなと思って」
「一つしか、年齢変わらないですけど」
もの凄く大人、みたいな口ぶりで凪先輩が言う。
拗ねる私を見つめながら、凪先輩は何故だか少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
次の駅に到着すると、私たちは一緒に降りた。
同じ制服の生徒達が、同じ方向へと歩いて行く。
私たちはホームにある太い柱の隅っこで一度立ち止まった。
「あの、先輩。ありがとうございました。明日からは、間に合うように起きますから」
「そうだな。制服、リボンが……」
「つけている暇がなくて」
私は鞄と一緒に握りしめていた制服のリボンを、首元につけようとした。
元々不器用だし、凪先輩を待たせてしまうのが申し訳なくて焦ってしまうしで、リボンをつけるのは鏡がないとすこし難しい。
「七瀬、貸して」
先輩は私からリボンを取り上げると、長い指先で器用に首元につけてくれた。
しなやかで硬い指が首筋に触れると、妙な気持ちになる。
心臓が勝手に早くなっていく。
心臓の音が聞こえてしまわないか不安だった。
好きだと伝える勇気は、まだない。
凪先輩が、こうして私を未だに構ってくれるのは、私が近所に住んでいる幼馴染みだからだ。
その関係が崩れてしまうのは、はっきりと恋を自覚してしまったせいで、余計にそれが怖い。
「ほら、できた」
「ありがとうございます!」
「そんなに勢いよくお礼を言わなくても良いよ。それよりも、合格おめでとう、七瀬。まさかと、思った」
「それって、私の頭が良くないって意味ですか?」
「まぁ、……そうだな」
「自覚はあります。皆に奇跡の合格って言われました」
中学時代の先生が、卒業式の日に泣きながら私のまわりを取り囲んだ話をすると、凪先輩は楽しそうに声を出して笑った。
一年間、疎遠になってしまったけれど。
全部が元に戻ったみたいだ。
そんな風に、楽観的に私は考えていた。
入学一日目にして遅刻しそうになった私を心配してくれたのか、凪先輩はそれから私を時々迎えに来てくれるようになった。
といっても、それは私が寝坊してしまった時だけで、それ以外の日は大凡私は起きることができて、道の途中で凪先輩に会うことができた。
顔を見るたびに、声を聞くたびに、話をするたびに、思う。
私は、凪先輩が好き。
いつから好きなのかはよく分からない。
気づいたときには一緒に遊んでいたし、良く面倒も見て貰っていた。
単純な私と違って、凪先輩はいつも何かを考えているような人だ。
良く気がつくし、優しくて、繊細なのだと思う。
私が男に産まれて、蓮水君が女だったら良かったのにねと、お母さんには良くからかうように言われていた。
夕霧家――つまり、私の家なのだけれど、夕霧家にはある事情があって、お父さんはいない。
お母さんと私、女だけの二人暮らしで、凪先輩が唯一の近くにいる男の人だった。
単純な私はすぐにハスミちゃんに懐き、気づけば私の目の前に、ツリーの下に届いたクリスマスの朝のプレゼントのように、『恋』が綺麗な箱に入って置いてあった。
学校が始まって数週間。
元々の学力とは全く違うレベルの内容の勉強に四苦八苦しながら、それでも私は特に問題なく高校生活を送っていた。
通学の朝だけだけれど、それでも毎日凪先輩と会うことができる。
そう思うと、多すぎる宿題も、早起きの朝も、何も苦にならなかった。
どうやら今日は部活見学があるそうだ。
放課後の時間を使い、入りたい部活を決めるらしい。
夏の気配の近づくブレザーが少し蒸し暑く感じる朝の道を、凪先輩と一緒に歩きながら、私は口を開いた。
「私も凪先輩と一緒に、美術部に入っても良いですか?」
「七瀬は、運動が好きだっただろう?」
「運動部は、中学の時の陸上部で懲りました。あんまり向いてないみたいです」
「そう。別に駄目とは言わないけど。絵を描くぐらいしかやることがないが、良いのか」
「美術部なんだから、それはそうでしょ。私だってそれぐらいは知ってますよ」
「話をする時間も、菓子を食べる時間もない」
「だからぁ、部活ですよね。先輩、私をなんだと思ってるんですか」
「中学時代は、放課後友人達と菓子を持ち込んで食べては、良く先生方に怒られていたな。蓮水君からも注意してくれと、何度か言われた」
「忘れてくださいって。私は生まれ変わったんですよ」
「一年経つと、変わる、か」
「そうそう。去年の私とはひと味違います。目標は、中間試験をギリギリクリアすることです」
「大丈夫そうなのか」
「任せてくださいよ」
大丈夫かどうかは私には分からないけれど、なんとかなるだろう。
ギリギリ駄目でも追試があるし、大丈夫。
追試なんてやっていたら部活で凪先輩と過ごす時間が減ってしまうから、頑張るつもりだけど。
放課後になって、私は真っ直ぐに美術部に向かった。
一階の校舎の一番奥にある美術部は、その空間だけ賑やかな学び舎から忘れられてしまっているように、ひっそりと静まりかえっていた。
春の日差しがあたたかく差し込んでいる筈なのに、何故だか少し薄暗く感じた。
静かすぎるせいなのかもしれない。
美術部の前には私しかいなくて、運動部みたいに先輩達が並んで「是非入部を!」なんて大声で勧誘さえしていない。
閉じられた扉の前で、本当にこの場所で良いのかと考えていると、私の後ろからにょきっと白い手がはえた。
「美術部、ここよ。入部希望の子?」
振り向くとそこには、真っ直ぐな長い黒い髪をした、綺麗な女の人が立っていた。
「入って」
その女性は、私の代わりに扉をあけてくれた。
美術部にはイーゼルが並び、その前に数人の生徒が座っている。
私は案内をしてくれた女の人にお礼を言おうとして振り向いた。
振り向くとそこには、誰も居なかった。
さっきまで綺麗な女の人が居たはずの廊下を、私は訝しげに眉をひそめながらじっと見つめた。
確かに、いたと思う。
はっきり声を聞いたし、扉だって、開けてくれたし。
――幽霊?
そんな、まさかね。
「どうした、七瀬。入らないのか?」
「あ、ええと、うん……」
美術部の部室の中、イーゼルの前に座っている凪先輩が、私に声をかけた。
心ここにあらずだった私は我に返って、美術部の中に入る。
デッサン用の石像がいくつか並んでいて、油絵の具の香りがする。
他の教室と同じように窓が並んでいて、日差しが入り込んでいるのに、何故だかやっぱり薄暗い。
イーゼルには描き途中の絵がかけられている。
見渡した限り、部員は、凪先輩と、もう一人の男の人と、女の人の三人。
美術部って、あんまり人気ないのかしら。
中学時代は、凪先輩が所属しているからという理由で、弓道部が結構人気だったりしていたのだけれど。
「こんにちは、入部希望の子?」
私が部室の中に足を進めると、首元までのショートボブの黒髪の女の人が、軽く会釈をしてくれた。
声をかけてくれたのは凪先輩ではなくて、もう一人の男の人だ。
茶色い癖のある髪に、僅かばかり垂れ目で優しい顔立ちをしたその先輩は、凪先輩よりも小柄だけれど、私よりはかなり大きい。
「はい、入部希望の夕霧七瀬、一年生です!」
「元気な子だね。凪の知り合い?」
「はい、幼馴染みです」
凪先輩はイーゼルの前から一歩も動かずに、返事をした。
会話をしながらも、絵を描き続けているようだ。
もう一人の女性も、黙々と手を動かしている。
なるほど、凪先輩の言ったとおり、美術部は絵を描くところらしい。私語厳禁というやつ。
「幼馴染みなら、もっときちんと対応してあげたら? 凪を頼ってここに来たんだろうに」
「だ、大丈夫です! 迷惑をかける気はなくて、私も一生懸命絵を描くためにここにきたので!」
「絵を描くのにそんなに気合いを入れなくて良いよ。凪は無愛想で怖いのに、七瀬さんは元気だね」
茶髪の先輩は、顔立ちと同じような優しい微笑みを浮かべて言った。
「僕は八音煉華。美術部の部長で、三年生。凪のことは、知っているね。そこにいるのは、水無月帆影。凪と同じ二年生」
「よろしくお願いします!」
何事も最初が肝心なので、私は大きな声で挨拶をした。
水無月先輩は軽く顔をあげると、うん、と頷いてくれた。
凪先輩も私に視線を送って、「よろしく」と言った。
「良かった、美術部は今、三人しかいなくて。新入部員も入らないかなって思っていたんだよ」
「やっぱり運動部の方が人気なんですか?」
「そういうわけでもないけれどね。何せこの学校は勉強熱心な子が多いから、塾とか、放課後の自習とかで、部活自体入らない子も結構いるんだよ。そんな中活動している僕たちの方が奇特なわけ。部活は強制じゃないし、ほぼ八割の子たちが、帰宅部になるんじゃないかな」
「そうなんですね、知りませんでした」
「それでも美術部に入ってくれるの、七瀬さん」
「勿論です、なんせ絵が描きたいので!」
私が気合いを入れると、八音先輩はお散歩中のお馬鹿さんな犬を見るような視線を私に向けた。
「よし、じゃあよろしくね、七瀬さん。部活があるのは水曜日。だけど、他の日も自由にここに来て絵を描いて良いよ。今は皆油絵を描いているけれど、七瀬さんはどうする?」
「私も油絵が良いです。でも、描いたことないです」
「正直で偉いね。それじゃあ僕が教えてあげるよ。それとも凪に教わりたい?」
「い、いえ、よろしくお願いします、部長!」
私はそれから、八音部長に簡単な油絵についての説明を聞いた。
話しているのが私たちだけなので、私たちの声は折角の静寂を邪魔するみたいに場違いに部室に響いていた。
本当はもっと、ずっと静かな場所なのだろう。
私は説明を聞きながら、廊下で見た女の人について考えていた。
尋ねたかったけれど、初対面でいきなり幽霊の話をするのは迷惑だろうと考えて、聞かなかった。
凪先輩にも、聞けないわよね。
幽霊を見たって騒ぐとか、子供っぽいって思われてしまいそうだし。
部活見学の翌日に、希望部活に、美術部と書いたプリントを先生に提出して、私は正式に美術部になった。
これでいつもよりもあと少しだけ多く、凪先輩と一緒にいることができる。
八音部長や、水無月先輩や凪先輩も、絵を描くことが好きなのだろう。
そんな中私だけ不純な動機で入部してしまうのは、申し訳ない気がした。
胸に差し込む罪悪感を多少なりとも感じていたけれど、それ以上に浮き足立った気持ちで、私は部活に向かった。
水曜日以外も絵を描きに来ても良いと言っていたし、もしかしたら凪先輩が部室にいるかもしれないと思っていた。
けれど、私の予想はむなしく空振りに終わった。
ひっそりと静まりかえった美術部には誰も居なくて、イーゼルには布が被さっていた。
あまりにも音が無いせいで、自分の足音がやけに大きい。
とくにこそこそする理由はないのだけれど、私はなるだけ足音を立てないように部室に入り、ぐるりと中を見渡した。
それから、ふと思った。
――凪先輩は、どんな絵を描いているのだろう。
覗き見をするのは良くない。
見たいのなら、凪先輩がいるときに、見せて貰えば良いのだから。
凪先輩が描いている絵がかけてあるイーゼルの前で立ち止まって、私は小さく溜息をつく。
凪先輩の絵を勝手に見ることは、凪先輩の体の中にある隠された柔らかい部分に、無遠慮に自分勝手に触れるような行為だ。
私はあまり頭が良くないけれど、良いか悪いかの判断ぐらいはできる。
同じ高校に入って美術部まで追いかけてきた私のこと、もしかしたら面倒くさいと思っているかもしれないし。
それでも凪先輩は優しいから、私の面倒を見てくれているのかもしれないし。
だとしたら、嫌われるような行動はしてはいけない。
私は美術部の部室から出ようと、白い布のかかった円形に三つ並んだイーゼルの絵から視線を外した。
風もないのに布が揺れたのは、そのときだった。
窓は閉め切ってある筈なのに、突然部室にふいた風でカタカタと石膏像が揺れる。
イーゼルの布がふわりとめくれ上がって、ずるりと床に落ちた。
「あ……」
そこに描かれていたのは、窓際に佇む女性の姿だった。
長い黒髪、蠱惑的な微笑み、赤い唇。
私と同じ制服を着ているのだから、この学校の生徒なのだろう。
「この人……」
熱心に描かれているその女生徒には、幾重にも絵の具が重ねて塗られている。
私にはもう完成しているように見えるのに、丁寧に塗られた絵の具が『まだ足りない』と言っているように見えた。
「戻さなきゃ……」
ぞわりとしたものが背筋を這い上がる。
私は震える手で白い布を拾い上げて、もう一度絵にかぶせた。
昨日の白い嫋やかな手を思い出す。
描かれている女性を、私は知っている。
――昨日会った、廊下に消えてしまったひとだ。
幽霊なんかじゃなかった。
あの人は実際に存在していて、そして、凪先輩の特別な人なんだ。
確信が、胸にすとんと落ちる。
浮ついていた気持ちが、部屋の明かりを消したように一気に消え失せて、後には間違えてブラックコーヒーを飲んでしまったときのような苦さだけが残った。
私の恋は、はじまるまえから終わっていたのだ。
去年の六月から疎遠になってしまった凪先輩と私の距離は、あまりにも遠い。
瓶の中の帆船は、嵐に揉まれて海に沈もうとしている。
パステルカラーだった世界は灰色に染まり、空からは黒い粒子のような雨が降り積もって、部室の床を黒く汚した。
「……帰ろ」
ここに来るときとは真逆の足取りで、私は帰路についた。
絵の女生徒が誰なのか、凪先輩とどういう関係なのか――
今はまだ何も考えたくなかった。
ゴールデンウィークの後、中間試験の準備のために部活はしばらくお休みだった。
入部届を出してから、結局一度も私は部室に顔を出していない。
あの絵を見てしまってから、どうにも気持ちの整理がつかなかったからだ。
それでも毎朝凪先輩とは会っていた。
嬉しかった朝のお迎えも、時間通り玄関を出ると道向かいの数軒先の家から出てくる凪先輩と会ってしまうことも、今は私の心に影を落としていた。
勝手に好きになって、勝手に追いかけて、そして、事故とはいえ勝手に絵を見て傷ついたのだから、全て私の独りよがりだ。
私の心の中を、凪先輩に知られるわけにはいかない。
それでも胸の中に燻る思いは消えることなく、その静かな声も、時々見ることのできる笑顔も、さらさらの髪も、宇宙の一番遠い場所のような光を失ったように黒い瞳も、全て好きだと思ってしまう。
だからせめて、いつも通りの私でいたい。
迷惑はかけたくないし、嫌われたくもなかった。
部活のある日は、中間試験が心配だからと適当な言い訳をして、凪先輩に参加しないことを伝えた。
凪先輩があの絵の続きを描く姿を見る勇気は、まだない。
八音部長は「入学してはじめての試験だから、緊張するよね」と言ってくれているらしい。
折角優しくして貰っていたのに、その優しさを無碍にしてしまうのが、申し訳なかった。
結局勉強にも身が入らずに、中間試験の結果は散々だった。
吃驚することに、中間試験で赤点をとってしまったのは私だけらしい。
担任の女性教師に叱咤激励されながら、二人きりの放課後の補習を受けて帰る頃になると、外はすっかり日が暮れてしまっていた。
私の心と同じぐらいにずっしりと重たい鞄を肩からさげて、とぼとぼと廊下を歩く。
「こんな筈じゃなかったのになぁ」
情けなく呟いた言葉は誰にも届かない。
補習が終われば、再試験がある。
もうすぐ夏が来る。
日が大分長くなってきたけれど、午後六時前ともなると真っ赤な夕焼けの空に覆い被さるようにして、夕闇が迫ってきている。
一番星が空に輝いているけれど、私の世界は相変わらず灰色だった。
「七瀬、補習は終わったのか」
夕焼けの中を一人きりで歩いて校門までくると、声をかけられた。
校門の壁に寄りかかるようにして、凪先輩が立っている。
心は自分で操ることがとても難しく、その顔を見た途端に、好きだという気持ちが溢れる。
それと同時に、心臓を刃物で刺されたような痛みを感じた。
「凪先輩、どうしたんですか?」
「一年生が一人だけ補習を受けることになったらしいと、話題になっていた。お前のことだろうなと思って」
「ど、どうして私だって思うんですか……」
「中学時代のお前の成績を知っているからな。念のためにここで待っていたら、やっぱり七瀬だった。駄目だったのか、試験」
「ま、まぁ……、結構、なんというか、……散々でした」
「試験前に相談してくれたら、勉強を教えたのに」
「凪先輩も忙しいでしょう? 迷惑かけたくなくて」
「七瀬は、いつの間にか、俺にそんなに気をつかうようになったんだな」
凪先輩は呆れたように笑うと、私の頭をぐりぐり撫でた。
触れられた肌が燃えるように熱い。
頬が染まっているのは、夕日に照らされているせいだと思ってくれると良いけれど。
「先生も、教育熱心で困る。こんなに遅い時間に七瀬を一人で帰らせるなんて」
「まだそこまで遅い時間でもないですよ。心配しなくても大丈夫です」
「朝の電車と同じように、会社員の帰宅時刻にかかると電車が混む。制服を着ている女生徒は、満員電車では狙われやすい。被害にあったという話も、そう少なくない」
「被害? 何の?」
「痴漢の」
「痴漢……! 大丈夫ですよ、狙われるほど可愛くないですし、私は結構強いので、触れたら手を抓ってやります」
「……七瀬、帰ろう。七瀬のお母さんからも、お前をよろしくと任されている」
「お母さん、余計なことを……、ごめんなさい、凪先輩。お母さんは心配性なんです」
「……違うだろう、七瀬。……お前は」
「大丈夫ですって。でも、待っていてくれてありがとうございます」
凪先輩が言い淀んだ言葉の続きを、私は知っている。
私は大丈夫だと、明るく笑った。
空からは相変わらず、黒い粒子が降り続けている。
再試験をなんとかクリアした私を、クラスメイト達は拍手をして喜んでくれた。
皆頭が良いけれど、明らかに皆よりもお馬鹿さんな私に優しくしてくれる。
「七瀬ちゃんやったね」「夕霧、頑張ったな」と肩を叩かれ、頭を撫でられて、私は愛玩犬の気持ちを味わっていた。
先生も豊満な体に私を抱きしめて「駄目かと思った」と言って涙目になっていた。
その後釘を刺すように「すぐに期末試験があるから、気を抜いては駄目よ」と言われた。
試験が終わってしまうと、部活に出ない言い訳はもう使えない。
ようやく踏ん切りがついた私は、美術部へと向かうことにした。
凪先輩は補習の間は私と一緒に帰ってくれていたし、いつも通り、優しかった。
私だけ逃げ回っているのは、いけないと思う。
恋心が消えてしまえば良いのにと願わずにいられなかったが、過ごす時間が長いほどに、それは肥大していくばかりだった。
気持ちに蓋をして、凪先輩が卒業してしまうまでの二年間を過ごそう。
近くに居られるだけでも幸せだ。幼馴染みの特権を最大限に行使して、傍にいよう。それだけで良い。
そう自分に言い聞かせた。
「七瀬さん久しぶり。もう来てくれないのかなと思っていたよ」
「この間……、話もしなかったから、怖い先輩って、思われたのかと思って。……心配だった」
部室に入ると、八音部長がにこやかに両手を広げて歓迎してくれた。
水無月先輩も絵筆を持つ手を止めて、私の方に視線を向けて、話しかけてくれた。
凪先輩は、熱心に絵の続きを描いている。
私は凪先輩の方を極力見ないようにしながら、へらりと笑った。
「心配してくれてありがとうございます。水無月先輩のこと、怖いなんて思っていませんよ。試験結果、散々だったんですよね。部活に出ずに頑張ったんですけど。私、あんまり勉強得意じゃなくて。……でも追試はなんとかパスしました、これで晴れて無罪放免です」
「良かったね、七瀬さん。勉強、困っていたら、僕のことも水無月さんのことも頼って良いからね」
「ありがとうございます!」
「その気合いの入った返事、久々に聞けて嬉しい。さぁ、今日から本格的に絵を描いていこうか」
「はい!」
八音部長は、私用のイーゼルを準備してくれた。
円形に並んだイーゼルの前の椅子に座ると、白いキャンバス以外は何も見えなくなる。
凪先輩の姿も、水無月先輩の姿も見えない。
ここには真っ白な景色と、私しか居ない。
確かに――これは、他のことには意識が向かなくなるのかもしれない。
ごちゃごちゃ色々考えてしまっている今の私には、絵を描くという行為はかなり適している気がした。
「最初は、林檎とか、ブドウとかを模写するところからはじめたら良いかな。七瀬さんが他に描きたいものがあれば別だけれど」
「特にないので、部長に従います」
「じゃあ、僕に従って。七瀬さんの横に林檎とブドウの模型を置いておくから、鉛筆で模写するところからはじめてみようか。分からないことがあったら、部長助けて! って呼ぶんだよ」
「絵が下手でも良いんですか?」
「絵に下手も上手いもないよ。上手く描けば良いって物でもないし、正解なんてない。思うように描いてみて」
八音部長は、私の横に背の高い小さな丸テーブルを持ってきてくれた。
濃い鉛筆を渡された私は、中学校の美術の時間ぐらいしか描いたことのない絵を描き始める。
林檎と葡萄を描き写していると楽しくなってしまって、いつの間にか時間が経つのも忘れて没頭していた。
「七瀬さん、そろそろ終わりにしようか」
「は、はい……」
時刻は夕方の五時。
声をかけられてはっとして顔をあげると、八音部長が私のキャンパスを覗きこんでいた。
「上手にかけているね、七瀬さん。楽しかった?」
「楽しかったです。……こんなに集中したのは、久しぶりでした」
「そう、良かった。水無月さんは先に帰ったよ。凪も、今日は家の用事があるとか。七瀬さんをあまり遅くまで残さないようにって、釘を刺された。凪に、大切に思われているんだね」
真っ白だったキャンパスには、不格好な林檎と葡萄の絵が鉛筆で描かれている。
キャンパスから視線を外して部室を見渡すと、確かに部長と私しか残っていなかった。
大切に思われていると言われて、ちくちくと、小さな針を心臓に刺されているような痛みを感じた。
「家が、近くで。凪先輩は、小さな頃から、よく私と遊んでくれていたので」
「七瀬さんも、凪と同じ方向に帰るんだね。僕の家はその一駅前だから、一緒に帰ろうか」
「ありがとうございます。もしかして、凪先輩に何か言われましたか?」
「うん。ひとりで帰らせるなって。僕も最初からそのつもりだったし、別に良いんだけど」
八音部長はそう言いながら、私のキャンパスに布をかぶせた。
他のキャンパスは、まだ絵の具が乾いていないからか、いつか見たときのように布はかけられていない、そのままの状態だ。
「凪の絵、気になる? 見てみる?」
「い、いえ、勝手に見るのは、良くないと思うので……」
「別に凪も水無月さんも僕も、描いている絵を隠したりしないよ。参考までに、見て回ろうか」
私は、凪先輩が何を描いているのか知っている。
罪悪感に息を詰まらせながら、八音先輩と一緒に絵を見て回った。
水無月先輩が描いていたのは、海の絵だった。
明るく晴れやかな海ではなくて、深く暗い海底に、一筋の光が差し込んでいる。
八音部長は、風景画を描いている。
春に描き始めたというそれは、桜並木の絵だった。
綺麗なのに、どこか寂しさと悲しさを感じるのは、その絵の中に誰もいないからなのかもしれない。
そうして、凪先輩の絵の前で、私たちは立ち止まった。
そこには以前見た物と同じ、窓際に佇む女性の姿が描かれている。
ただ、以前はその女性は、蠱惑的な笑みを浮かべていた筈なのに、今は泣き出しそうな悲しげな表情を浮かべていた。
「……あの、八音部長」
「うん、何?」
「このひとは、美術部の生徒じゃないんですか?」
ずっと思い悩むより、尋ねてしまった方が良い。
この人は――誰なんだろう。
「あぁ、……この女生徒は、皐栞先輩。僕の一つ上で、……本来ならもう、卒業しているはずだった人だよ」
八音部長は寂しげに笑った。
私はまじまじと、その顔を見上げる。
卒業している筈だった――
だって、私は廊下で皐先輩という名前の、この女性にそっくりな女の人と会っている。
「どういうことですか?」
「本当は、先に七瀬さんに話しておいた方が良かったのかもしれないね。……皐先輩は、美術部の部長だった。それで、去年の冬に死んだんだ」
薄ら寒いものが、背中を這い上がってくる。
皐先輩が、亡くなっている。
でも、まさか、そんな。
「ご病気ですか……?」
「うん。……それが、……僕も事情は知らないんだけれど、どうも自殺だったらしくて」
「……自殺」
「そう。真冬の海に、飛び込んだんだって。いつ飛び込んだのかは分からないけれど、浜に打ち上げられたときにはもう、手遅れだったそうだよ」
「そうなんですか……」
相槌を打つ以外に、何も言うことができない。
薄ら寒さははっきりとした悪寒に変わっている。
急に背中から冷水を浴びせられたように、体の芯が、冷たく凍えた。
「それまでは、美術部員も結構いたんだけどね。皐部長がそんなことになってしまって、それから部員がどんどん減っていって、今は三人だけ。皐部長の噂を知っている親御さんも多いから、仕方ないとは思うけれどね」
「皐先輩は、……何か、悩んでいたんでしょうか」
「さぁ、どうだろう。よく分からない人だったからね。そこまで親しかった訳でもないし。……凪がこうして部長の絵を描いているのは、弔いのつもりなのかなって思っていたけれど、凪は特別親しかったのかもしれないね」
「付き合っていた、とか」
「そんな様子はなかったけれど。気になる?」
「いえ……、そうだとしたら、辛いだろうなと思って」
「七瀬さんは良い子だね。……凪からは、何か聞いている?」
「何にも」
「凪は、冷たいよね。……それとも、七瀬さんには言えなかったのかな。君のことも、大切にしているようだから」
「妹みたいには、思ってくれているんじゃないかなぁとは思いますけど」
長い間話をしていたからだろうか、時刻はとっくに夕方五時を回ってしまっている。
夕闇が、すぐそこまで迫ってきている。
夕闇が迫る窓際に、皐先輩が佇んでいるような幻を見た気がした。
「ねぇ、七瀬さん。この国の年間の自殺者数は、およそ二万人。皐先輩の事情は知らないけれど、先輩は亡くなった二万人の内の一人というだけだよ。死は、そこで終わり。その先には何も続かない。だから、そう気に病むことは無いと思う」
「そんなに割り切れるものでしょうか……」
「冷たいこと言うようだけれど、死んだ人ばかりのことを考えても仕方ないと、僕は思う。死人は生き返らない。もし、皐部長の行為が凪の心を縛っているのだとしたら、僕は皐部長を哀れと思うよりは、腹立たしいと思ってしまうよ」
「……でも、こうしてずっと絵に描くぐらいに、凪先輩にとって、皐先輩は特別、だったんですよね、きっと」
「七瀬さん、あまり気にしない方が良いよ。君まで、……皐先輩に、引きずられて欲しくない」
帰ろうと、八音部長は言った。
皐先輩が描かれた絵から視線をそらせない私の手を引いて、強引に部室から連れ出してくれた。
茹だるような暑さの、良く晴れた夏の日。
私と凪先輩は、冷房で極限まで冷やされた電車に揺られていた。
皐先輩のことを八音部長に聞いた日から、八音部長は私をいつも以上に気にかけてくれているようだった。
凪先輩は相変わらず、皐先輩の絵を描き続けていた。
その絵をわざわざ覗くようなことを私はしなかった。見てしまえば――八音部長の言うように、私も絵の中の皐先輩に引きずり込まれてしまうような気がしていたからだ。
あの日見た皐先輩の姿は、私の中では幽霊ということで片付けられていた。
思いの強い場所に、亡くなった人はしばらくとどまるのだという。
心霊好きなクラスメイトがそんなことを教えてくれたので、そういうこともあるのかもなぁ、と納得した。
あれ以来、皐先輩の姿は見ていない。
どうして死んでしまったのかは分からないけれど――綺麗で優しそうな人だったなと思う。
「眠くないか、七瀬」
電車に揺られてぼんやりしていた私に、凪先輩が尋ねた。
ビルや家々の並んだ街から、山や畑が並んだ風景に景色が変わるにつれて、電車に乗る人はどんどん減っていって、今はもうこの車両には私と凪先輩、それからおばあちゃんが一人しか乗っていない。
「ちょっと眠くなってきましたねぇ……」
ふぁ、と欠伸を一つする。
通学の時にはまず座席になんて座れないから、こうしてふかふかの座席に座って電車に揺られていると、眠気がふわりと全身を包みはじめる。
「どこに行くんですか、凪先輩」
眠ってしまうのを防ぐために、私は口を開いた。
凪先輩から、『出かけよう』というメールが来たのは、つい昨日。
夏休み真っ盛りな私は、期末試験からも追試からも解放されて、久々の自由を満喫していた。
週四日のファストフード店でのアルバイト以外は、特に何にもせずに家でぼんやりする日々だった。
中学の頃の友人達とは疎遠になり、高校でできた新しい友人達は塾や勉強で忙しい。
七瀬ちゃんは夏休みはどうしているのかと聞かれたので、「アルバイトと、宿題を頑張るよ!」と答えたら、皆に七瀬はそのままでいて欲しいと、言われた。
成績争いをしている殺伐としたクラスに私みたいなのが一人いると、雰囲気が和らぐのだと、先生も言ってくれた。
皆にとって私は、物珍しい珍獣のような物なのだろう。
そんなわけで凪先輩からのお誘いに、私は一も二もなく飛びついた。
思うところは色々あったけれど――亡くなってしまった皐先輩を、凪先輩が想い続けているというのなら、私には勝てる要素なんてない。
私は、舞台の幕があがるまえから負けていて、舞台に立つことさえできなかった。
それならせめて、凪先輩にとっての気安い幼馴染みであり続けたいと思う。
――そうじゃなければ、凪先輩も、いつか寒い海の底へ落ちてしまうような、漠然とした不安があった。
「あと少しでつく。海に、行こうかと思って」
凪先輩は、なんでもないことのように言った。
もしかして、凪先輩は八音部長から何か言われたのだろうか。
海に、行く。
心の中に芽生えた不安の種を押し隠しながら、私は微笑んだ。
「海ですか、良いですね。もう海開きしていますから、海の家、ありますよね。かき氷食べたいなぁ」
「そうだな。……もうずっと、夏の海には行っていない。七瀬もだろう?」
「そうそう。私、水着とか着たくないんですよね。人様に見せられるような体じゃないですし」
「……七瀬の傷は、もう、癒えたのか?」
凪先輩は何か私に尋ねたようだったけれど、長いトンネルに入ってしまって、凪先輩の言葉は私には届かなかった。
暗いトンネルにはいると、正面の窓に並んで座る私たちの姿が映る。
首の開いた半袖のシャツを着た凪先輩の隣に、癖のある髪を軽く縛った、Tシャツとハーフパンツの私が映っている。
落ち着きのある大人っぽい凪先輩の隣に座る私は、まるで本物の兄妹に見えた。
やっぱり、私はどうあがいても凪先輩の特別にはなれない。
けれど――妹みたいな存在としてこうしてお出かけに誘ってくれるのなら、それで良いかとも思う。
電車を降りて駅の改札を抜ける。
そこから真っ直ぐ、大きな川の横にあるなだらかな坂道を降りていくと、海が見えた。
海岸は砂浜ではなく、丸い岩が並んでいる。
そのせいだろうか、こんなに暑くて晴れ渡っている絶好の海日和なのに、パラソルも立っていないし、海水浴をしている家族連れの姿さえない。
サーフィンに興じる人の姿が、ぽつぽつとある程度。
波は結構高いみたいだ。
夏の日差しを受けた海面が、キラキラと輝いている。
寄せては返す波の飛沫が、白く弾けては消えていく。
「海ですね、凪先輩。泳ぎに来たかったんですか?」
「海が見たかった」
「そうですか……」
皐先輩は、冬の海に飛び込んだのだという。
私は極力何も気づいていないふりをしながら、笑顔を浮かべた。
「海の家はなさそうですけど、かき氷やさん、あるといいなぁ。夏の間のバイト代はまだ入らないですが、お母さんが少しだけお小遣いをくれたんですよ」
「かき氷ぐらい、奢ってやる。ここまで付き合わせてしまったからな」
「いいですよ、別に。予定がなければ家でのんびりしているだけですし」
「宿題は?」
「山のように積んであります。机の上に。それを時々眺めては、夏の終わりに思いを馳せる日々です」
凪先輩は、私の返答に苦笑した。
海沿いを歩くと、防波堤があった。
凪先輩は私に、防波堤の前の自動販売機で棒つきアイスを買ってくれた。
かき氷屋さんは見つからなかった。海沿いには、自動販売機以外のお店は見当たらない。
防波堤の上を歩く。
柵も何もない防波堤を歩いていると、落ちるのなんて、とても簡単なんだなと思う。
一歩足を踏み出せば、そこは海だ。
反対側にはテトラポットが並んでいるけれど、私たちが座った方向には、何もない。
眼下には、緑色の海が広がっている。
魚の姿が黒くちらほら見える。
冬の海は冷たくて、寒いんだろうなぁと思う。
皐先輩はどんな気持ちで、海に落ちたんだろう。
全部が、嫌になってしまったんだろうか。
その気持ちは、少しだけ理解できるような気がした。
防波堤から足を投げ出して座る私の横に、凪先輩も座った。
男らしい首筋には、僅かに汗が浮かんでいる。
いつも涼しげな凪先輩も汗をかくのかと思うと、なんだか見てはいけないものを見てしまっている気がして、私はそっと視線を逸らした。
口の中に、アイスを突っ込む。
チョコミントの味がする。
私はこの歯磨き粉みたいな味が、結構好き。
「七瀬、学校は、楽しいか?」
凪先輩は、確認するようにポツリと尋ねた。
「楽しいですよ。みんな良くしてくれます。頭の良い人たちって、もっと気難しくて怖いのかなぁって思っていたんですけど、みんな優しいです。お弁当のおかず、くれるし。宿題のノートも見せてくれるし。お菓子をくれたり、あと、困っていると助けてくれたり」
「良かった。七瀬が無理をしているんじゃないかと、心配していた」
「無理はしていませんよ」
「でも、他の高校の方が、七瀬には楽しかったんじゃないか?」
食べ終わってしまうのがもったいなくて、アイスを舐めて味わっていたら、日差しのせいであっという間に溶けていく。
私は慌てて、溶けて滴り落ちそうになっている棒アイスの下の部分を舌ですくうように舐めた。
「そんなことないです。勉強は難しいけど、楽しいですよ。あと、学費も安いし、お母さんも喜んでくれました」
「それなら、よかった。俺のせいで七瀬が無理をしているんじゃないかと、ずっと気になっていたんだ」
「凪先輩と一緒の高校に行きたかったのも、本音です。中学校三年になって、凪先輩がいなくなっちゃって、寂しかったし。私にとって凪先輩は……、お兄ちゃん、みたいな感じなので」
「俺も、七瀬のことは妹だと思っているよ」
凪先輩は、海の向こうの水平線に視線を送りながら、そう言った。
きっとこれで良いのだろう。
妹でいることができれば、凪先輩が防波堤から落ちても、手を掴んで引きずり上げることができるのだから。
想いは消えないけれど、蓋をして隠し続けることはできるはずだ。
凪先輩は、皐先輩について何も話さなかった。
美術部では相変わらず、皐先輩の絵を描き続けていた。
秋が来て、私の林檎の絵が出来上がり、水無月先輩の深海の絵も、八音先輩の桜の絵も完成したのに、凪先輩は皐先輩に向かって、ずっと絵具を重ね続けていた。
あっという間に秋が終わり、それは、冬休みを前日に控えた日のこと。
毎日一緒に登校していたのに、その日は凪先輩は来なかった。
一人で電車に乗ると、ぎゅうぎゅうに押し込められた満員電車の中で、痴漢にあった。
尻に触れる生温い手の感触に奥歯を噛みしめながら、二駅ほど我慢して、電車を降りる。
恐怖と嫌悪感でばくばくする心臓を押さえながら、嫌なことを思い出しそうになってしまって、私は大きく首を振った。
最低な気持ちで登校をして、教室に入る。
クラスメイトに話をすると、皆「自分も同じ目にあった」とか「許せない」とか、「七瀬ちゃん、可哀想」とか言って慰めてくれたから、多少気分が晴れた。
凪先輩は、どうしたんだろう。
風邪でも引いたのかもしれない。
気になってメールをしてみたけれど、返事はなかった。
冬休みの前日なのだから、当然もう部活はない。
八音先輩ももうすぐ大学受験なので、部活はもう終わりだ。
この間八音先輩の部活卒業記念をみんなでお祝いして、記念品をあげたばかりだ。
私は先輩が志望大学に受かるようにと、学業成就のお守りを渡した。
八音先輩は「七瀬さん、僕とつきあおっか」と言って手を握ってきたので、「間に合ってます」と言って断った。
水無月先輩が私に「八音先輩、結構本気だと思うよ」と耳打ちした。
多分、からかわれているだけだと思う。
八音先輩が部活に来なくなっても、いつもと変わらない日々が続いていく。
あと一年と少し。凪先輩の近くにいることができる。
何かが変わって、何かを失ってしまうぐらいなら、変わらないままでいたほうが良い。
その方が、ずっと楽だ。
情熱も、愛も、恋も、いらない。
それはきっといつか失われてしまうものだろうから。
瓶の中の私の帆船は、今は凪いでいる。
世界は灰色のままだったけれど、黒い粒子の雨はやんでいた。
苦しさも、胸の痛みも、どうしようもない思慕も、いつかは慣れるものだ。
噛み砕いて、慣れて、忘れたふりをして、嘘をつく。
嘘をつくのは、結構得意な方だと思う。
今日は午前中で学校は終わりだった。
朝の最悪な気分は、昼にはもう、すっきりとはいかないまでも、だいぶ楽にはなっていた。
凪先輩からのメールの返事はない。
既読にもなっていない。
まるでこの世界から、凪先輩がいなくなってしまったような、足元が崩れ落ちていくような不安に襲われる。
一人きりで帰る気にならず、私は美術部の部室に向かった。
なんとなく、凪先輩がそこにいるような気がしたからだ。
クラスメイトたちに別れの挨拶をする。「帰らないの?」という質問に「部室に忘れ物をした」と返事をして、私は人の波とは反対方向に進んだ。
美術部の前の廊下は相変わらず怖いぐらいに静まり返っている。
いつもの癖で足音を立てないように部室の前にたどり着くと、中から話し声が聞こえた気がした。
凪先輩の声と、不思議と耳に残る艶やかな女性の声だった。
恐る恐る、私は薄く開かれている扉から、中の様子を覗き込む。
立ち聞きも盗み見も褒められた行動じゃないけれど、どうしても、堂々と扉を開けて中に入る気にはならなかった。
窓辺に、長い黒髪の女性が佇んでいる。
いつもの定位置のイーゼルの前に座った凪先輩と、話をしているらしい。
「……っ」
私は息を飲んだ。
窓辺にいるのは、いつか廊下で見た、私を部室の中に案内してくれた、皐先輩だった。
「蓮水君、一緒に死のうか」
まるで、明日の遊びを提案するような気安い口調で、皐先輩は言った。
思わず声を上げそうになってしまって、私は口を両手で押さえる。
「何故?」
凪先輩の声に、動揺はない。
どうしてそんなに落ち着いているのだろう。
もしかしたら、度々凪先輩は、皐先輩に同じ話題を投げかけられているのかもしれない。
十二月の曇り空を背にした皐先輩の白い肌は、一層白く見える。
「生きてるの、疲れちゃって。蓮水君も、そうでしょう?」
「いつ死ぬんですか?」
「今日」
「今日ですか……」
「うん。今日。だから、蓮水君も一緒に死のう?」
「どうして俺なんですか」
「だって、蓮水君、死にたがっているように見えるもの。何かから、逃げているように見えるの」
「俺は……」
「逃げたいでしょう。私も、一緒。どうして生きなければいけないの? 別に、産まれてきたくなんてなかったのに、勝手に産んで、勝手に期待して、勝手に失望して。私も高校を卒業したら、私の両親と同じ、身勝手な大人になってしまうかもしれない。だからもう、終わりにしたいの」
両親の話をするときだけ、皐先輩の口調は興奮気味なものへと変わった。
「皐先輩も、ご両親から虐待を受けているんですか」
「私、も? それじゃあ、蓮水君も?」
「いえ、……俺の家は、ごく普通です」
「私の家も、ごく普通よ。成績が悪い、生活態度が悪い、絵を描くために大学に入りたいなんて、何様だって、怒られはしたけれど」
「両親の期待に添えないことが、苦しいのですか」
「うん。私、人と違うから。……ねぇ、蓮水君。叶わない恋って、辛いわよね」
「……そうかもしれませんね」
「でもね、私が死んでしまったら、その人の記憶には、一生私が残るの。それって、とても素晴らしいことだと思わない?」
うっとりするような、夢みがちな口ぶりで、皐先輩は言う。
それって、随分身勝手だと思う。
八音先輩は、皐先輩に怒っていた。
あの時は少し冷たいと思ったけれど、八音先輩の言葉が、今ならよくわかる。
「一人で死ねないのですか?」
「だって、寂しいじゃない。一人きりは、不安よ。こんなこと蓮水君にしか、頼めないもの」
甘えるように、皐先輩は言う。
一緒に死んで、なんて、誰にも頼めないのが普通だと思う。
凪先輩がいくら優しいからといって、頼むのは間違っている。
「今日の夜。海に行って、防波堤から飛び込むの。雪が降りそうなぐらいに寒いから、冷たい海に落ちたら、すぐに死ねると思うのよ」
「俺が嫌だと言ったらどうしますか」
「そうしたら、仕方ないわね。一人で死ぬことにする。それも良いわね。蓮水君の記憶にも、私がずっと残るでしょう?」
「……わかりました。付き合いますよ」
これじゃあ、まるで脅しだ。
私は扉に手をかけて、中に入ろうとした。
けれど私が中に入るよりも先に、凪先輩は椅子から立ち上がると、教室の中から出てきた。
「……あぁ、七瀬。いたのか」
凪先輩はどこか疲れた様子で私を一瞥すると、そのまま廊下の向こう側に歩いていく。
凪先輩を追いかけようと思ったけれど、中にはまだ皐先輩がいる。
皐先輩をどうにかしなければと思い、私は勢いよく扉を開けた。
静まり返った部室には誰もいない。
私はその場に、腰が抜けたようにへたり込んでしまった。
呼吸が促迫して、胸が苦しい。
体の芯は熱いのに、手足は冷たく凍えるようだった。
どこからともなく風が部室に吹き込む。
ガタガタとイーゼルが揺れて、次々と倒れていく。
凪先輩が描いていたはずのキャンパスには皐先輩の姿はなく、ただ、赤く塗り潰されていた。
「……いかなきゃ」
震える声で、呟く。
自分を叱咤する。
何がどうなっているのかわからないけれど、凪先輩を救えるのは、私しかいない。
今日の夜、海に落ちると皐先輩は言った。
今年の夏、凪先輩と一緒に行った海の防波堤なのだろうか。
きっと、そうなのだろうと思う。
けれどもし違っていたら、凪先輩はこの世界から消えてしまって、二度と会えなくなってしまう気がした。
よたよたと起き上がって、廊下を走る。
校舎には人の気配がない。
まだ昼間だったはずなのに、校舎を出る頃には何故か、燃えるような夕焼けがすぐそこまで迫ってきていた。
「凪先輩……」
凪先輩は、皐先輩が好きだったのかもしれない。
だから、一緒に死ぬことを選んだのかもしれない。
全部、憶測でしかないけれど、ともかく私にできることをしなければと思う。
駅までの道を時々道ゆく人たちにぶつかりながら走り、電車に飛び乗った。
あの時、夏の日。
向かった駅まで、電車に揺られる。
どんどん、空が暗くなってくる。
この電車は一体どこに向かっているのだろうと不安になるぐらいに、数駅を過ぎた頃には誰一人車内にはいなくなってしまい、外の景色もひたすら暗いだけだった。
今日は朝から曇り空だった。
星も、月明かりもない。真っ暗な闇の中を、ひたすら電車は進んでいく。
つり革が揺れ、向かいの窓に私の姿が映っている。
首にマフラーを巻いて、カバンを肩から下げた私は痩せていて小さくて、酷く無力に見えた。
プシュ、と音を立てながら、電車の扉が開く。
外に出ると、吐く息が白く靡いて消えていった。
本当に雪が降るのではないかというぐらいに、寒い。
街灯の頼りない灯が、時々暗くなっては明るくなることを繰り返している。
駅には誰もいない。無人の駅の改札を抜けて、一度だけしかきたことのない道を、記憶を辿りながら足早に進んだ。
はあはあと、自分の呼吸がうるさい。
ざ、ざ、と、波音が聞こえる。潮の香りが、鼻についた。
街灯の明かりがぽつぽつと点っているきりだけれど、徐々に暗闇に目が慣れ始めて、少し遠くまで見ることができるようになってくる。
一緒に並んで座った、防波堤が見える。
そこには、二人の人影が見えた。
「凪先輩! 凪先輩!」
大声で、凪先輩の名前を呼ぶ。
防波堤の先端までが、遠い。
心臓が、もっと酸素と血液が欲しいと悲鳴をあげている。
足がもつれそうになるのを叱咤して、真っ黒な波が押し寄せては飛沫をあげている防波堤を一直線に駆ける。
「駄目、先輩、駄目、まって、蓮水ちゃん……!」
皐先輩が、凪先輩の腕を掴んでいる。
私の声が聞こえているはずなのに、二人とも私の方を見ることはない。
誘うように、どこまでも暗い海へと、皐先輩は一歩踏み出した。
どうか、間に合ってと祈りながら、私は必死に手を伸ばす。
「蓮水ちゃん!」
私は、ぎゅっと凪先輩の腕を掴んだ。
皐先輩の姿が、暗い海の中に消える。
凪先輩は私のことなど気づいていないかのように、暗く揺れる海面を見つめている。
「行かなきゃ、俺も」
いつの間にか、凪先輩の手を掴んでいた私の手は、空を掴んでいたかのように離れていた。
ふらふらと、防波堤の向こう側に向かっていく凪先輩の腰に、私は抱きついた。
足が、空を踏み抜く。
違和感を覚えたのは一瞬だった。
私の体は、凪先輩に引きずられるようにして、冬の海の底へと、どぼんと落ちた。
全身が鋭い刺で刺されたような冷たさに息が詰まる。
詰まった息を逃そうとすると、ごぼりと一気に口から空気が漏れて、気泡がこぽこぽと水面へと登っていく。
ただただ、暗くて、深くて、冷たくて、苦しい。
意識が濁る。
閉じているのか開いているのかも分からない瞼の裏側に、白昼夢が浮かんだ。
◆◆◆
お皿の割れる音がする。
幼い私にはその音は、世界が崩壊したような爆発音に聞こえて、耳を両手でおさえてひたすらに震えていた。
皿の破片が、リビングに飛び散っている。
ソファの影に蹲る私の方まで白い割れた皿の死骸が飛んできて、私の足を浅く切った。
家の中は、怖い。
一頻り暴力に耐えているお母さんの小さな呻き声が聞こえなくなると、私の順番がくる。
「七瀬。怪我をしてる」
公園のブランコで一人きりで揺られていると、ハスミちゃんがやってきて、私の足の切り傷を見つけて言った。
「転んじゃったの」
にこにこしながら私は答えた。
知られてはいけない。
傷は足だけじゃなくて見えないところにいっぱいあるけれど、知られてはいけない。
「七瀬、……もしかして、酷いことをされているのか?」
中学一年生になったばかりの時のことだ。
私よりもずっと大人びているハスミちゃんは、まるで見知らぬ大人みたいな口ぶりで、私に尋ねた。
ブランコに揺れる私の足には切り傷がある。
相変わらずお皿は割れて、お母さんは静かに耐えていた。
「七瀬が悪い子だから、叩かれるんだよ」
私はへらへら笑いながらそう答えた。
「お父さん、最近あんまり帰ってこない。お母さんとは違う人が好きらしいよ。それでも、お母さんの実家がお金持ちだから、別れてくれないんだって。難しいことよくわかんないけど、だから、私とお母さんが死んじゃえば、良いんだってさ」
「……いつからだ、七瀬」
「わかんない。忘れちゃった。でも大丈夫だよ。私にはハスミちゃんがいるから。大丈夫」
「警察に行こう、七瀬」
「そういうことすると、もっと酷いことされるから、嫌」
「他にも傷があるんだろう?」
「うん、見る? ハスミちゃんは特別だから、見せてあげる」
私は服の裾をたくし上げた。
脇腹や背中に、ミミズ腫れの跡がある。
古いものから新しいものまであるそれは、プールの授業で見られてしまうと困るから、お父さんに命令されて、お母さんは皮膚の病気で水に入れないと、担任の先生に伝えているらしかった。
プールの水に入ったら、冷たくて気持ち良いのだろうなと思う。
けれど、醜く爛れた体を見せたら、きっと皆嫌がるだろうなとも思う。
「もう良い、七瀬。見せてくれて、ありがとう」
ハスミちゃんは、私の傷を見て息を飲んだ後、苦しそうに言った。
「逃げようか、七瀬。どこか、遠くに」
「ありがと。でも、大丈夫。学校は楽しいよ。皆、優しいし。ハスミちゃんも、いるから」
「ずっと気づかなかった。小さな時から傍にいたのに。ごめん」
「気にしないで。ごめんね、余計な心配させて。私は元気だよ。大丈夫。足も早いし」
陸上部に入ったら、腕を隠すために長袖のジャージを着ていることを体育教師に咎められた。
せっかく足が早いから、活躍できると思ったのに。
怒る男の人は苦手だ。
陸上部はもう辞めようと思っている。
私はこのまま、変わらない毎日が続いてくれたら、それで良い。
家の外にいる私が、本当の私。
難しいことはよく分からなくて、明るくて楽しくて、元気な私が、本当の私。
ハスミちゃんには、そんな私だけを見ていて欲しかった。
上手く隠せていたつもりなのに、駄目だったみたいだ。
「何もできなくて、ごめん」
ハスミちゃんは、私の手をそっと握って俯いた。
私の体の傷よりもずっと、ハスミちゃんの方が傷ついているように見えた。
それからしばらくして、お父さんは死んだ。
お母さんのお父さん、つまり、お爺ちゃんが、たまたまお父さんが興奮している時に家に来て、私やお母さんを守るために、お父さんをやっつけてくれたからだ。
警察の人たちがたくさん来た。
真っ赤に染まった私の姿を、大勢集まってきた近所の人たちと一緒に、ハスミちゃんは見ていた。
私の世界は、平穏になった。
お母さんは昔のことなんて全部忘れたように、のんびり屋さんになった。
外の世界だけが本当だった私は、家の中でも本当の私に戻ることができるようになった。
そして私は、いつも私のそばにいてくれたハスミちゃんが、好きだと気づいた。
◆◆◆
はっとして、目を見開く。
心の真ん中が、熱く燃えている。
暗い海の底で、それだけはどこまでも熱く、消えることを知らない炎のように、燃え盛っている。
それは、恋心。
そして、怒りだ。
気を失っている場合じゃない。過去に浸っている場合でもない。
私は今を生きていて、今の私は凪先輩が好きで、こんな風に命を奪われるのは間違っていると強く思う。
暗い海の中にいつの間にか月明かりが差し込んでいる。
呼吸を止めながら辺りを見渡すと、目を閉じて沈んでいく凪先輩の姿が見える。
手を伸ばして、その服を掴んだ。
ぎゅっと抱きしめると、白い手が凪先輩の背後からにゅるりと伸びた。
長い黒髪が、海中に海藻のように漂っている。
赤い唇が楽しげに弧を描き、黒い瞳が私をじっと見つめている。
「皐先輩、ごめんなさい。凪先輩は、まだ生きている。一緒には、いけない」
水の中にいるのに、口を開くと言葉を話すことができた。
言葉ともに水泡が、上へ上へと上がっていく。
「あなたは夢の中に迷い込んだのね。それとも助けに来たのかしら」
「皐先輩は、……本当は、死にたくなかったんでしょう?」
「そうね。馬鹿なことをしたと、思い続けている。こんなことをしないで、きちんと伝えていれば良かった」
「凪先輩に?」
「違う。……私が好きだったのは……」
皐先輩がそれを口にする前に、皐先輩の体は水泡のようにぼこぼこと膨れ上がって、消えてしまった。
私は腕の中の凪先輩を、きつく抱きしめる。
「起きて、凪先輩……、蓮水ちゃん……! 苦しくても辛くても、今度は私がそばにいるから! だから……」
「……どうして?」
薄らと目を開いた凪先輩が、私に尋ねる。
「俺はね、七瀬。結局、防波堤には行かなかったんだよ。いつもの冗談だと思っていたんだ、皐先輩の」
「凪先輩は、何も悪くない」
「皐先輩との約束を思い出すこともなく、暖かいベッドで寝た。次の日、女子高生の遺体が海岸で見つかったって、ニュースになっていた。俺は、皐先輩を、見殺しにしたんだ」
「違う、それは、違う……、凪先輩は、優しいから、だから」
「俺は、優しくない。結局、俺は……七瀬からも、逃げただろう」
「そんなこと、ない。でも、逃げても良い。良いの。私は、勝手に追いかけるから。迷惑だと思う。面倒くさいと思うだろうけど、私は」
私は――
「蓮水ちゃんが、好き」
凪先輩の腕が私の体に回り、きつく抱きしめられるのを感じた。
私たちは石だらけの海岸にびしょ濡れで打ち上げられて、抱きしめ合いながら横たわっていた。
半分ほど浸かった足元に、波が寄せては引いていく。
空には真っ赤な丸い月が、ポッカリと浮かんでいた。
気づくと、私は倒れたイーゼルの真ん中に、丸くなって倒れていた。
私を呼ぶ声に目を開くと、焦ったような表情を浮かべて私を抱きしめる、凪先輩の姿があった。
無事に冬休みを迎えることができた私は、凪先輩と共に防波堤に座って、真冬の冷たい風にふかれていた。
マフラーと手袋とコートにブーツ。
完全防備している私の足は、防波堤からぶらぶらと海に投げ出されている。
凪先輩はすらりとした体にロングコートを着て、私の隣に座って、コンビニの袋からまだ暖かい肉饅を私に渡してくれた。
「新発売の、具たっぷり肉まんですよ、凪先輩。なんとタケノコが入ってます。タケノコ、好きなんですよね、私。シャクシャクしておいしい」
「それは良かったな、七瀬。好きなだけ食べて良い」
「じゃあ帰りも買ってください。寒い中一緒に来てあげたんですから」
凪先輩の片手には、花屋さんで買った花がある。
花の種類とかは詳しくないので、それが何の花なのかはわからないけれど、青と白の綺麗な花束だった。
凪先輩は、花束を海に落とすと、手を合わせた。
花束を包んでいたビニールは破ってしまったので、バラバラになった花が、波間に飲まれて消えていく。
私も肉饅を口にくわえながら、慌てて手を合わせる。
肉饅を食べ終わってからにするか、それとも食べる前にするかにして欲しかった。
人を弔う態度としては、あまりに不敬だと思う。
皐先輩なら、笑って許してくれそうだけれど。なんとなく。
「……皐先輩のことが、好きだったとか、そういうわけじゃないんだ」
「そうなんだ。私はてっきり、凪先輩は片思いしていたのかと思っていました」
「多少の憧れはあったと思う。絵に対する信念があってどこか危うくて、綺麗な人だったから。よく声をかけてくれるのは、嬉しかったような気がする」
「皐先輩は、結局誰が好きだったんでしょうね」
「さあ。誰だろうな。……七瀬、去年皐先輩が亡くなった時から俺はずっと、罪悪感を感じ続けていた。七瀬を守ることができなくて、皐先輩まで死なせてしまった。俺には生きる資格なんてないとずっと思っていた」
「何を言ってるんですか、凪先輩は。少し、考えすぎなんですよ」
「同じ夢を、繰り返し見ていた。皐先輩と一緒に死ぬ夢を。……でも、夢の内容が、最近変わったようだ」
「どうかわりました?」
「美術部の部室に倒れているお前を見つけた日から、……夢の終わりに、お前が溺れる俺を、助けてくれるようになった」
「それは良かった。悪夢から凪先輩を助けた私はさながら、スーパーヒーローってやつじゃないですか」
凪先輩は、私が見た白昼夢のようなものについては、何も覚えていないらしかった。
だから私は、ただ夢を見ただけなのかと思っていたけれど――どうやらそうでもないらしい。
何にせよ、凪先輩はもう、皐先輩を描くのをやめるらしい。
八音部長にほとほと怒られたのだと、苦笑まじりに言っていた。
それから多分、夢の内容が変化したことも、何か関係しているのだろうと思う。
口の中に、肉饅の甘辛い肉汁と、椎茸の香りが広がる。
もくもく噛み締めると、タケノコがシャリシャリする。タケノコ入りの肉饅は、特別感があって良い。
「夢の中のお前は、俺のことが好きだと言っていたな」
「好きですよ」
「兄のような存在だから?」
「違いますよ。凪先輩がお兄ちゃんだったら、こういうこと、しません」
私は凪先輩のコートの襟を引っ張ると、無理やり唇を合わせた。
多分、肉饅的な味がしたんじゃないかなと思う。
離れようとしたけれど、そのまま強く引き寄せられる。
凪先輩の腕の中は、このまま二人で海に落ちても大丈夫じゃないかと思えるほどに、あたたかかった。
お読みくださってありがとうございました!
少しでも楽しんで頂けたら、評価ボタンなどをぽちっと押してくださると嬉しいです!




